第49話 欲望の魔法、クリムゾン・キス
◇◇◇◇
階段を、最上階までずっと上がった。そこには薔薇の扉があり、カミラが、扉を開けて俺を招き入れる。
部屋の中は、想像していた以上に、退廃的だった。
床一面に、真紅の薔薇の花びらが、敷き詰められていた。歩くと、ふっと、舞い上がる。部屋の中央には巨大なベッドがあった。シーツや枕はシルク。天蓋には、薔薇の蔓が絡みついている。
四隅に置かれた香炉から、甘いくて深い香りがもうもうと立ち上っている。窓はステンドグラスで、月明かりが、青と、赤と、紫の模様を床に落としていた。
カミラが、扉を内側からぱたりと閉めてかちゃりと鍵をかける。
「ふふ、これで、二人っきり♪」
彼女が、振り返って、笑った。
俺は、ベッドの手前で立ち尽くした。
カミラは、薔薇の花びらの上を、半透明のドレスをふわりと揺らしながら滑るように迫ってくる。そして、俺の真ん前で立ち止まって、胸元に指をすっと当ててささやいた。
「ねえ、勇者さん。あたしね、あなたが気に入ったの」
「……」
「だから、今夜、あたしのモノに……なってほしいの♪」
彼女の指が、俺の胸を、つつ、と撫でた。俺の体に、ぞくっと電流のような刺激が流れる。
(落ち着け。これは、彼女の魔法だ)
俺はぐっと、奥歯を噛んだ。
「カミラ」
「ん?♪」
「あんたの魔法は……」
「ふふ、もう気づいたの♪ あたしの魔法は、『クリムゾン・キス』」
彼女が、艶っぽく、ささやいた。
「触れた相手の欲望を、最大限引き出して、あたしのモノにする魔法♪ 今、あなたの体、勝手にあたしの方に傾いてるでしょ?」
言われて、気づいた。
俺の体が、勝手に、彼女の方に少しずつ近づいている。
頭が、白く、霞んでいく。
「あらん♪ 効いてるみたいねぇ♪ ふふ、こっち、おいで?」
彼女が、俺の手を握って、ベッドの方へ引き寄せた。俺の体は、もはや抵抗できずに……ベッドの縁に座らされた。そして、俺の隣にすうっと腰を下ろして、甘い吐息と共に顔を近づけてくる。
頭の中が、もう、限界だった。
目の前に、彼女の紫水晶の瞳。
長い赤紫の髪が、俺の頬をくすぐる。
彼女が、ふっと目を閉じた。
唇が、ゆっくりと、近づいてくる――。
その時。
俺の頭の中に、ひとつの場面が、ぱっと、フラッシュバックした。
昨日の夜明け前。
たき火の前で、アメリアが、ぽつりと語ってくれた声。
『私の傷は、母さんが……最後の最後に、命と引き換えに守ってくれた、その証』
次に。
彼女の、頬を伝う涙。
その次に。
彼女の言葉。
『もうすぐ、母さんに……いい報告ができるかもしれない。タクヤと、いい関係になってるってね』
俺は、奥歯を噛みしめた。
その瞬間、頭の白い霞が、ふっと晴れる。
俺は、カミラの肩を、両手で、しっかりと押し戻した。
「ごめん、カミラ」
「……あら?」
彼女が、目を開けた。
驚いた顔をしていた。
「あんたも、綺麗だ。本当に、綺麗だ」
「……」
「でも、俺には……好きな人がいるんだ」
しん、となる。
カミラが、しばらく、無言で俺を見つめていた。やがて、彼女の表情から、艶っぽさがふっと消える。
しばらくして、彼女が、ふっと笑った。今度の笑顔は、最初のとは違っていた。なんだろう。寂しい笑顔。
「……あらまあ。勇者さんに、振られちゃうのね♪」
彼女が、ベッドから、すっと、立ち上がった。
「初めてよ。あたしの『クリムゾン・キス』、効いた状態で、はねつけられたの」
「……」
「あなたの『好きな人』って、誰?」
「それは……」
「あら、三段斬りのお嬢さん? 可愛い子ね」
「ああ」
カミラが、ふっと、自分の唇に指を当てた。彼女の頬が、ほんのり薄く染まっていた。
俺は、ポケットから、シエルから預かった、銀の鍵を取り出した。
「これ」
「……」
「シエルから貰った。あんたの私室の鍵だって」
カミラの瞳が、一瞬、ぴくりと揺れた。
「……シエル?」
「青薔薇の」
「……あの子が、あなたに渡したの?」
「ああ」
「……そう」
彼女が、すうっと目を伏せた。
しばらく、無言だった。
彼女の頬が、ほんの一瞬、本物の悲しみでぴくりと動いた。それを、俺は見逃さなかった。
「カミラ。あんた、シエルのこと、本当に可愛がってたんだな」
「……」
「あの子、最期に……これを渡しながら、こう言ったよ。『カミラ様も、心の奥に傷を抱えている。お前たちが、何か変えられるかもしれない』って」
「……」
「あの子、あんたの事をずっと心配してた」
カミラが、両手を口元に当てた。
彼女の瞳から、薄く涙がにじみ出た。
しかし、彼女はすぐに、それをぐっと堪えて顔を上げる。いつもの、艶やかな表情に、戻っていた。
「……いいわ、勇者さん」
「ん?」
「今夜は、解放してあげる。あなたの、仲間さんたちも、ちゃんとお返しするわ」
「……ありがとう」
「でも、明日――」
彼女の、紫水晶の瞳が、ふっと、深く鋭くなった。
「あたしと、本気で戦いましょう?」
「……ああ」
「正々堂々と。あたしも、本気を出すわ」
「分かった」
◇◇◇◇
俺が、扉を開けた瞬間。
カミラが、後ろから、ぽつりと声をかけた。
「ねえ、勇者さん」
「ん?」
「あなたが、心に思い浮かべた、その人。本当に、あなたを愛してる?」
「……」
「あなたの、ただの欲望じゃなくて?」
彼女の声が、なんだか儚かった。なぜか、千年生きてきた魔王の声、ではなく——深く傷ついた女性の声のように聞こえた。
「……たぶん、愛してくれてる」
「なぜ、そう言える?」
「彼女は、俺の夢を真剣に受け止めて、支えてくれる。俺も、彼女の傷を受け止めて、支えたいと思っている」
「……」
「それは、欲望じゃなくて」
「……」
「お互いが必要としている。そんな関係だから」
彼女が、目を伏せた。
「……そう」
扉が、閉まる間際。
彼女の、最後の呟きが聞こえた。
「羨ましいわね♪」
その声は、いつもの、艶やかな響きとは違い——なんだろう。ほんの少しだけ震えていたように思えた。




