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Coding  作者: ルーベン・ファーガソン
本編 (Coding:Rescue)
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7/10

第七章 嵐

《スピリット号》右舷サービス区画で、朝田大輔と位野木佐次郎は、

倒壊した棚の奥に取り残されていた二名の船員を救出した。


しかし、救助の最中に船体の亀裂が拡大し、黒い水が区画内へ流入。

朝田の安全ロープは障害物へ絡まり、崩れかけた棚の下に取り残されてしまう。


位野木と佐倉修一は第二の安全ロープを送り込み、間一髪で朝田を救出したものの、

許可された捜索時間は大幅に超過していた。


佐倉は二人に告げる。


救出に成功したことと、その判断が正しかったことは同じではない、と。


その後、《スピリット号》の傾斜角は十八度に達し、右舷中央部では船体変形が進行。

第一分隊は、限られた人員、酸素ボンベ、担架を前に、消防、医療、

船内検索のどれを優先するかという厳しい選択を迫られる。


未確認者は十九名。


第七層客室区画に六名。


車両甲板付近に八名。


残る五名は、居場所すら分かっていない。


佐倉はまず第七層の救助を優先し、その途中で車両甲板へ通じる左舷乗員通路の安全を確認する方針を決定した。


だが、第一分隊が再び前進を始めた直後、第七層へ火災煙が急速に流入し、

撤退経路の一つである防火扉も閉鎖された。


選んだばかりの道は、すでに失われようとしていた。


暗闇の中、第一分隊は新たな決断を胸に、第七層客室区画へ向かう。

雨は、止まる気配を見せなかった。


風はさらに強まり、黒い海を白く砕いていく。


中京港沖三十五海里。


大型客貨船《スピリット号》は、右舷へ大きく傾いたまま、荒れ狂う海の上で苦しげに軋んでいた。


ギィ……


ミシ……


鋼板が悲鳴を上げるたび、船内の空気まで震える。


煙と焦げ臭い臭い。


海水の匂い。


燃えた樹脂の刺激臭。


そのすべてが狭い通路へ充満していた。


朝田大輔はヘッドライトの光を前へ向ける。


光が届く距離は二メートルほど。


その先は、完全な闇だった。


「視界、不良。」


短く報告する。


「煙流、右から左。」


佐倉修一は紙製の船内配置図を開き、現在位置を確認した。


電子端末はすでに役に立たない。


船内電源は失われ、通信設備も最低限しか機能していない。


今、第一分隊が頼れるのは、自分たちの経験と紙の図面だけだった。


「第七層客室区画まで十八メートル。」


佐倉が言う。


「ここから先は客室が連続する。負傷者は各部屋に分散している可能性が高い。」


位野木佐次郎が後ろを振り返った。


「全員、安全ロープ確認!」


「確認!」


「カラビナ!」


「異常なし!」


「残圧!」


「九十七!」


「九十五!」


「九十三!」


全員の返答を聞き終えると、位野木は満足そうに頷いた。


「よし。」


そして朝田を見る。


「お前もだ。」


朝田は静かに自分のロープを引いた。


金属音が短く響く。


「異常ありません。」


「もう絡まるなよ。」


「努力します。」


「努力じゃ困る。」


隊員たちから小さな笑いが漏れた。


張り詰めた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。


しかし、その空気は長く続かなかった。


ミシ……


船体全体が低く唸る。


誰もが顔を上げた。


「……また鳴った。」


若い隊員が呟く。


朝田は天井を見上げた。


音は船体中央付近から伝わってくる。


前より高い。


前より長い。


「構造音、変化しています。」


佐倉も頷いた。


「急ぐぞ。」


「はい!」


第一分隊は再び歩き始めた。


    ◇


その頃。


船外右舷。


第二分隊の救難艇は、大波の中で必死に姿勢を保っていた。


「波、来るぞ!」


艇長が叫ぶ。


全員が担架へ覆いかぶさる。


直後。


ドォンッ!!


