第57話 ただ一人、動ける男
ただ一人――。
俺の左後方で、アルテミスだけが、首を傾げてこちらを振り返ろうとしていた。
「うん? 何だ、これは」
彼が、何の異変もなく、ふつうに歩いて俺の隣に来た。少年を見下ろし、また俺たちを見回した。
「皆、急に黙ったな。お前たち、まさか、これに怯んだのか?」
ふつうの声だった。
俺は内心で、心臓の鼓動だけが激しくなっているのを感じていた。声を出したい。アルテミスに「あんただけ動けるなら、こいつをなんとかしてくれ」と頼みたい。しかし、唇すら震わせる事ができない。
少年が、つまらなさそうに頬を膨らませた。
「あれぇ? おにいちゃん、なんで動けるの?」
彼は、初めて困った顔をした。
「みんな止まったのに、おにいちゃんだけ、止まらない」
「私が止まる理由が、あるのか?」
アルテミスが、ふつうに聞き返す。
「だって、ぼく『あそぼ』って言ったよ?」
「言ったな」
「『あそぼ』って言われたら、みんな、ぼくと遊ばなきゃいけないんだよ?」
「そうなのか。それは、お前の決まりなのか」
「ぼくの決まりじゃないよ。世界の決まりだよ」
「ふむ。私の知る世界の決まりとは、違うようだ」
少年は、首を傾げてアルテミスを見上げた。可愛らしい顔の奥で、何かを必死で測ろうとしているのが、俺にも分かった。
やがて、彼はぱっと表情を切り替えて、にっこりと笑った。
「あ、わかった! おにいちゃん、ぼくと同じだ」
「同じ、とは」
「おにいちゃんも、ぼくみたいな、特別な人なんだ」
「特別……ね」
アルテミスは、ふっと薄く笑った。その笑みには、千年前を生きていたかのような苦みがあった。
「私は、二十年もの間、漆黒の塔のローン、月々一万ゴールドを払い続けた魔王だぞ。特別とはいえんな。まじめに勤め上げただけだ」
「えっ、まおうなの?」
「元、だがな」
「すごーい! ぼくも、まおうだよ!」
少年が、ぱっと両手を広げて、自分の胸を反らせた。誇らしげな仕草だった。
「ぼくはね、ゾルダン! みなみのまおう!」
夜風が、ふっと冷たく吹き抜けた。
桜の花びらが、ゾルダンと名乗ったその少年の頭の上を、ひらひらと舞い落ちた。
俺は石像のまま、心の中で奥歯を噛んだ。
最後の魔王。
南の魔王が、こんな形で、こんな顔で、目の前に立っている。
「南の魔王か。お前が、王都の砦の人間どもを、動けなくしたのか」
「うん! ぼくね、『うごかないで』って言ったの。みんなまだ起きてないだけだよ。あとで起こしてあげるよ?」
「起こす予定は、あるのか」
「うーん、ぼくが、もう一回そう言えばね。でも、もう興味ないんだー」
ゾルダンが、つまらなさそうに片足で地面を蹴った。靴の先で、桜の花びらを一枚、宙に蹴り上げる。花びらが彼の手のひらに落ち、彼はそれを大切そうに眺めた。
「ねえ、まおうのおにいちゃん。みんな、止まったままだとつまんないよ。ぼく、おにいちゃんたちと遊びたいんだ。みんな、起こしてあげようかな」
「お前は、なぜ私たちと遊びたいのだ」
「えっとね、ぼくね、ずーっと一人で遊んでたの。ダグラスのおとうさんは、忙しいの。だから、いっつも、ぼくひとり」
「ふむ」
「でも、見つけたの。みんな、いっぱいいる。楽しそう」
少年は、にっこりと笑った。
その笑顔は本物の、子供の笑顔のように見えた。けれど、瞳の奥の闇は何ひとつ晴れていなかった。
「だから、いっしょに、おままごとしようね」
彼が片手を、ぱっと振り上げた。花びらが、夜の空気に押し戻されるように散った。
次の瞬間、俺の体が、ふっと自由を取り戻した。
アメリアも、アイリーンも、サラも、サラダも、全員が一斉に大きく息を吸い込んだ。
誰も、何も言えなかった。
ただ夜風だけが、桜の木を揺らしていた。
ゾルダンは、もうそこにいなかった。
桜の幹の影に、すうっと吸い込まれるように消えていた。
最後に、彼の小さな声だけが、誰のものでもない場所から、こだまのように響いた。
「またあそぼうね、おにいちゃんたち。すぐにね」




