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第59話 王様と、魔王

 夜明け前、王宮の北の通用門の前に、王様自ら、姿を見せた。


 いつもの煌びやかな赤紫のローブではなく、地味な茶色の外套に、頭巾を被っていた。胸元には、城下の老市民が身につけるような、ごく普通の麻の上着が覗いている。手には、相変わらず、半分皮を剥いたジャガイモを握っていた。


「王様、その格好は」

「ふぉっふぉ。儂が、ただの老人の姿で歩いておれば、民は安心して話しかけてくる。儂が民の声を聞くには、この格好が、最も適しておるのじゃ」

 彼は、ジャガイモを軽く掲げて、ふっと笑った。

「これだけは、儂の癖でな、許せ」

「いえ、王様の意気込みの証ですから」


 通用門の脇には、すでに数人の王宮兵が、商人の格好に変装して控えていた。布令は、もう既に、夜明け前の早馬で城下の四辻に貼り出されている。


 『目を合わせるな、声をかけられても返事をするな、聞こえなくなったふりをせよ』


 ゾルダンの「言葉」に取り込まれるのを防ぐための布令だ。


「では、参るぞ」

 王様が、頭巾をぐっと深く下ろした。通用門の重い扉が、ぎ、ぎ、と軋んで開いた。

 外の空気は、夜明け前のひんやりとした湿気を含んでいた。城壁の向こうから、薄く青みがかった朝霧が、流れ込んでくる。俺たちは、その霧の中へと、王様と共に足を踏み入れた。


◇◇◇◇


 城下町を歩く市民の表情は、皆、一様に固かった。

 誰もが俯きがちで、すれ違っても他人と目を合わせようとしない。布令が、ものの数時間で、ここまで徹底されていた。市場の露店の店主たちまで、顔をうつむけて代金のやり取りをしている。いつもなら賑やかな広場が、薄霧の中で、ひっそりと息を潜めていた。


 その静けさの中を、頭巾を被った老人――王様――が、ジャガイモを握って、ぽくぽくと歩いていく。俺たちは、その背後を、十歩ほど離れて尾けていた。


「アルテミスさん」

 俺は、横を歩くアルテミスに、低く尋ねた。

「ゾルダンは、釣れますかね」

「分からん。だが、ヤツは退屈を凌ぐ事を、目的にしている。新しい玩具らしき物を見つけたら、寄ってくる可能性はある」

「玩具、ですか」

「王様の老人姿は、ヤツにとっては、まだ会った事のない人物だ。興味を持つ余地はある」


 俺たちが二筋ほど進んだ時、王様が、ふと足を止めた。

 彼の前に、十歳ほどの少年が、青菜の籠を抱えて、立ち尽くしていた。少年は、王様と目を合わせまいと必死に俯いていたが、その肩は小刻みに震えていた。


 王様が、ジャガイモを腰の帯に差して、屈み込んだ。

「坊主、どうした」

「あの、声、かけないで……布令で」

「儂は布令の主じゃ、返事しても構わぬ」

 少年が、ぽかんと顔を上げ、頭巾の下の王様をまじまじと見つめた。

「お、王様……?」

「しっ。今は、ただのジャガイモ売りのじいさんじゃ」

「うちの……三才の妹が、動かないの。お母さん、泣いてる」

 王様の表情が、ぐっと引き締まった。頭巾の下で、彼の青い瞳が深く沈むのを、俺は見た。

「儂が、必ず起こす。王として、約束する」

 王様が、少年の頭を、大きな手でぽんと撫でた。少年が、しずかに頷いた。


 王様が、立ち上がって、また歩き出した。俺は、その背中を、改めて見つめた。そこには王の重みが、確かに宿っていた。


◇◇◇◇


 半時間ほど歩いて、城下の貧民街の入り口に、一行は辿り着く。突然、王様の前の路地から、何かが、ぽとんと、転がり出てきた。


 それは、彩色されたガラス玉だった。誰かが、わざと転がしたかのように、王様の足元で、ころんと止まった。王様が、ジャガイモを握り直して、それを見下ろした。


 路地の奥から、可愛らしい声が、聞こえた。

「あ、おじいちゃん、それ、ぼくのおもちゃ」

 路地の影から、ふらりと、五歳くらいの少年が、姿を見せた。


 絹の白い服。金色の柔らかい髪。雪のように白い肌。

 ゾルダンだった。俺の背筋に、すうっと冷たいものが走る。仲間たちが、息を呑んだ。


 王様は、頭巾の下から、にこっと笑った。

「おお、坊主。これは、お前さんのか」

「うん」

「拾ってやろうか」

「いいよ。じいちゃんが、拾うと――ぼくの言葉が効くから」

 ゾルダンが、にっこりと、王様に向かって、両手を広げた。

「ねえ、おじいちゃん、ぼくとあそぼ?」


 王様が、屈み込んだ。

 俺は、咄嗟に息を止めた。

 しかし王様は、ジャガイモを握ったまま、ガラス玉をつまみ上げて、ゾルダンに差し出した。

「ふぉっふぉ。坊主、儂は、お前と遊んでやってもよいぞ」

 ゾルダンが、ぱっと、目を輝かせた。

「ほんと!?」

「ただし――」

 王様の声が、不意に、低く沈んだ。

「儂は、お前の言葉に縛られぬ」

 ゾルダンの表情が、ふっと止まった。

「え?」

「儂は王じゃ。儂が遊ぶ時は、儂の意思で遊ぶ」


 王様の頭巾の下から、青い瞳が、まっすぐにゾルダンを射貫いた。王様は、自分の意思の強さだけで、ゾルダンの命令を、撥ね返そうとしている。


 しかし、ゾルダンはしばらく王様を見上げてから、ふっと興味を失ったように、唇を尖らせた。

「じいちゃん、つまんない」

「ふぉっふぉ。儂は、つまらん老人かもしれんな」

「ぼく、もう、あっちいく」

 ゾルダンが、ぱっとガラス玉を拾い上げて、サンダルをぱたぱたと鳴らした。彼の小さな体が、路地の影に、すうっと吸い込まれるように消えていった。


 しん、となる。


「逃げられたわね」

 アメリアが、剣を鞘に納めた。

 王様は、頭巾の下で、ふっと笑った。

「ふぉっふぉ。あの坊主、儂を、退屈な老人と判じたらしい。子供に振られたわい」

 その笑い声には、しかし、深い真剣さが混じっていた。


「だが、これで分かった事もある。ヤツは、自分の力が通じぬ相手から、すぐ離れる。あの子は——根本的に、孤独を恐れておる。退屈と孤独を、力でしか紛らわせぬ」

 王様はさらに続ける。

「足取りは、追えるはずじゃ。明日、夜が明けたら、ヤツを探そう」

 王様が、ジャガイモを、ぐっと握り直した。俺たちは、深く頷いた。




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