巨大な波が船首へ叩きつけた。


艇全体が持ち上がり、次の瞬間には海面へ叩き落とされる。


激しい衝撃。


担架の上で意識を失った男性乗客の身体が揺れる。


「頭部固定!」


「固定済み!」


「酸素!」


「正常!」


救難士たちは波ではなく、傷病者だけを見ていた。


自分たちが濡れることなど、誰も気にしていない。


「《晨星》接近!」


前方から探照灯が近づいてくる。


第一分隊が所属する晨星級救難艦《晨星》。


巨大な船体が、暴風雨の海を押し分けるように現れた。


「右舷接舷開始!」


「了解!」


距離は数メートル。


しかし、この波では数メートルが命取りになる。


「タイミング合わせろ!」


「今だ!」


担架が一気に持ち上げられる。


救難艇から。


救難艦へ。


四人の隊員が同時に受け取る。


「受領!」


「次!」


迷う時間はない。


一人でも多く。


一秒でも早く。


搬送は機械のような正確さで続いていた。


    ◇


「第三分隊、負傷者六名搬送開始!」


「第五分隊、海面検索継続!」


「第六分隊、予備ボンベ搬送!」


無線は絶え間なく鳴り続ける。


第四分隊は機関区画で消火活動を続けていた。


炎は一時より弱くなった。


しかし完全には消えていない。


「温度上昇!」


「右舷側へ延焼!」


「泡消火剤追加!」


防火服の表面から蒸気が立ち上る。


熱気は想像以上だった。


「まだ下がらない!」


「もっと送れ!」


炎との戦いも終わってはいなかった。


    ◇


中京基地指揮所。


「第二分隊、搬送完了。」


「第四分隊、消火継続。」


「第五分隊、落水者一名救助。」


通信員たちが次々と報告する。


壁一面の大型スクリーンには事故海域全体が表示されていた。


AIS。


気象情報。


波高。


風向。


各艦位置。


航空機位置。


すべてが数秒ごとに更新される。


池田裕は腕を組んだまま画面を見つめていた。


「現在の傷病者数。」


「搬送済み五十八名。」


「重症十九。」


「中等症二十一。」


「軽症十八。」


「未確認者十九。」


池田は静かに息を吐く。


まだ十九人。


その数字は、ほとんど減っていない。


「第一分隊。」


「第七層へ進入中です。」


「そうか。」


その一言だけだった。


誰よりも第一分隊を信頼している。


だからこそ、余計な言葉は必要なかった。


そのとき。


通信員が顔を上げる。


「海軍支援部隊、事故海域まで残り十分!」


スクリーンへ新しい光点が現れる。


ゆっくりと。


しかし確実に近付いてくる巨大な艦影。


昇陽共和国海軍。


雄獅級巡洋艦。


その周囲には四機の角鴞級輸送ヘリ。


さらに少し離れた海域には、水中作業隊を乗せた支援艇。


池田は短く頷く。


「海軍へ通信。」


「はい。」


「事故海域到着後はNRS現場指揮に従い、傷病者搬送を優先。」


「了解。」


数秒後。


通信回線が開く。


『こちら昇陽共和国海軍、第七護衛群旗艦《雄獅》。』


「NRS海上救難部中京基地、池田です。」


『現場指揮権を確認したい。』


「現場救助はNRSが担当します。海軍には海上輸送と航空支援、水中作業支援をお願いします。」


『了解した。』


返答は短かった。


軍同士に余計な言葉はいらない。


互いが何をすべきか理解している。


『我々は人命救助を最優先とする。』


池田はゆっくり頷いた。


「こちらも同じです。」


通信が切れた。


指揮所にいた通信員が、小さく息を吐く。


「海軍との連携、開始しました。」


池田は海図から目を離さず答えた。


「まだ始まっただけだ。」


嵐はさらに強くなる。


救助は、これからが本番だった。


    ◇


事故海域の西側。


