第九章 余波
《スピリット号》の救助活動は、ついに「救出」から「交付」へと移り始めた。
第一分隊は傾斜と浸水が進む船内で捜索を続け、救出した傷病者を第二分隊へ引き渡す。
そこから救難艇へ。
救難艦へ。
そして海軍の木菟級輸送ヘリ、空軍の信天翁級救難輸送ヘリを経て、中京港へ。
荒天の中、命は何人もの救援者の手によってつながれていった。
中京港では、国立中京病院が海難災害対応体制を展開。
二台のMERを中心に、多数傷病者の受け入れが始まる。
その現場を指揮していたのは、国立中京病院救命救急センターの外科医――加藤美智子だった。
冷静にトリアージと緊急処置を続ける加藤のもとへ、第七層で心肺停止となり、
第一分隊の蘇生によって心拍を取り戻した男性が搬送される。
活動記録票に記されていた救出担当者の名前。
――朝田大輔。
遠く離れた海上と港。
二人はまだ直接言葉を交わしていない。
それでも、一つの命を介して、かつて同じ理想を抱いた二人の仕事は再びつながっていた。
しかし、《スピリット号》にはまだ最後の未確認者が残されている。
車両甲板。
未確認者、八名。
長い救難活動は、まだ完全には終わっていなかった。
夜明け前。
嵐は、ようやく峠を越えようとしていた。
雨はまだ降っている。
波も高い。
けれど、数時間前まで《スピリット号》を容赦なく叩き続けていた風は、少しずつ弱まり始めていた。
水平線の向こうには、まだ朝の光はない。
ただ。
闇の色だけが、わずかに薄くなっていた。
◇
《スピリット号》車両甲板。
「第一分隊、進入。」
佐倉修一の声が無線に響いた。
最後まで残されていた区画。
車両甲板。
行方の確認が取れていない者――八名。
これまで船体の傾斜と浸水、さらに車両や積載物の移動によって進入が極めて危険と判断され、
捜索は何度も中断されていた。
だが。
船体監視班から、短時間であれば左舷側通路を使用できるとの判断が出た。
最後の捜索だった。
「安全索確認!」
位野木佐次郎の声。
「確認!」
「空気残量!」
「問題なし!」
「単独行動は禁止! 何かあったら即座に後退!」
「了解!」
いつもの声だった。
大きく。
荒っぽく。
けれど。
誰よりも隊員の安全を気にしている声。
位野木は全員を見渡した。
「いいか!」
拳を握る。
「最後まで気を抜くな!」
そして。
いつものように笑った。
「元気があれば、何でもできる!」
隊員の一人が苦笑する。
「この状況でも言うんですか、副分隊長。」
「こういう時だから言うんだよ!」
小さな笑い。
ほんの数秒だけ。
張り詰めていた空気が緩んだ。
佐倉が前を見る。
「行くぞ。」
「了解!」
第一分隊は暗闇へ入った。
◇
車両甲板は。
これまでの客室区画とは、まるで別の場所になっていた。
大型トラック。
乗用車。
貨物。
固定具。
そのすべてが船体の傾斜によって右舷側へ押し寄せている。
一部の車両は横転し。
別の車両へ重なっていた。
床には海水。
油。
破片。
ライトを向けても、その先は暗い。
朝田大輔が先頭近くを進む。
一歩。
また一歩。
足場を確認してから進む。
「前方、車両転倒。」
「迂回できるか?」
佐倉。
朝田はライトを左右へ振る。
右。
完全に塞がれている。
左。
狭い。
だが。
「左側、人一人なら通れます。」
位野木が覗き込む。
「担架は?」
「そのままでは無理です。」
「搬送シートだな。」
「はい。」
佐倉が即座に決める。
「二名先行。残りはここで待機。」
「了解。」
朝田と位野木が前へ出る。
狭い隙間。
身体を横にする。
鉄板。
車体。
荷物。
わずかな空間を抜ける。
そのとき。
朝田が止まった。
「……待ってください。」
位野木も止まる。
「どうした?」
朝田は耳を澄ませた。
雨。
船体が軋む音。
遠くで水が流れる音。
そして。
かすかに。
――コン。
朝田が顔を上げる。
「今、聞こえましたか。」
