第17話 霧の森と、消えた村
灰色の霧は、進むほどに濃くなった。
しまいには、サラの首から先が、ぼんやりとしか見えなくなる。湿気を含んだ霧が、肌にじっとりと纏わりつく。鼻の奥が、土と苔の混じった、古い匂いで満たされていく。
「……地図によれば、この先に、村があるはずなんだ」
アメリアが、馬上――ではなくサラ上で、古い地図を広げる。
「霧の村――ミストムーア。この森に住む人々の、最後の集落」
「住人は、いるのか?」
「ええ。最後に確認されたのは、十年前。でも、ここ数年、行商人も近づかなくなったから……」
俺たちは、サラから降りて、周りを伺いながら慎重に進む。霧の中で何かと出くわした時、サラの背中の高さは、かえって不利だ。
しばらく歩くと――ぽつりと、家らしきものが霧の中に現れた。
「……あった」
アメリアが、剣の柄に手を添えながら、近づいていく。近づくと、皆、その異様な姿に思わず息を呑む。
家は、屋根の半分が崩れ落ちていた。壁の板は、湿気で黒ずみ、ところどころに穴が空いている。蔦と苔が、家全体を覆い尽くしていた。
明らかに、十年どころじゃない。何十年、いや、もしかしたら、もっと――。
「次の家……」
アイリーンが、隣の家を指さす。同じだった。
「その次も……」
俺たちは、村の中を無言で歩き続ける。
どの家も、同じように朽ち果てていた。中をのぞき込んでも、人の気配はおろか、生活の痕跡すら、もうほとんど残っていない。
井戸の縄は朽ちてだらりと垂れ下がり、庭に置かれた桶の底は抜けていた。物干し竿は、湿った木の棒に変わっている。
誰も住んでいない。誰も、何十年も、住んでいない。
「……ここは、本当に、十年前まで人が住んでいた村なの?」
アメリアの声が、ひそやかに震える。
「地図が、間違ってるんじゃないか?」
アルテミスが、首を傾げる。
「……いえ」
俺は、霧の向こうに、目を凝らした。
「たぶん、地図のほうが正しい。誰かが、何かを隠している」
俺たちは、村の中央あたりにある、比較的しっかり残った民家の前で足を止めた。その扉は、すでに蝶番が壊れて、半分外れている。
軽く扉を押すと……ぎい、と長い悲鳴のような音を立てて、扉が開く。
中は、薄暗かった。崩れた天井から、わずかに射し込む光に、舞う埃が照らし出されている。
床には、朽ちかけたテーブル。倒れた椅子。壁にかかった絵は、湿気で滲んで、何が描かれていたのか、もう分からない。
その時――。俺の足元で、何かが、カサリと音を立てた。目を落とすと、紙片だった。古い、黄ばんだ紙。手紙のようだ。
俺は、慎重にそれを拾い上げた。あちこちが朽ちて、もろい。でも、文字はかろうじて読める。手書きの、丁寧な若い女性の筆跡。
『父さんが、また戻ってこない。』
俺は、息を呑む。
『村のみんなも、もう諦めようと言っている。
王都に呼ばれて出陣してから、もう半年。
父さんは、強い。誰よりも強い
銀霧の魔導士なんだから。
でも、私は信じてる。父さんは必ず帰ってくる。
だって、約束したもの。
次のお祭りには、一緒に煎餅を食べようって。
母さんが、煎餅を焼いて待ってる。
私も、待ってる。
父さん、早く帰ってきて。』
手紙は、そこで途切れていた。
俺は、しばらく、その手紙を見つめていた。
なぜだろう。胸の奥が、じわりと、重くなる。
会ったこともない、何百年も前に、この村にいた、誰かの娘の――その声が、聞こえてくるような気がした。
「……タクヤ?」
アメリアが、心配そうに、俺の顔をのぞき込む。
「ああ、ごめん。これ、見てくれ」
俺は、手紙を、皆に見せた。
アメリアが、口元を手で覆う。
「銀霧の魔導士……? 聞いたことのある言葉だわ」
「私もだ」
アルテミスも、眉をひそめる。
「そして、この字の感じは……数百年以上前のものだ。十年前じゃない」
その時――。
外で、サラが、低く警戒の鳴き声をあげた。
「クワッ……クワッ……!」
俺たちは、急いで外に出る。
サラは、毛を逆立てて、霧の奥の一点をじっと見つめていた。
その先に。
ゆっくりと、影が、近づいてくる。
背の曲がった、痩せた、人影。古びた黒い外套を、引きずるように身にまとっている。その手には、ひびの入った木の杖。長い灰色の髪が、肩から胸まで垂れ下がっている。顔は、見えない。フードに隠れている。
俺たちは、息を呑んで、その人影を見守った。アメリアが、剣の柄に手をかける。が、抜けなかった。アルテミスが、両手に魔力を集めようとするが、集まらなかった。
その人影は、戦う気配を、一切、漂わせていなかった。ただ――どこまでも、悲しい空気をまとっている。ようやく、俺たちの十歩ほど前で、人影は足を止めた。そして、ぼそりと呟く。
「……また、来たのか。生きた人間が」
声は、低くしわがれていた。
俺たちは、誰一人、答えられなかった。
人影が、ゆっくりとフードを上げた。
現れたのは――。
深くしわの刻まれた、老いた顔。
灰色の髭。
しかし、その瞳だけは、消えかけた炭火のように、まだわずかに光を宿している。
「東の魔王、ベルフォード。それが、お前たちの探している、私の名だろう」
俺は、震える指で、手紙をぎゅっと握りしめた。なぜか分からない。ただ、なぜか――この目の前の、疲れ果てた老人と、この手紙が繋がっている気がした。