黒い水平線の向こうから、巨大な艦影が姿を現した。


雄獅級巡洋艦《雄獅》。


激しい風雨の中でも、その船体は大きく揺らぐことなく、荒れた海面を押し分けるように前進していた。


艦橋では、当直士官たちが次々と情報を読み上げている。


「目標船、右前方十一海里!」


「風速、秒速二十四メートル!」


「波高、最大五・二メートル!」


「《スピリット号》の傾斜角、推定二十度!」


艦長は前方の暗闇を見つめた。


肉眼ではまだ見えない。


しかし、レーダー画面の中央には、大型客貨船を示す光点がはっきりと映っていた。


その周囲には、NRSの救難艦と救難艇。


さらに海面検索を続ける小型艇の光点が、絶えず動き続けている。


「飛行甲板の状況は?」


「角鴞級四機、発進準備完了。医療搬送仕様二機、物資輸送仕様二機です。」


「水中作業隊は?」


「第二分隊、装備確認中。事故海域到着後、NRSの指示を受けて投入予定。」


艦長は頷いた。


「全艦、人命救助配置。」


「了解!」


艦内放送が響いた。


『総員、人命救助配置。総員、人命救助配置。飛行甲板、医療区画、

水中作業支援区画は直ちに作業を開始せよ』


通路を駆ける足音。


医療班が担架を並べ、輸血用保冷容器と酸素供給装置を確認する。


飛行甲板では、黄色い誘導灯が暴風雨の中で明滅していた。


四機の角鴞級輸送ヘリが、巨大なローターをゆっくりと回し始める。


最初は低く。


やがて、雷鳴にも似た音へ変わっていく。


ゴォォォォ――


雨水が風圧で甲板上を走り、整備員たちは身体を低くして機体の最終確認を続けた。


「一番機、医療搬送装備確認!」


「確認!」


「二番機、吊り上げ装置!」


「正常!」


「三番機、酸素ボンベ十二本、救助資機材搭載完了!」


「四番機、水中作業隊装備搭載!」


飛行長が発光誘導棒を掲げる。


「全機、発進待機!」


一番機の操縦席で、機長は窓を叩く雨を見つめていた。


視界は悪い。


雲底も低い。


海面と空の境界は、ほとんど見えなかった。


副操縦士が計器を確認する。


「風向、南西。横風強いです。」


「分かっている。」


「NRS救難艦への着艦は?」


「海況次第だ。無理なら吊り上げに切り替える。」


「了解。」


機長は無線周波数を合わせた。


『こちら海軍角鴞一番機。NRS中京基地、受信願います』


すぐに応答が入る。


『こちらNRS中京基地。感明良好』


『《雄獅》到着後、重症傷病者搬送に入る。優先搬送対象を指定されたし』


『了解。第一搬送対象は、頭部外傷二名、胸部外傷一名。現在、NRS-301《晨星》に収容中』


『角鴞一番機、了解』


機長は前を向いた。


「行くぞ。」


飛行長の誘導棒が大きく振られる。


ローター音が一段と強くなった。


角鴞級輸送ヘリ一番機は、暴風雨の飛行甲板からゆっくりと浮き上がった。


続いて二番機。


三番機。


四番機。


四つの機影が、暗い空へ次々と消えていく。


それはまるで、嵐の中へ放たれる巨大な鳥の群れだった。


    ◇


さらに上空。


雲の下を、十二機の信天翁級救難輸送ヘリが編隊を組んで飛行していた。


昇陽共和国空軍。


第一救難航空団。


「全機、間隔維持。」


先頭機からの指示が無線へ流れる。


『二番機、了解』


『三番機、了解』


『四番機、了解』


返答は十二番機まで途切れることなく続いた。


機体は風に煽られ、何度も左右へ揺れる。


操縦席の前方には、雨滴が横向きに流れていた。


「視程、四百。」


副操縦士が告げる。


「レーダー上、前方に積乱雲。」


「高度を二百下げる。」


「海面との距離が近くなります。」


「雲の中に入るよりいい。」


機長は操縦桿をわずかに倒した。


機体がゆっくり降下する。


警報音が短く鳴る。


「海面高度、確認。」


「正常。」