位野木は黙る。
数秒。
――コン。
――コン。
二回。
位野木の表情が変わった。
「いる。」
朝田は無線機を取る。
「第一分隊先行班。前方から打音確認。」
『了解。位置を特定しろ』
「了解。」
朝田は壁を叩いた。
コン、コン、コン。
数秒後。
向こう側から。
コン。
コン。
コン。
返ってきた。
位野木が叫ぶ。
「NRSだ! 聞こえるか!」
声は返らない。
だが。
また。
コン。
コン。
「生存者だ。」
朝田が言った。
◇
車両甲板管理室。
扉は歪んでいた。
前には倒れた棚。
その奥から音がする。
「三人で持ち上げる!」
位野木が棚へ手をかける。
「せーの!」
動かない。
「もう一回!」
鉄が擦れる。
少し。
「朝田!」
「はい!」
朝田が隙間へバールを差し込む。
「押します!」
「よし!」
数センチ。
さらに。
十センチ。
「行ける!」
隊員が身体を滑り込ませる。
数秒後。
「三名確認!」
全員の動きが止まった。
「状態!」
「全員意識あり!」
位野木が大きく息を吐く。
「よし!」
中にいたのは、乗客二名と船員一名。
防火扉が閉じたことで、煙の侵入が比較的少なかった。
ただし。
三人とも長時間の寒冷環境で震えている。
朝田が一人ずつ確認する。
「歩けますか?」
船員が頷いた。
「……たぶん。」
「無理しなくていいです。」
朝田は毛布をかける。
「必ず外へ出します。」
男性が朝田を見る。
「ほかの人は……?」
一瞬。
朝田は答えなかった。
「今も捜しています。」
それだけ言った。
◇
三名を搬送班へ引き渡したあと。
第一分隊はさらに奥へ進んだ。
残り五名。
「ここ!」
隊員が叫ぶ。
二台の車両の間。
一人。
男性。
脚部が挟まれている。
意識あり。
その数メートル先。
もう一人。
女性。
身体が濡れ、激しく震えていた。
「二名生存!」
無線が飛ぶ。
『了解!』
位野木が男性のそばへ入る。
「痛いか!」
「……足が……」
「分かった。動かすな!」
朝田は女性を診る。
意識。
反応あり。
呼吸。
浅い。
皮膚。
冷たい。
「低体温。」
保温シートを広げる。
「聞こえますか?」
女性の目がわずかに動く。
「……寒い……」
「分かっています。」
朝田は静かに答えた。
「もう大丈夫です。」
その言葉を口にしたあと。
ほんの一瞬だけ。
朝田の表情が止まった。
もう大丈夫。
その言葉を。
昔も。
何度も言った。
海の上で。
冷たい身体を抱きながら。
何度も。
何度も。
けれど。
助けられなかった人もいた。
「朝田。」
位野木の声。
朝田は顔を上げた。
位野木は何も聞かなかった。
ただ。
保温シートをもう一枚差し出した。
「使え。」
朝田は受け取る。
「……ありがとうございます。」
それだけだった。
◇
二名の救出には時間がかかった。
挟まれた脚部。
不安定な車体。
少しでも荷重を間違えれば、さらに車両が動く。
「固定完了!」
「油圧器具、入れる!」
数センチずつ。
慎重に。
「あと五センチ!」
「急ぐな!」
位野木が怒鳴る。
「車体が動くぞ!」
朝田が患者の状態を見る。
「意識低下!」
「あと少しだ!」
「解除!」
脚が抜ける。
「搬送!」
隊員たちが一斉に動いた。
もう一人の女性も搬送シートへ。
二人。
生きている。
これで。
五人。
残るのは三人。
◇
さらに奥。
最初の一人は。
横転した大型車両の近くで見つかった。
朝田が近づく。
確認する。
そして。
静かに首を横へ振った。
「……死亡確認を要請します。」
誰も何も言わなかった。
二人目。
崩れた設備の下。
こちらも。
生命反応はなかった。
船体が大きく変形した最初の段階で、致命的な損傷を受けた可能性が高かった。
残る一人。
「前方!」
ライトが動く。
壁際。
倒れている人影。
朝田が走る。
膝をつく。
頸動脈。
呼吸。
瞳孔。
衣服は濡れている。
皮膚は冷たい。
口元には煤。
