表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/72

第17話 霧の森と、消えた村

 灰色の霧は、進むほどに濃くなった。

 しまいには、サラの首から先が、ぼんやりとしか見えなくなる。湿気を含んだ霧が、肌にじっとりと纏わりつく。鼻の奥が、土と苔の混じった、古い匂いで満たされていく。


「……地図によれば、この先に、村があるはずなんだ」

 アメリアが、馬上――ではなくサラ上で、古い地図を広げる。

「霧の村――ミストムーア。この森に住む人々の、最後の集落」

「住人は、いるのか?」

「ええ。最後に確認されたのは、十年前。でも、ここ数年、行商人も近づかなくなったから……」


 俺たちは、サラから降りて、周りを伺いながら慎重に進む。霧の中で何かと出くわした時、サラの背中の高さは、かえって不利だ。


 しばらく歩くと――ぽつりと、家らしきものが霧の中に現れた。


「……あった」

 アメリアが、剣の柄に手を添えながら、近づいていく。近づくと、皆、その異様な姿に思わず息を呑む。


 家は、屋根の半分が崩れ落ちていた。壁の板は、湿気で黒ずみ、ところどころに穴が空いている。蔦と苔が、家全体を覆い尽くしていた。

 明らかに、十年どころじゃない。何十年、いや、もしかしたら、もっと――。


「次の家……」

 アイリーンが、隣の家を指さす。同じだった。

「その次も……」


 俺たちは、村の中を無言で歩き続ける。

 どの家も、同じように朽ち果てていた。中をのぞき込んでも、人の気配はおろか、生活の痕跡すら、もうほとんど残っていない。

 井戸の縄は朽ちてだらりと垂れ下がり、庭に置かれた桶の底は抜けていた。物干し竿は、湿った木の棒に変わっている。


 誰も住んでいない。誰も、何十年も、住んでいない。


「……ここは、本当に、十年前まで人が住んでいた村なの?」

 アメリアの声が、ひそやかに震える。

「地図が、間違ってるんじゃないか?」

 アルテミスが、首を傾げる。

「……いえ」

 俺は、霧の向こうに、目を凝らした。

「たぶん、地図のほうが正しい。誰かが、何かを隠している」


 俺たちは、村の中央あたりにある、比較的しっかり残った民家の前で足を止めた。その扉は、すでに蝶番が壊れて、半分外れている。

 軽く扉を押すと……ぎい、と長い悲鳴のような音を立てて、扉が開く。


 中は、薄暗かった。崩れた天井から、わずかに射し込む光に、舞う埃が照らし出されている。

 床には、朽ちかけたテーブル。倒れた椅子。壁にかかった絵は、湿気で滲んで、何が描かれていたのか、もう分からない。


 その時――。俺の足元で、何かが、カサリと音を立てた。目を落とすと、紙片だった。古い、黄ばんだ紙。手紙のようだ。


 俺は、慎重にそれを拾い上げた。あちこちが朽ちて、もろい。でも、文字はかろうじて読める。手書きの、丁寧な若い女性の筆跡。


 『父さんが、また戻ってこない。』


 俺は、息を呑む。


『村のみんなも、もう諦めようと言っている。

 王都に呼ばれて出陣してから、もう半年。

 父さんは、強い。誰よりも強い

 銀霧の魔導士なんだから。

 でも、私は信じてる。父さんは必ず帰ってくる。

 だって、約束したもの。

 次のお祭りには、一緒に煎餅を食べようって。

 母さんが、煎餅を焼いて待ってる。

 私も、待ってる。

 父さん、早く帰ってきて。』


 手紙は、そこで途切れていた。


 俺は、しばらく、その手紙を見つめていた。

 なぜだろう。胸の奥が、じわりと、重くなる。

 会ったこともない、何百年も前に、この村にいた、誰かの娘の――その声が、聞こえてくるような気がした。


「……タクヤ?」

 アメリアが、心配そうに、俺の顔をのぞき込む。

「ああ、ごめん。これ、見てくれ」


 俺は、手紙を、皆に見せた。

 アメリアが、口元を手で覆う。

「銀霧の魔導士……? 聞いたことのある言葉だわ」

「私もだ」

 アルテミスも、眉をひそめる。

「そして、この字の感じは……数百年以上前のものだ。十年前じゃない」


 その時――。


 外で、サラが、低く警戒の鳴き声をあげた。

「クワッ……クワッ……!」


 俺たちは、急いで外に出る。

 サラは、毛を逆立てて、霧の奥の一点をじっと見つめていた。


 その先に。

 ゆっくりと、影が、近づいてくる。


 背の曲がった、痩せた、人影。古びた黒い外套を、引きずるように身にまとっている。その手には、ひびの入った木の杖。長い灰色の髪が、肩から胸まで垂れ下がっている。顔は、見えない。フードに隠れている。


 俺たちは、息を呑んで、その人影を見守った。アメリアが、剣の柄に手をかける。が、抜けなかった。アルテミスが、両手に魔力を集めようとするが、集まらなかった。

 

 その人影は、戦う気配を、一切、漂わせていなかった。ただ――どこまでも、悲しい空気をまとっている。ようやく、俺たちの十歩ほど前で、人影は足を止めた。そして、ぼそりと呟く。


「……また、来たのか。生きた人間が」


 声は、低くしわがれていた。

 俺たちは、誰一人、答えられなかった。


 人影が、ゆっくりとフードを上げた。

 現れたのは――。


 深くしわの刻まれた、老いた顔。

 灰色の髭。

 しかし、その瞳だけは、消えかけた炭火のように、まだわずかに光を宿している。


「東の魔王、ベルフォード。それが、お前たちの探している、私の名だろう」


 俺は、震える指で、手紙をぎゅっと握りしめた。なぜか分からない。ただ、なぜか――この目の前の、疲れ果てた老人と、この手紙が繋がっている気がした。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