第19話 アメリアの涙
絨毯は、しばらく空を飛んだあと――森の境界らしき場所で、ぼたっと地面に落ちた。乗ってた俺たちも、もちろん、ぼたぼたと落ちる。
「いったぁ……」
「お尻、打ったわ……」
「卵は、無事ですか!?」
「クワッ!」
卵は、サラがちゃんとお腹で受け止めたらしく、無事だった。
俺たちは、しばらく地面に座り込んで、息を整えた。絨毯は、なんだか満足したように――ふわふわと、その辺を漂っている。これも、たぶん、永遠に消えないやつだ。
灰色の霧はようやく、薄くなっていた。空に、青みが戻り始めている。森の境界線を越えたらしい。黒霧の森を抜けた、その境界には、半ば朽ちかけた古い狩人小屋があった。屋根はかろうじて残っていて、雨はしのげそうだ。
俺たちは、そこに身を寄せることにした――誰も、口を、開かない。
アメリアは、入ってからずっと、奥の壁にもたれて、剣を抱えたまま、床の一点を見つめている。話しかけても、生返事しか返ってこない。
アルテミスは、入り口の傍に座って、自分の手のひらをじっと見つめていた。
アイリーンだけが、何とか場の空気を変えようと、ぱたぱたと動き回り、片付けらしきことをしている。が、本人も、たぶん無理をしている。
俺は外で薪を割り、湯を沸かし、簡素な風呂を用意した。幸い、小屋の裏には雨水を溜めた木の桶があった。蓋をして、火で温めれば即席の浴槽になる。
「一人ずつ入ってくれ」
俺は、皆に声をかけた。
すると、アイリーンがふっと振り返った。
「アメリアちゃん、一緒に入りませんこと?」
「……え?」
「今夜は……なんだか、一人で入りたくないですわ」
アメリアは、しばらく無言だったが――やがて、こくりと頷いた。俺は、心の中でつぶやく。またあの、お風呂のはしゃぎ声が聞こえるのか――いや、今夜はたぶん違う。
◇◇◇◇
壁一枚向こうで、湯気の立つ即席の風呂に、二人が並んで身を沈める。
ちゃぷん、と湯のはじける音。
「ふぅぅぅ……生き返りますわぁ……」
アイリーンの声。
「あったかい……」
アメリアの声。
最初の数分は、いつものような軽口だった。
「アメリアちゃんの胸、今日は、また大きく見えますわよ?」
「アイリーン様こそ、ローブの下、もう少し何か着てくださいよ……」
「あらやだ、今は脱いでますわよ」
「……」
いつもなら、ここから、ぷにぷに合戦が始まるはずだった。でも、今夜は始まらなかった。
しんと湯のはじける音だけが、続いた。
俺は、壁の向こうで、薪を補充しながら息を殺していた。最初は、いつもの煩悩を、お地蔵さんで打ち消す準備までしていた。
でも――。
「……アイリーン様」
アメリアの、細い声。
「なあに?」
「……私……今日、初めて……剣士やめたいって、思った」
俺の、薪を持つ手がぱたりと止まる。アメリアは、ぽつぽつと語り始めた。
「……知ってます? 私の両親、伝説の勇者だったの」
俺は息を呑んだ。そういえば、アメリアの過去は何も知らなかった。
「先代の魔王軍が、王国を襲ったとき。父と母は、二人で、それに立ち向かったの。父は槍使い、母は弓使い。二人で、伝説の魔王エクラインを、相打ちで倒した」
「……」
「私が五歳のとき。十三年前のコトよ」
「アメリアちゃん……」
「父と母の遺体は、戻ってこなくて――村の人たちが、墓だけを作ってくれた。私は、その墓の前で誓ったの」
アメリアの声が、震える。
「いつか、必ず、両親の代わりに――魔王を倒すって」
「そのために、私、剣を握ったの。誰よりも強くなりたかった。お母さんから昔教わった、三段斬りのリズム、それを何千回、何万回、振り続けた。指の皮が剥けて、血が出ても振り続けた」
「……」
「アメリアちゃんの剣は、ずっと、見てきましたわよ。本当に、すごい剣ですわ」
「……ありがとう、アイリーン様」
アメリアの声がふっと途切れた。
お湯のちゃぷりという音が響く。
「……でも、今日、ベルフォードの一振りを見たとき、私、初めて思っちゃった」
「……」
「――私の剣は、何のためにあるんだろうって」
「アメリアちゃん……」
「両親も、こんな相手と戦ったのかな。こんな、絶望的に強い相手と。勝てるって、信じてたのかな。それとも――」
アメリアが、息を呑む音。
「――勝てないって、分かってて、それでも、戦って死んだのかな」
その目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。俺の心臓は、どくんと波打った。
「……もし、そうなら。私、今まで……ずっと両親の本当の気持ちを、何にも分かってなかったのかもしれない」
「……」
「お父さん、お母さん。あなたたちは――何のために、戦ったの? 誰のために、死んだの? もし、勝てないって分かってたんなら、なぜ私を残して、行っちゃったの?」
アメリアの声が、ついに震えて崩れた。
「わからない……わたし……なにも……」
壁の向こうで、すすり泣きが漏れた。
俺は薪をぎゅっと握りしめた。胸の中が熱くて痛い。
アイリーンは、しばらく何も言わなかった。
ただお湯のはじける、小さな音だけが続いた。
やがて、アイリーンがぽつりと言った。
「……私ね、アメリアちゃん。本当はね――」
短いため息。
「――女神じゃ、ないんですよ」
「……え?」
俺も思わず、息を呑んだ。アメリアの戸惑った声が聞こえる。
「明日……朝になったら、ちゃんと、話しますわね。今夜は……アメリアちゃんの話を、しっかり聴かせてくださいな」
「……アイリーン様……」
「だから、もう、泣いていいですわよ」
「う……うう……うわあああん!」
アメリアの、嗚咽が漏れた。
今度は、はっきりと。
俺は、薪小屋の薄い壁にもたれて、空を見上げた。
夜空には、見たこともない知らない星座がひっそりと瞬いていた。
俺は、自分に問いかけた。
――俺は、本当に勇者なのか?
――ラノベの主人公みたいに、軽い気持ちで、この世界で魔王を倒すなんて言っていいのか?
今夜、俺はひと言も発さなかった。