朝田の手が止まった。
長時間の煙。
低体温。
そして。
救援が届くまでの時間。
「朝田。」
佐倉の声。
朝田はもう一度確認した。
それから。
静かに答える。
「……生命反応なし。」
無線に報告が流れる。
『車両甲板、未確認者八名。全員確認』
少し間が空いた。
『生存五名』
さらに。
『死亡三名』
その言葉が。
暗い車両甲板に残った。
五人。
生きて帰せる。
三人。
帰せなかった。
朝田は最後の一人を見つめていた。
何も言わない。
位野木が隣へ立つ。
しばらく。
二人とも黙っていた。
そして。
位野木が言った。
「五人、帰れた。」
朝田は視線を下げたまま答えた。
「……三人、帰せませんでした。」
「ああ。」
位野木は否定しない。
慰めもしない。
ただ。
そこに立っていた。
彼も知っているからだ。
救えた人数だけを数えて。
笑える仕事ではないことを。
「行くぞ、朝田。」
「はい。」
二人は立ち上がった。
◇
『こちら第一分隊。車両甲板捜索完了』
中京基地指揮所。
その報告を聞いた瞬間。
室内が静かになった。
池田裕は画面を見る。
未確認者。
――0。
長かった。
本当に。
長かった。
「再確認。」
池田が言う。
通信員が記録を読み上げる。
「乗客及び乗員、全員の所在を確認。」
池田は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして。
再び開く。
「了解。」
声はいつもと変わらない。
「第一分隊を撤収させろ。」
「はい。」
「船内捜索終了。以後、船体保全及び事故調査準備へ移行。」
指示が次々と飛ぶ。
まだ仕事は残っている。
救出した傷病者の搬送。
《スピリット号》の安定化。
油流出監視。
航路規制。
事故原因調査。
だが。
人を探す仕事は。
終わった。
◇
中京港。
夜が明け始めていた。
救急車の数は、少しずつ減っていた。
MERの周囲にも。
数時間前ほどの慌ただしさはない。
加藤美智子は記録表を確認していた。
「最後の搬送患者、中京病院到着。」
看護師が報告する。
「状態は?」
「安定しています。」
「そう。」
加藤はペンを置いた。
初めて。
少しだけ肩の力が抜ける。
無線が鳴る。
『NRS中京基地より各機関。船内未確認者、全員確認』
周囲の医療スタッフが無線を見る。
『車両甲板未確認者八名のうち、生存五名、死亡三名』
誰も歓声を上げなかった。
加藤も。
ただ静かに聞いていた。
『これをもって大規模船内捜索を終了する』
通信が切れる。
看護師が小さく言った。
「……終わったんですね。」
加藤は港の向こうを見る。
「救助は。」
少し間を置く。
「でも、まだ終わっていません。」
病院には。
今も治療を受けている患者がいる。
家族を待っている人がいる。
そして。
三人。
帰ることのできなかった人がいる。
加藤は再び記録表を持った。
「病院へ戻ります。」
「先生、少し休まれたほうが……」
「車内で休みます。」
「またそれですか。」
加藤は少しだけ笑った。
「慣れていますから。」
MERへ向かおうとしたとき。
遠くから。
NRSの車両が港へ入ってきた。
一台。
また一台。
加藤の足が止まった。
◇
第一分隊。
帰還。
車両の扉が開く。
救難士たちが降りてくる。
全員。
泥。
煤。
海水。
油。
疲労。
制服はもう、本来の色が分からないほど汚れていた。
最初に佐倉。
続いて隊員たち。
そして。
位野木。
「うおお……腰が……」
大きく背中を伸ばす。
「副分隊長、年ですね。」
「誰が年だ!」
「少女にもおじさんって言われてましたし。」
「お前それ忘れろ!」
小さな笑いが起こる。
その後ろ。
朝田が車両から降りた。
静かだった。
ヘルメットを外す。
濡れた髪。
疲れた顔。
けれど。
表情はいつもと変わらない。
加藤は遠くからその姿を見ていた。
何年ぶりだろう。
こうして。
救難服を着た彼を見るのは。
