第十章 曙光
長い夜が、終わろうとしていた。
《スピリット号》に残された最後の未確認者――八名。
船体の傾斜、浸水、そして車両や積載物の移動によって進入が困難となっていた車両甲板へ、
第一分隊は最後の捜索に入る。
暗闇の中。
わずかな打音を頼りに発見された、生存者たち。
管理室付近で三名。
車両の間に取り残されていた二名。
五名が、生きて救出された。
しかし。
残る三名を、生きて帰すことはできなかった。
――未確認者八名。
――生存五名。
――死亡三名。
その報告をもって、《スピリット号》船内に残されていたすべての乗客・乗員の所在が確認され、大規模な船内捜索は終了した。
第一分隊もまた。
全員が、生きて中京港へ帰還する。
そこで朝田大輔は、国立中京病院の加藤美智子と再び視線を交わす。
言葉はない。
ただ。
互いに小さく頷いただけだった。
数日後。
中京基地では、救難活動の検証が始まる。
成功したこと。
救えなかったこと。
そして。
次の救難へ残すべきこと。
その中で、池田裕は朝田に、かつてある部隊で呼ばれていた名を告げる。
――「裏総大将」。
朝田は、その由来を語らない。
位野木佐次郎も、何も聞かない。
彼もまた。
朝田が背負っている過去の一部を知る者だから。
救えた命。
救えなかった命。
どちらも忘れることはできない。
それでも。
今日、五人は帰ることができた。
そして《スピリット号》を襲った長い夜の向こうに。
ようやく。
新しい朝の光が差し始めていた。
朝が来た。
ただ、それだけのことだった。
夜が終わり。
太陽が昇る。
いつもなら。
誰も気に留めないような、ごく普通の朝。
けれど。
その日の中京港で朝日を見た者たちにとって。
それは。
長い、長い夜の終わりだった。
◇
中京港。
雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいた。
昨夜まで海面を激しく叩いていた雨は止み、風も大きく弱まっている。
まだ波は残っている。
空も完全には晴れていない。
それでも。
東の水平線は。
確かに明るくなっていた。
沖合。
《スピリット号》は静かに浮かんでいる。
大きく傾いた船体。
焼け焦げた外壁。
割れた窓。
その周囲にはNRS、海上保安部、港務局、海軍の艦艇が展開していた。
もう。
誰かを探すためではない。
船体の監視。
油流出の警戒。
航路の安全確保。
そして。
これから始まる事故調査のために。
救難現場は。
少しずつ。
事故現場へと姿を変えていた。
◇
NRS中京基地。
午前六時四十二分。
第一分隊の待機室。
誰も話していなかった。
佐倉修一は机に座り、報告書を書いている。
数名の隊員は椅子にもたれたまま眠っていた。
ある者は床に座り。
壁へ背中を預け。
目を閉じている。
位野木佐次郎はソファを占領していた。
「…………」
静かだった。
珍しく。
本当に。
静かだった。
「副分隊長。」
若い隊員が小さく呼ぶ。
反応なし。
「寝てます?」
「…………」
隊員が顔を覗き込む。
次の瞬間。
「起きてるぞ。」
「うわっ!」
隊員が飛び退いた。
位野木が片目を開ける。
「勝手に人を寝たことにするな。」
「完全に寝てたじゃないですか。」
「目を閉じて精神統一してたんだ。」
「いびき聞こえてましたよ。」
「気のせいだ。」
「絶対いびきでした。」
「お前、元気だな。」
「副分隊長ほどじゃないです。」
位野木が身体を起こした。
「そりゃそうだ。」
胸を張る。
「元気があれば――」
「何でもできる。」
周囲の隊員たちが。
ほぼ同時に答えた。
位野木が固まる。
数秒。
「……お前ら。」
誰かが笑った。
別の誰かも。
小さく笑う。
そして。
待機室に。
久しぶりの笑い声が広がった。
大きなものではなかった。
疲れ切った人間たちの。
短い笑い。
それで十分だった。
朝田大輔は少し離れた席に座り。
紙コップのコーヒーを飲んでいた。
その様子を見ながら。
ほんの少しだけ。
笑っていた。
◇
テレビには。
朝のニュースが流れていた。
『大型客貨船《スピリット号》の海難事故について、NRSは本日未明、船内に残されていたすべての乗客・乗員の所在を確認したと発表しました』
画面には。
中京港。
救急車。
ヘリコプター。
救難艦。
昨夜の映像が映し出されている。
『NRS中京基地を中心に、昇陽基地、海軍、空軍、海上保安部、国立中京病院など多数の機関が救援活動に参加――』
若い隊員がテレビを見る。
「……すごいことになってますね。」
別の隊員が答える。
「俺たち映ってる?」
「そこ?」
「大事だろ。」
「お前、顔真っ黒だったぞ。」
「じゃあ映らなくていい。」
また。
笑い。
テレビのアナウンサーは続けていた。
『一部報道では、危険な船内へ繰り返し進入したNRS救難士たちを“英雄”と――』
パチン。
