第58話 王様、男気を見せる
ゾルダンが消えた後、広場には不気味な静けさが残った。
桜の花びらが、彼の立っていた場所に、ふわりと降り積もる。誰も、すぐには口を開けなかった。アメリアが剣の柄から手を離して、深く息を吐いた。アイリーンは胸の前で両手を組んで、まだ少し震えている。サラがおそるおそる「クワッ」と短く鳴き、サラダがその羽の下に頭を突っ込んだ。
俺は、しばらく桜の幹を見つめていた。あの少年が消えた場所の空気が、ほんの僅かだけ、他の場所より冷たい気がした。
「とにかく、王宮に戻ろう」
アルテミスが、ようやくふつうの声を出した。
「ここに留まって、彼にまた呼ばれては、たまらん」
「そうね。王様にも、ゾルダンの事を、報告しないと」
アメリアが頷いた。
俺たちは、避難民たちを起こさないように、広場をそっと後にした。歩きながら、俺は何度も、桜の方を振り返った。
◇◇◇◇
王宮に戻り、王様の謁見の間に通された。
既に夜の九時を過ぎていた。それでも王様は、玉座から身を乗り出して、机に広げられた巨大な王都の地図を、深く睨んでいた。地図のあちこちに、赤い印が、無数につけられていた。
「おお、勇者殿よ。何か分かったか」
王様の眉根は、深く寄せられていた。机の上には、半分皮を剥いたジャガイモが一つ、置きっぱなしになっている。
俺は、桜の木の下での出来事を、できる限り簡潔に伝えた。南の魔王の正体は、五歳くらいの少年である事。彼は言葉で人を動けなくする能力を持つ事。アルテミスにだけ、その能力が効かない事。
話を聞いた王様は、深く長い息を吐いた。そして、地図の上の赤い印を、指でとんとんと叩いた。
「この印は、今日、市民から報告のあった『動かない人』の発生場所じゃ」
「これだけ、ですか」
「半日で、二百を超えた」
地図の上の赤い印は、王都の中央広場から始まって、放射状に、街全体に広がっていた。
「儂は、長年、この椅子に座っておる」
王様が、ぽつりと呟いた。
「今まで……儂なりに、民の顔を覚えてきたつもりじゃ」
彼の声から、いつものふぉっふぉっとした調子が、ふっと消えていた。代わりに、玉座の重みを六十年背負ってきた、低く深い響きだけが、残っていた。
「五歳の、子供か」
「はい」
「困ったの。剣を抜くにも、とまどうわい」
「我々も、同じ気持ちです」
「うむ」
王様は、ジャガイモを、指先でくるりと回した。
「儂、決めた事がある」
「な、なんでしょうか」
「儂、戦う」
俺は思わず王様の顔を見直した。
「戦う、と言いますと」
「うむ。儂の臣民が、城下で動けなくなっておる。儂が、安全な王宮に閉じこもっておって、勇者殿だけに任せるわけにはゆかぬ」
「いや、王様は、王宮に」
「そうはいかん! 儂は、生まれて初めて、王として男気を見せるのじゃ!」
王様が、ぱっと立ち上がって、机の上の半分のジャガイモを、ぐっと握りしめた。
「これが、儂の武器じゃ!」
アメリアが、横で半目になった。
「タクヤ。あれ、ジャガイモよ」
「うん、見えてる」
「武器じゃ、ないわよ」
「うん、知ってる」
「でも、心意気はいいわよね」
「だな」
しかし、王様の目は、笑っていなかった。
ジャガイモを握ったまま、彼は、しずかに俺たちを見回した。
「勇者殿。儂の話を、聞いてくれ」
「はい」
「あの少年は、本当に憎悪で人を止めとるのか。儂には、そうは見えん」
俺は、息を呑んだ。
あのおちゃめな王様が、たった一度、桜の木の下のゾルダンの報告を聞いただけで、もう、その本質に気づいていた。
「あれは、何かを知らされぬまま、自分の力を、振り回しておる子供じゃ」
「……」
「だとすれば、討つべきは、あの子ではない。あの子の後ろにおる者じゃ」
「ダグラス、ですね」
「うむ」
王様が、地図の南西の隅、何も書かれていない空白の領域を、指で示した。
「古文書に、ダグラスの本拠地は、王国の地下深くにあると記されておる。儂はそれを、長年、ただの伝承だと思うておった。じゃが、四魔王が立て続けに堕とされ、最後の魔王が、こんな形で送られてきた。これは、もはや、伝承では片づけられぬ」
彼の目は、地図の空白を、深く、深く、見据えていた。
俺は、しばらく、何も言えなかった。
いつも、ジャガイモ片手にふぉっふぉっと笑っているこの王様の中に、こんなにも鋭い洞察と、王としての覚悟が潜んでいたとは。
「勇者殿よ」
王様が、視線を地図から外して、俺の目をまっすぐに見た。
「明日、儂も、城下に降りる」
「えっ」
「儂が市民の前に立てば、皆、少しは落ち着く。それに、ヤツが儂を狙ってくれれば、勇者殿の動きも楽になる」
「囮、ですか」
「うむ」
俺は、絶句した。
「そんな、王様を囮になんて」
「勇者殿。儂は、この六十年、この椅子の重さを、果たし切ってきたとは思うておらぬ。儂が、本気で王として動くのは、今夜から、明朝にかけてじゃ」
王様の目が、引かなかった。
「分かりました」
俺は、深く頭を下げた。
「俺たちも、明朝、城下に出ます。手はずはお任せします」
「うむ」
「ただ、王様」
「なんじゃ」
「そのジャガイモは、武器として使わないでくださいね」
「ふぉっふぉ。これは、儂の心の支えじゃ。武器ではない」
王様が、ジャガイモを大切そうに、両手で包み込んだ。その仕草に、また、いつものおちゃめさが、ふっと戻ってきた。しかし、彼の目の奥には、深い覚悟の炎が灯っていた。