朝田が顔を上げる。
視線が。
止まった。
加藤。
朝田。
数十メートル。
人。
車両。
救急隊員。
その間を何人もの人が行き交っている。
それでも。
二人は互いを見つけた。
言葉はない。
加藤がほんの少しだけ頷いた。
朝田も。
小さく頷いた。
それだけだった。
「朝田!」
位野木の声。
「装備返却するぞ!」
朝田は視線を戻す。
「はい。」
歩き出す。
加藤も。
MERへ向かった。
再会。
それは。
驚くほど静かなものだった。
◇
数日後。
NRS中京基地。
会議室。
壁には《スピリット号》の船体図。
時系列。
救出記録。
搬送記録。
事故海域の気象資料。
池田裕が前に立っていた。
「まず。」
全員を見る。
「全員、よく帰ってきた。」
誰も答えない。
池田は続ける。
「これから検証に入る。」
成功したこと。
失敗したこと。
判断が正しかったこと。
改善すべきこと。
すべて。
救難に。
完璧はない。
だから。
次のために残す。
「第一分隊。」
佐倉が顔を上げる。
「はい。」
「車両甲板への進入延期について。」
室内の空気が少し変わった。
「当時の判断を説明しろ。」
佐倉は立ち上がった。
「船体傾斜、車両移動、浸水、避難経路の確保状況を総合し、
進入による二次災害の危険が許容範囲を超えていると判断しました。」
「結果として三名が死亡した。」
「はい。」
「判断を後悔しているか。」
沈黙。
佐倉は答える。
「していません。」
隊員たちが佐倉を見る。
「当時進入していれば、救難士側にも死傷者が発生した可能性が高かったと考えます。」
池田は何も言わない。
佐倉は続けた。
「ただし。」
拳を握る。
「もっと早く安全な進入経路を確保できなかったか。それは検証すべきです。」
池田は頷いた。
「それでいい。」
責めるためではない。
次のために。
検証する。
それが。
組織だった。
◇
会議終了後。
隊員たちが部屋を出ていく。
「朝田。」
池田が呼び止めた。
朝田が振り返る。
「はい。」
「少し残れ。」
「了解。」
最後の隊員が出る。
扉が閉まった。
池田は一枚の資料を机に置いた。
「今回の行動記録だ。」
朝田は見る。
「何か問題が?」
「ない。」
池田は椅子へ座る。
「むしろ逆だ。」
朝田は黙っている。
「現場判断。」
「救出経路の選択。」
「CPA患者への対応。」
「車両甲板での生存者探索。」
池田は資料を閉じた。
「相変わらずだな。」
朝田の表情が。
ほんの少しだけ変わる。
「……何がですか。」
池田は答えない。
代わりに。
別の言葉を口にした。
「昔。」
朝田の目が止まる。
「ある部隊で、お前をそう呼んでいた連中がいた。」
沈黙。
池田は朝田を見る。
「――『裏総大将』。」
空気が止まった。
朝田は何も言わない。
その名前を。
中京基地で呼ばれたことはなかった。
少なくとも。
今までは。
「誰から聞いたんですか。」
「救難の世界は狭い。」
池田はそれだけ答えた。
「特に、海の上はな。」
朝田は視線を落とす。
「昔の話です。」
「ああ。」
池田も追及しない。
「だから今まで聞かなかった。」
沈黙。
「今回も。」
池田が続ける。
「聞くつもりはない。」
朝田が顔を上げる。
「ただ一つだけ言っておく。」
池田は真っ直ぐ朝田を見る。
「ここでは、お前一人で全部背負う必要はない。」
朝田は答えなかった。
しばらく。
本当にしばらく。
そして。
小さく。
「……はい。」
それだけ答えた。
◇
廊下。
位野木が壁にもたれて待っていた。
朝田が出てくる。
「遅い。」
「待っていたんですか。」
「偶然だ。」
「そうですか。」
「そうだ。」
二人は歩き出す。
数歩。
位野木が口を開く。
「聞こえたぞ。」
朝田が止まる。
「何がですか。」
位野木が笑う。
「裏総大将。」
朝田は露骨に嫌そうな顔をした。
「……忘れてください。」
「無理だな。」