テレビが消えた。
全員が見る。
リモコンを持っていたのは。
佐倉だった。
「分隊長?」
佐倉は報告書へ視線を戻す。
「英雄じゃない。」
静かな声だった。
「仕事をしただけだ。」
誰も。
反論しなかった。
位野木が頭の後ろで腕を組む。
「まあ。」
天井を見る。
「帰ってこられたんだから、それでいいだろ。」
その言葉に。
待機室が少し静かになる。
帰ってきた。
第一分隊は。
全員。
帰ってきた。
朝田は紙コップを見る。
そして。
小さく頷いた。
「……はい。」
◇
国立中京病院。
集中治療室。
規則的な電子音。
人工呼吸器の音。
第七層で心肺停止となった男性は。
まだ眠っていた。
けれど。
状態は昨夜より安定している。
加藤美智子はベッドサイドに立ち。
モニターを確認していた。
「血圧、安定しています。」
看護師が言う。
「尿量も戻っています。」
「分かりました。」
加藤は瞳孔を確認する。
「鎮静を少しずつ下げましょう。」
「はい。」
看護師が記録する。
加藤は患者を見る。
昨日。
この心臓は。
一度止まった。
三十五海里離れた海上で。
誰かが胸骨を押した。
誰かがAEDを使った。
誰かが搬送した。
誰かがヘリコプターへ乗せた。
そして。
ここへ来た。
今。
心臓は動いている。
加藤はモニターを見る。
それだけで。
十分だった。
「加藤先生。」
「はい。」
「少し休んでください。」
「休みました。」
看護師が眉をひそめる。
「いつですか?」
「MERの中で。」
「何分?」
加藤は答えない。
「先生。」
「……二十分くらい。」
看護師がため息をつく。
「それは休憩とは言いません。」
加藤は少し困ったように笑った。
「分かりました。」
白衣のポケットへ手を入れる。
「コーヒーを飲んできます。」
「それも休憩じゃありません。」
「厳しいですね。」
「先生にだけです。」
加藤は小さく笑った。
そして。
ICUを出た。
◇
病院一階。
自動販売機。
加藤は缶コーヒーを一本買った。
プシュ。
蓋を開ける。
一口。
「……苦い。」
「それ、ブラックですよ。」
声。
加藤の動きが止まった。
ゆっくり。
振り返る。
そこに。
朝田大輔が立っていた。
NRSの制服。
昨日の救難服ではない。
きれいな制服。
けれど。
顔には疲労が残っている。
加藤は彼を見る。
「知ってる。」
「そうですか。」
「昔から飲んでるから。」
「昔は砂糖を入れていたでしょう。」
「……覚えてるの?」
「一応。」
短い沈黙。
病院の廊下を。
看護師。
患者。
事務職員。
何人もの人が通り過ぎていく。
二人だけが。
そこに止まっていた。
加藤が先に口を開く。
「どうしてここに?」
「救出者の経過確認と、活動記録の提出です。」
「仕事?」
「はい。」
「相変わらず。」
朝田が少し首を傾げる。
「何がですか。」
「何でもない。」
加藤はコーヒーをもう一口飲む。
そして。
「昨日。」
朝田を見る。
「あの患者。」
「はい。」
「まだ意識は戻ってない。」
朝田は黙って聞く。
「でも、状態は安定してる。」
朝田の表情が。
ほんの少しだけ緩んだ。
「そうですか。」
「うん。」
それだけ。
大げさに喜ばない。
朝田らしい。
加藤はそう思った。
「朝田。」
「はい。」
「五人。」
朝田の目が止まる。
「車両甲板。」
加藤は続ける。
「五人、助かったんでしょう。」
「……はい。」
「だったら。」
加藤は缶コーヒーを見る。
「五人は、ちゃんと帰れた。」
朝田は答えない。
三人。
その数字が。
二人の間にある。
加藤は分かっていた。
だから。
それ以上は言わなかった。
朝田も。
何も言わなかった。
しばらくして。
「加藤。」
「ん?」
朝田が静かに言う。
「昨日。」
少し間。
「ありがとうございました。」
加藤は目を瞬く。
「何が?」
「患者を。」
加藤は朝田を見る。
そして。
小さく笑った。
「こちらこそ。」
「?」
「ちゃんと受け取ったから。」
朝田の目が。
ほんの少しだけ変わる。
加藤はそれ以上説明しない。
二人には。
それで十分だった。
◇
「朝田さん!」
廊下の向こうから声。
NRSの隊員が走ってくる。
「分隊長が探してます!」
「分かりました。」
朝田は加藤を見る。
「では。」
「うん。」
数歩。
朝田が歩き出す。
「朝田。」
再び。
呼び止める。
朝田が振り返る。
加藤は何かを言おうとして。
やめた。
「……またね。」
朝田は少しだけ驚いた顔をした。
そして。
小さく頷く。
「はい。」
歩いていく。
加藤はその背中を見送った。
昔から。
変わらない。
でも。
少しだけ。
変わった。
たぶん。
自分も。
同じだった。
◇
数週間後。
《スピリット号》事故に関する調査が本格的に始まった。
船体。
機関。
航海記録。
気象。
貨物固定。
避難誘導。
通信記録。
そして。
救難活動。
