第18話 絶望の格差
そして――誰一人、剣を抜けなかった。
あまりに、弱々しい姿だったから。
「……あんたが、東の魔王、ベルフォード?」
俺は、ようやく声を絞り出した。
「ああ」
老人は、淡々と頷いた。
「だが、戦う気はない。もう誰とも、戦いたくない」
「……どういうことだ?」
アメリアが、警戒したまま問いかける。
「言葉の通りだ、剣士よ。私は……もう疲れた」
ベルフォードは、ふう、とため息をついた。その息が、白く、霧の中に溶けていく。
「だが――お前たちが、私を倒すと言うのなら」
彼が、軽く杖を一振りした。
ただ、それだけだった。
次の瞬間――。
ズドオオオオオォン!!
俺たちのいる場所から、五十メートルは離れた森の奥で、大樹が轟音とともに崩れ落ちた。
黒いねっとりとした波動が、空気を裂きながら――森を、文字通り真っ二つに引き裂いていた。地面に深い亀裂が走り、湿った土が煙となってもうもうと舞い上がる。
「……っ!?」
俺たちは、後ずさる。
今のは何だ。
軽く杖を振っただけ。
なのに、あの威力。
「……これが、私の力だ。お前たちが、本気で私を倒したいというのなら、私も本気で応える。それだけの事だ」
ベルフォードの声は、相変わらず、淡々としていた。むしろ、それが恐ろしかった。彼にとって、今の一撃は、瞬きと同じ――何の感情も伴わない、ただの動作なのだ。
「……アメリア」
俺は、震える声で呼んだ。
「ええ」
彼女も、声が震えていた。
「……三段斬りッ!」
アメリアが、覚悟を決めて地を蹴った。
彼女の剣が、銀の閃光となってベルフォードに襲いかかる。
一段。
二段。
三段。
しかし、ベルフォードは――ただ、杖をゆっくりと横にかざしただけだった。
ガキィイインンッ!!
アメリアの剣が、見えない壁に弾かれる。
その衝撃で、彼女の剣身が、波打つように震えた。腕全体に痺れが走るのが、横から見ていても分かる。
「ぐっ……!」
アメリアが、後ろに飛び退く。
「……剣士よ、腕前は悪くない。だが、私には届かぬ」
次は、アルテミスだった。
「火炎連弾ッ!」
両手から、赤い火球が次々と放たれる。
しかし――。
火球は、ベルフォードの体に届くより前に、霧の中にふっと消えた。まるで、灯火に水をかけたかのように、なんの抵抗もなく。
「魔王の力か。だが、まだまだ弱いな」
ベルフォードが、悔しそうな表情で目を伏せた。
俺は、必死で、頭を巡らせた。
今、何が必要なんだ。
ヤツを止める方法。
強い。とにかく、強い。まずは防御壁を固めなければ。イメージしたのは……「転ポテ」の第五部に登場する、伝説の防壁、ストーンウォール――。
「イマジナリースキル! いでよ、巨大な石壁ぇぇッ!」
ぼん、と、空中に、何かが現れる。
ずっしりと、地面に落下したのは――。
……巨大な、煎餅。
しかも、ごま入りの、堅焼き煎餅。
「……」
俺は、絶句した。
なんで、煎餅!? 石、石、と思い浮かべたつもりが、石焼きせんべい、にすり替わったのか……?
いや、それより前に。
あんなに、緊迫した戦闘の最中なのに、なんで、こんなことに――。ひょっとしたら、意識のどこかに――さっきの手紙があったのかもしれない。
その時。
ベルフォードが、ぴくり、と、肩を揺らした。
灰色の霧の中で――彼の瞳が、初めて揺れた。
彼は巨大な煎餅を、しばらく、じっと見つめた。
「……懐かしいな、これは」
ぽつりと、呟いた。
その声の調子は、それまでの淡々とした声とは、明らかに違っていた。どこか温かい、何かがほんの一瞬、滲んでいた。
しかし。
次の瞬間、彼は杖を振った。
パアアンッ!
乾いた破裂音とともに、巨大な煎餅は、粉々に砕け、霧の中に消えていった。
「……いかんな。感傷は、戦いの邪魔だ」
彼は、再び、淡々とした表情に戻った。
そして――。
杖をゆっくりと、こちらに向けた。
「もういい。お前たち、覚悟はできているな」
俺は、悟った。
ここで、本気を出されたら――終わりだ。俺たち四人は瞬時に倒されるだろう。
「アメリア、アイリーン、アルテミス、サラ! 退くぞッ!」
俺は、叫んだ。
「イマジナリースキル! いでよ、――逃げる、何かッ!」
もう、なんでもいい。とにかく、ここから瞬間移動できる、何か――!
その時、ぼん、と足元に何かが現れた。ぱっと見、それはペルシャ風の模様が入った、ぶ厚い絨毯。しかも、四人乗ってもまだ余裕がありそうな大きさだ。
「魔法の絨毯ッ!?」
アメリアが、目を見開く。
「いや、たぶん、ただの絨毯――」
その絨毯は、勝手にぐにゃりと丸まって、俺たち四人と、サラと、卵を――ぎゅっと包み込んだ。
「うわっ、ちょっ、何これッ!?」
「やめ、サラ、お前、デカいんだから、押さないでッ!」
「クワーッ!」
そして、絨毯は――。
ばあぁんッ!!
突然、まるでロケット花火のように、空高く、ぶっ飛んだ。
「ぎゃああああッ!!」
「きゃあああああッ!!」
「クワァアアアアッ!!」
俺たちは、絨毯の中で、ぐるんぐるんと回転しながら、灰色の空を急速に上昇していった。
眼下、霧の中で――ベルフォードがぽつんと立ち、空を見上げていた。その口元は、わずかに緩んでいたような気がした。
「……もう、いい。好きにせよ」
彼の声は、もう俺たちには届かなかった。




