第56話 無邪気な怪物
桜の花びらが、夜風に乗ってゆっくりと舞い散っていた。
広場の篝火が、その花びらを下から赤く照らし、まるで火の粉のように夜空へと昇っていく。空には月が淡くかかっていたが、地上の火の明るさには負けていた。
あちこちのテントから、避難民の家族たちのささやかな話し声と、すすり泣きが、低く流れていた。
砦から逃げ延びてきた人々は、皆、目の下に深い隈を作っていた。母親が乳飲み子を抱きしめて子守歌を口ずさみ、隣のテントでは老人が若者の肩を借りて石畳に座り込んでいる。怪我をした男が呻きながら水を求める声に、別のテントから医師が走り寄っていく。
広場の中央では、王宮から派遣された炊き出しの兵が、巨大な釜でスープを作っていた。湯気が篝火の光に照らされて、白く立ち上っていく。
俺たちは、そんな広場をゆっくりと歩きながら、避難民の様子を見て回っていた。
アメリアが、若い母親の前にしゃがみこんで、何か声をかけている。母親は気丈に頷きながらも、目の縁が赤くなっていた。
アイリーンは怪我人の傍で、女神の杖を当てて、軽い痛みを取り除いている。
アルテミスは、子供たちにパンを配って回っていた。元魔王が、避難民の子供にパンを差し出すと、子供たちは初めキョトンとし、それから恐る恐る受け取って嬉しそうに齧りつく。その光景を、俺はしばらく眺めていた。
砦が陥落したという報せは、夕方には王都中を駆け巡ったらしい。
それから僅か数時間で、これだけの数の人々がこの広場に押し寄せた。彼らの目に映っているのは、家を失った絶望よりも、もっと深い恐怖だった。
「動けなくなった、家族を残してきた」
ある老人が、震える声でそう繰り返していた。
「動けないんじゃ。立ったまま、ぴくりとも、動かないんじゃ。死んどるわけでもない。じゃが、声をかけても、揺すっても、何も反応せんのじゃ」
その話を聞きながら、俺の背中には、すうっと冷たいものが伝っていた。
四魔王の中でも、これまでに経験した事のないタイプの能力だ。
ふと、俺の視線が、広場の一角で止まった。
広場の北の端に、一本の大きな桜の木が立っていた。
その太い幹の下で、一人の小さな少年が、こちらに背を向けるでもなく、ただ静かに立っている。
その全てを背景にして、桜の木の下の小さな少年だけが、不思議なほど静まり返っていた。
俺は息を止めて、少年から目を逸らせずにいた。
彼は、五歳くらいだろうか。金色の柔らかい髪が、夜風に揺れている。頬は薔薇色で、肌は雪のように白い。上等な、けれど少し皺の寄った絹の服を身につけている。一目見れば、迷子になった貴族の坊やにしか見えない格好だった。
しかし、彼の瞳だけが、その全てを台無しにしていた。
深い青色のはずのその瞳には、光が一つも宿っていなかった。底のない井戸を覗き込んだような、冷たい虚ろさだけがあった。
「タクヤ、どうしたの?」
炊き出しの列の傍から戻ってきたアメリアが、俺の視線の先を追って眉をひそめた。
「……あの子」
「ん?」
「変だ」
俺は声を低くした。
「目を、見てくれ。あれは、子供の目じゃない」
アメリアの手が、すっと剣の柄に伸びた。
彼女の剣士としての感覚も、何かを察し始めたらしい。
その少年が、俺と目を合わせたまま、ゆっくりと一歩、こちらへ歩み出した。
絹のサンダルが、石畳をひそやかに打つ音が聞こえる。
もう一歩。
また一歩。
「タクヤ、下がりなさい」
アメリアが、囁くようにそう告げた。彼女の額にはもう、汗の粒が浮かんでいる。
しかし俺は、なぜか動こうとしなかった。
いや、動かない、というよりも、動く必要を感じなかった。目の前のあの少年は、ただの迷子の貴族の坊やじゃないか。剣を抜くなんて、大人げない。むしろ、優しく声をかけてやって、両親の元へ連れて行ってあげるのが筋というものだろう――。
その瞬間、俺は気づいた。
今、自分の頭の中に湧いたその「思い」が、自分のものではない、ということに。
少年が、目の前まで歩いてきていた。
顔を上げると、俺の腰のあたりにしか頭が届かない。それなのに、見下ろされているような錯覚がした。
彼は俺を見上げて、にこっと笑った。前歯の一本が、まだ乳歯から抜け替わっていない。
「おにいちゃん、ぼくとあそぼ?」
舌足らずな、けれど嬉しそうな声だった。
その声が、俺の鼓膜の奥で、何か硬いものに変わって、頭の中をぐるりと回した。
「ぼくとあそぼ」
彼がもう一度、同じ言葉を繰り返した。
その瞬間、俺の体から、力という力が一斉に抜けていった。
手の指が動かない。膝が固まる。瞼を閉じる事すらできない。
舌の奥が、痺れたように動かなくなる。
俺だけではない。横で剣を抜こうとしたアメリアの腕が、抜きかけのまま止まっている。アイリーンの聖なる杖を握る手も、宙で固まっている。サラの羽が広げかけのまま静止し、サラダはぴーっと鳴こうとしたままの口を開けて、しんと固まった。
全員が、まるで石像になったように、夜の広場に静止してしまった。




