第30話 白薔薇のリリア、心の幻
アルテミスの目が、すうっと焦点を失った。
彼の目の前の風景は、橋から——見慣れた、漆黒の塔の最上階に切り替わっていた。
「……これは……」
アルテミスが呟く。
目の前に、一人の老人が立っていた。
長い白髪を後ろで束ね、品のいい執事服を着ている。皺の刻まれた顔に、温和な微笑み。
「グレッグ……」
アルテミスが、震える声で呟いた。
「お待ちしておりました、アルテミス様」
老執事が、深々と頭を下げる。
「お一人で、ずっと、頑張ってこられましたな」
「お前……お前は……もうすでに辞めて行ったはずだが……」
「左様でございます。手前は、もう、お屋敷の主人が魔王になるのを、見ていられぬと思っておりました」
「だが、今は……」
「はい。あの世から、戻って参りました。アルテミス様が、もう……魔王ではなくなったと、聞き及びましたゆえ」
アルテミスの瞳が、揺れる。
俺たちには、何も見えない。ただ、アルテミスが、虚空に向かって、笑顔と涙の入り混じった顔で話しているのだけが見える。
「グレッグ……お前は、いつも、私の話をちゃんと聞いてくれた……たった一人の相手だった」
「もったいないお言葉でございます」
「魔王になる、と決めた夜も……お前は、止めはしなかった。そして……私の元から去る時に、こう言ってくれた。"いつでも、戻ってこられる場所として、私はここにおります"と」
「はい。そう申し上げました」
「お前、ずっと、待っていてくれたのか」
「もちろんでございます」
「グレッグ……グレッグ……」
アルテミスが、その場に、崩れ落ちた。膝をついて、虚空の老執事に縋りつこうとする。
「いや、これ、偽物だぞ、アルテミス!」
俺は思わず叫んだ。
その言葉はアルテミスには届かない。代わりに、柔らかい笑みとともに、宙に向かって語りかけている。
「グレッグ、戻ろう、屋敷に。お前と、もう一度……お茶を飲もう」
「……あら、もう一人、いきましょうか♪」
リリアが、にっこり笑う。
「タクヤさん、あなたの番ですわ♪」
◇◇◇◇
目の前の景色が、また、ぐにゃりと歪んだ。
気づくと、俺は、見覚えのある喫茶店にいた。前世で――いつもラノベの原稿を書いていた、駅前のチェーン店。コーヒーの匂い。窓の外を走る車。BGMはジャズ。それほど前のコトでもないのに、なぜか懐かしくて、息が止まりそうになる。
俺の前に、見知らぬ男が座っていた。
四十代くらい、メガネをかけたスーツ姿。その手には——俺がカクマルに投稿していた『転ポテ』の、印刷した原稿の束。
「東タクヤさん、ですね?」
「は、はい、そうですけど」
「初めまして。羽田出版、ライトノベル編集部の五十嵐と申します」
男が、すっと名刺を差し出した。
「カクマルで、貴方の『転ポテ』を拝見しました。素晴らしい才能だと思いまして。是非、書籍化をお任せいただきたい」
「ええっ!」
俺の心臓が、跳ねた。
書籍化。
憧れの、人生の目標。
俺、スカウト、待ってたんだ。ずっと、ずっと――毎日サイトの閲覧数を確認しながら。
「先生、今のうちに契約しましょう。挿絵は、人気イラストレーターの、しおざき先生に依頼してあります。シリーズ化、コミカライズ、アニメ化まで、すでに視野に入っております」
「アニメ化……」
俺の頬が、勝手に緩んだ。
「主題歌は、人気アーティストに打診中です。声優は、貴方の希望で決められます。ポテトサラダ姫役、誰がいいですか?」
「ええと、ええと……」
すべての夢が、目の前に、ある。
その時、遠くから、声が聞こえてきた。
「タクヤぁぁぁ!」
誰だろう、聞き覚えのある、女の子の、声――。
「あの、五十嵐さん、ちょっと、外で誰かが」
「気にしないでください、先生。ここは、貴方と私だけの空間です。さあ、契約書に、サインを」
五十嵐さん(?)が、契約書を差し出した。
俺は、ペンを取った。
「タクヤぁぁぁっ!」
その声が、近づいてきた。
俺は、ペンを握ったまま、振り返った――。
◇◇◇◇




