第31話 偽りの欲望
その時、強烈な平手打ちが、俺の頬に飛んできた。
パッチィイインッ!
「いだぁッ!」
俺は、現実に引き戻された。
目の前には、アメリアのものすごい形相。
「あんたっ! いつまでぼーっとしてるのよ!」
「あ、あれ……俺、契約書、サインしようとしてた……」
「契約書って何よ! 夢でしょ、それ!」
俺はようやく状況を理解した。
ぼたりと、握っていた何かが地面に落ちる。よく見ると、それは契約書でも何でもない、ただの薔薇の花びらだった。
「……」
「あんたねえ、しょせきか、あにめか、とかぶつぶついいながら、即落ちしてんじゃないわよ!」
「いや、書籍化、アニメ化は――俺の人生の夢だから!」
「意味わかんないわよ、もう!」
アメリアの後ろで、まだアルテミスが、虚空に向かって、グレッグ、グレッグ、と呟いている。
「アルテミスさん、しっかりして!」
アイリーンが、必死で揺さぶるが、全く効かない。思わず振り返って、リリアを睨みつける。
「あなたねぇ、これは酷いですわ」
「あらん? 今度は、アイリーンさんの番ですわよ♪」
リリアの視線が、アイリーンに向く。
次の瞬間、アイリーンの目の前に、誰かが現れた。
俺たちには見えない。が、アイリーンの瞳が、見開かれ、潤んだ。
「お、女神様ぁ……!」
ああ、女神様か。
「アイリーン、よく頑張りましたね。さあ、知恵の泉に戻りなさい」
「は、はい、女神様……すぐに、戻ります……!」
アイリーンの体が、ふらりと前に倒れる。
「アイリーン、これは偽物だ!」
俺は叫んだ。
「分かってますわよ!」
アイリーンが、振り向きざまに答えた。
「えっ、分かってんの!?」
「分かってますわ、けど、偽物でも、女神様に会えるなら、一回ぎゅってしたいんですわ! あと一秒、お待ちなさい!」
「……うーん、仕方ないな……」
アイリーンが、虚空の女神様に、両手を広げて飛びつこうとする。が、しっかり俺が後ろから羽交い締めにする。
「離してくださいませ、タクヤ! ちょっとだけ、ちょっとだけ!」
「ダメだ! 戻ってこい!」
「うわぁぁぁ、女神様ぁぁぁ!」
その騒ぎの間、アメリアが冷静に、剣を構えていた。
「タクヤ、私がリリアを抑えるから、アイリーンとアルテミスをなんとかして」
「了、了解!」
「あら、アメリアさん。あなたは……幻にかからないんですの?」
リリアが、不思議そうに首を傾げた。
「かかったわよ、最初に。両親の幻がね。でも、もう目を逸らしたから」
「……まあ、強い方ですわね」
「あなたも、強そうね」
アメリアが、地を蹴った。
「一段ッ!」
「あらん、お元気ですこと♪」
リリアが、ふわりと舞い上がる。背中の白い翼が広がっていた。空中で、紫の煙を放つ。
「眠りの薔薇♪」
煙がアメリアを包む。アメリアの動きが、わずかに鈍る。
「くっ……」
「危ない!」
俺は思わず叫んだ。
集中しなければ。
今、必要なのは、リリアの魔法を、無効化する――何か。幻と眠りの、両方を断ち切る――何か。
俺は、ぐっと拳を握った。
頭の中で、強くイメージする。すべての偽物を見破る、真実の――。
「イマジナリースキル! いでよ、真実を映す、鏡ッ!」
ぼん、と空中に何かが現れた。
ずっしりと地面に落下したのは――でかい、姿見だった。
全身が映る、立派なフレーム付き。鏡の表面には、なぜか「真実」と書かれた札が貼ってある。
……いや、これ、ただの鏡じゃないか? いや、でも。
「リリア、これ、見ろ!」
俺は、鏡をリリアの方に向けた。
鏡が、リリアの周囲の魔法効果を反射する。
その瞬間、リリアが空中で、はっとした顔をした。
「……あら?」
鏡の中に映っているのは、リリアの幻のはずだった、はず。ところが、鏡に映ったその幻が、勝手に動き出した。
「おやおや……こんな顔、でしたか?」
虚空の老執事の幻、グレッグが、鏡の中で、自分の顔を触っている。
「もっと、男前だったはずなんですけどね」
次に、編集者の五十嵐さんの幻が映る。
「あれ、ぼくの眼鏡、こんなに分厚かったっけ?」
最後に、女神様の幻。
「あらやだ、私、ちょっと、髪型がおかしくない?」
幻たちが、勝手に、自意識を持ち始めて、それぞれ自分の見た目を気にし始める。
「もう、こんな姿で、出たくはありませんな」
「ぼくも」
「私もよ」
幻が、自主的に消えていく。
「あ、あらぁぁぁっ!?」
リリアが、目を丸くする。
「何ですの、その、謎の鏡!」
「効けばいいんだよ!」
……
アメリアの動きが戻った。
「今だ、アメリア!」
「了解!」
アメリアが、地を蹴る。
「一段ッ!」
「ぐぅっ!」
「二段ッ!」
「あぁっ!」
「三段斬りィッ!」
三撃目が、リリアを捉えた。
リリアが、空中で、ふらりと墜ちる。
白い羽根が、ぱらぱらと舞い散った。
地面に降り立った時、リリアは、もう戦う気力を失っていた。
「……負けました、ですわ」
彼女は、薄く微笑む。
「お見事です。あなたたち、本当に、強いのですね」
その瞬間、ようやくアルテミスが、夢から覚めた。
「……あれ、ここは……」
「アルテミスさん、戻ったか」
「グレッグは……」
「悪いな、それは幻だ」
「……そうか」
アルテミスは、ゆっくりと立ち上がった。目尻に、わずかに涙が残っていた。
「いや、もう、十分だ。グレッグの言葉を……もう一度聞けた。それで十分」
アイリーンも、ようやく落ち着いて、頬を膨らませている。
「あぁもう、女神様、もうちょっとで、ぎゅぅぅぅってできましたのに」
「おいおい、未練がましすぎだろ」
リリアが、紫の煙に、ゆっくりと変わり始めていた。
俺の方に、視線を向ける。
「勇者さん」
「ん?」
「あなたたち……愛し合って、いるのね」
「……」
「本物の愛は……私たちには、壊せないのね……」
彼女は、最後に、ふっと、優しく微笑んだ。
「心の魔法、イルミナージュは……偽りの欲望に取りつく魔法。あなたたちは、真実を知ってそれを克服したのよ。この先も、がんばってね」
リリアの体が、紫の煙となって、空に消えていった。残されたのは、橋と、白い大理石と、舞い散った白い羽根——そして、真実を写す鏡——というか、ただの大きな鏡。
アメリアが、ぽつりと呟いた。
「……この愛が……真実、というコトなのね」
俺は首を傾げた。
「……?」
ふと、街道の先を、見つめる。ようやく一人。しかし、まだ三人いる。俺たちはさらに気を引き締めた。