「副分隊長。」
「いいじゃねえか。格好いいだろ。」
「全然。」
位野木は笑った。
大きな声で。
「俺なんか『燃える意志』だぞ!」
朝田が横を見る。
「……それは似合っています。」
位野木の笑いが止まる。
「お前、今ちょっと馬鹿にしただろ。」
「していません。」
「絶対した!」
「していません。」
二人の声が廊下に遠ざかっていく。
けれど。
曲がり角へ来たところで。
位野木が突然言った。
「朝田。」
「はい。」
今度は。
笑っていなかった。
「五人、帰れた。」
朝田は立ち止まる。
位野木は前を向いたままだった。
彼も。
あの海を知っている。
あの日を知っている。
だから。
それ以上は言わない。
朝田も。
何も聞かない。
「……はい。」
二人は再び歩き出した。
過去は。
消えない。
救えなかった人も。
忘れられない。
それでも。
今日。
五人は帰った。
その事実だけは。
誰にも奪えなかった。
---
国立中京病院。
集中治療室。
モニター音が静かに響いていた。
第七層で心肺停止となった男性。
人工呼吸器。
点滴。
各種モニター。
まだ意識は戻っていない。
だが。
心臓は動いている。
加藤はガラス越しに患者を見る。
若い医師が隣に立った。
「先生。」
「はい。」
「この患者……助かるでしょうか。」
加藤はしばらく答えなかった。
そして。
「分かりません。」
若い医師が少し驚いた顔をする。
「医者は未来を保証できません。」
加藤は患者を見る。
「できるのは、今できることを全部やることだけです。」
「はい。」
若い医師が去る。
加藤は一人残った。
手元には。
救急活動記録票。
その一番下。
朝田大輔。
加藤はその名前を見る。
「……変わってない。」
小さく呟いた。
昔から。
自分のことは。
ほとんど話さない。
何かを抱えていても。
誰かを助ける時だけは。
迷わない。
加藤は記録票を閉じた。
「本当に。」
少しだけ。
笑う。
「変わってないね。」
◇
夕方。
中京港。
雲の隙間から。
夕日が差し込んでいた。
海はまだ荒れている。
だが。
昨夜のような姿ではない。
《スピリット号》の周囲には、NRS、海上保安部、港務局、海軍の船が残っている。
救難から。
事故処理へ。
現場は静かに役割を変え始めていた。
岸壁には。
救出された乗客を待っていた家族たちの姿。
抱き合う人。
泣く人。
何も言わず座っている人。
そして。
帰ってこなかった人を待つ家族。
そのすべてが。
同じ港にあった。
ニュースでは。
すでに救援活動が大きく報じられていた。
NRS。
海軍。
空軍。
国立中京病院。
救難士。
医師。
「英雄」。
そんな言葉まで。
使われ始めていた。
けれど。
現場にいた者たちは。
誰も。
自分をそうは思っていなかった。
救えた命。
救えなかった命。
その両方を。
知っているから。
◇
中京基地。
朝田は一人。
装備庫にいた。
使用したヘルメット。
ライト。
安全索。
一つずつ。
元の場所へ戻す。
最後に。
救難服を見る。
煤。
油。
海水。
洗っても。
完全には落ちないかもしれない。
朝田は袖についた黒い汚れを指で擦った。
ふと。
遠い記憶が。
頭をよぎる。
海。
壊れた機体。
冷たい水。
叫び声。
そして。
動かなくなった人たち。
朝田は目を閉じた。
ほんの一瞬。
「朝田。」
声。
振り返る。
位野木だった。
「帰るぞ。」
朝田は救難服から手を離した。
「はい。」
照明を消す。
暗くなる装備庫。
扉を閉める。
二人は廊下を歩いていく。
明日になれば。
また訓練がある。
また警報が鳴るかもしれない。
また誰かが。
助けを求めるかもしれない。
その時。
彼らはまた行く。
救えなかった命を忘れないために。
そして。
次の命を。
生きて帰すために。
窓の外。
雲の切れ間から。
細い光が差し込んでいた。
長い夜が。
ようやく。
終わろうとしていた。