何千ページもの記録が。
少しずつ積み上がっていく。
誰かを責めるためではない。
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
次に。
どうすれば防げるのか。
そのために。
記録する。
検証する。
残す。
救難も。
医療も。
同じだった。
成功だけを残しても。
次にはつながらない。
失敗だけを責めても。
前には進めない。
だから。
事実を見る。
そして。
次へ渡す。
経験もまた。
Handoffされていく。
◇
ある日。
NRS中京基地。
第一分隊。
いつもの朝。
「朝田!」
位野木の声が響く。
「はい。」
「ロープワーク、遅い!」
「基準時間内です。」
「俺より遅い!」
「副分隊長基準は公式基準ではありません。」
「細かいこと言うな!」
「重要です。」
「お前なあ!」
少し離れたところで。
隊員たちが笑っている。
佐倉は時計を見る。
「あと三分。」
「了解!」
訓練。
点検。
清掃。
食事。
書類。
また訓練。
何も特別ではない。
救難士の日常。
事故が終わっても。
世界は続く。
そして。
彼らの日常も。
続いていく。
◇
昼。
食堂。
位野木が山盛りの定食を持ってくる。
「朝田。」
「はい。」
「食え。」
朝田の前へ。
追加の唐揚げ。
「……多いです。」
「昨日の訓練で消費しただろ。」
「そこまで消費してません。」
「若いんだから食え。」
「副分隊長も同じくらい食べていますよね。」
「俺は成長期だからな。」
朝田が位野木を見る。
「……どこがですか。」
周囲が静かになる。
位野木も。
止まる。
「朝田。」
「はい。」
「今のもう一回言ってみろ。」
「何も言ってません。」
「言っただろ!」
笑い声。
いつもの。
第一分隊だった。
◇
夕方。
訓練が終わる。
朝田は基地の外へ出た。
中京港。
巨大なクレーン。
コンテナ船。
貨物船。
タグボート。
いつもの港。
あの夜が。
嘘だったように。
船は入り。
船は出ていく。
人が働く。
荷物が運ばれる。
生活が続いている。
朝田は海を見る。
救えた人。
救えなかった人。
どちらも。
忘れない。
昔も。
今も。
きっと。
これからも。
それでも。
海へ出る。
誰かが待っているなら。
何度でも。
◇
その夜。
NRS中京基地。
午後十一時四十七分。
第一分隊待機室。
テレビ。
雑誌。
カードゲーム。
コーヒー。
いつもの夜。
位野木はソファに座り。
スポーツ新聞を読んでいる。
佐倉は書類。
若い隊員たちは小声で話していた。
朝田は窓際。
本を読んでいる。
静かな時間。
何も起きない。
そんな夜。
誰もが。
それを望んでいる。
そして。
午後十一時五十二分。
――ピッ。
小さな電子音。
全員の動きが止まる。
次の瞬間。
基地内に警報が鳴り響いた。
『救難出動』
椅子が動く。
新聞が置かれる。
本が閉じられる。
誰も。
驚かない。
「第一分隊!」
佐倉が立ち上がる。
「出動準備!」
「了解!」
位野木が救難服を掴む。
「よし!」
朝田も立ち上がった。
装備。
ヘルメット。
無線。
安全索。
一つずつ。
確認する。
扉が開く。
隊員たちが走り出す。
廊下。
階段。
格納庫。
そして。
岸壁。
そこには。
NRS-301。
《晨星》。
エンジンが始動する。
低い音。
照明が灯る。
係留索が外される。
朝田が甲板へ乗り込む。
ふと。
東を見る。
夜の向こう。
水平線は。
まだ暗い。
けれど。
彼は知っている。
どんなに長い夜にも。
いつか。
朝は来る。
「朝田!」
位野木が叫ぶ。
「何してる!」
朝田は前を向く。
「今行きます!」
《晨星》が岸壁を離れる。
暗い海へ。
ゆっくり。
そして。
確実に。
進んでいく。
誰かが。
助けを待っている。
だから。
彼らは行く。
救えるという保証はない。
必ず帰れるという保証もない。
それでも。
行く。
一人でも多く。
生きて帰すために。
水平線の向こう。
ほんのわずかに。
光が見えた。
それは。
夜の終わりではない。
新しい朝の。
始まりだった。
――Dawn.
そして。
救難は続いていく。
最後まで『Coding』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
ここまで物語を見届けてくださった皆さまに、心より感謝いたします。
《スピリット号》での救難は終わりました。
しかし。
朝田大輔が歩んできた物語には、まだ語られていない時間があります。
なぜ彼は、自らの過去を語らないのか。
そして――
「裏総大将」。
その名に、どんな過去が刻まれているのか。
次作。
『Coding: Legacy』
『Coding』へと受け継がれたもの。
その始まりを描きます。
また、この海でお会いしましょう。
本当に、ありがとうございました。