後部キャビンでは、航空救難員と衛生員が装備を確認していた。


担架。


救急バッグ。


輸液。


酸素。


保温シート。


吊り上げ用ハーネス。


「搬送先は?」


若い衛生員が尋ねる。


救難員は壁に固定された作戦図を指した。


「重症は中京港へ直接搬送。中等症は《雄獅》とNRS救難艦で一次安定化。

軽症は海軍輸送艦か港湾救護所だ。」


「十二機全部が現場へ入るんですか?」


「一度には入れない。」


救難員はヘルメットの顎紐を締めた。


「第一梯隊四機が搬送。第二梯隊四機は物資と医療班。残り四機は上空待機と交代要員だ。」


「この天候で上空待機……」


「だから救難航空団なんだ。」


若い衛生員は黙った。


機内灯が赤へ切り替わる。


操縦席から通達が入った。


『事故海域まで十二分。全員、救難配置』


全員が一斉に立ち上がる。


恐怖がないわけではない。


だが、誰も口には出さなかった。


彼らが向かう先には、救助を待つ人がいる。


それだけで十分だった。


    ◇


中京基地指揮所。


大型モニター上に、海軍と空軍の航空機が次々と表示されていく。


池田裕はそれぞれの機体番号と高度を確認した。


「航空管制、現場空域を三層に分けろ。」


「三層ですか?」


通信員が振り返る。


「低高度は吊り上げと直接搬送。中高度は進入待機。高高度は交代機と予備。」


池田は海図上へ指を走らせた。


「《スピリット号》の風上側には入れるな。煙と火の粉が流れている。進入は南東方向から統一。」


「了解!」


「海軍角鴞隊は《晨星》と《雄獅》の間を担当。空軍信天翁隊は中京港への直接搬送を優先。」


「了解!」


別の通信員が叫ぶ。


「第五分隊より入電! 海面で新たに二名発見!」


「状態は?」


「一名意識あり、一名心肺停止!」


池田の表情が変わる。


「最寄りの救難艇を向かわせろ。空軍一機を吊り上げ待機へ。」


「了解!」


「低体温対策を優先。心肺停止者は艇上で蘇生開始。」


命令が次々と飛ぶ。


その間にも、別の無線が入る。


「第四分隊、泡消火剤残量三割!」


「第六分隊へ補給を指示!」


「第三分隊、救難艇一隻が機関不調!」


「予備艇を回せ!」


「第七層、煙流速度上昇!」


池田は一つずつ処理していく。


慌てない。


声を荒らげない。


しかし、判断は誰より速かった。


複数の危機が同時に発生するほど、彼の思考は逆に静かになっていく。


それが、「大参謀」と呼ばれる理由だった。


「池田指揮官。」


副官が近づいた。


「昇陽基地からの中型救難艦二隻ですが、荒天の影響で到着が二十分遅れる見込みです。」


「了解。」


「現場の搬送能力は、海軍到着後に一時的に改善します。ただし、重症者が増えれば再び不足します。」


池田は負傷者一覧を見る。


搬送済み五十八名。


船内救出中。


海面検索継続。


未確認十九名。


数字は冷たい。


だが、その一つひとつが命だった。


「港側の受け入れ状況は?」


「国立中京病院が海難災害対応を開始。港湾救護所を設置中です。」


「医療班の責任者は?」


副官が資料を確認する。


「国立中京病院救命救急センター、加藤美智子医師。」


池田の指が一瞬止まった。


「加藤……美智子。」


「ご存じですか?」


池田は答えなかった。


資料へ視線を落とす。


元・西京基地医護隊。


元・海上特殊救難隊軍医。


現在、国立中京病院救命救急センター外科医。


「これ以上ない人選だ。」


池田は短く言った。


副官は少し驚いたように彼を見る。


「現場経験者ですか?」


「現場を知りすぎているくらいだ。」


それ以上は説明しなかった。


池田は再び無線機を取る。


「中京港医療対策本部へ接続。」


「はい。」


数秒後、通信回線が開く。


『こちら中京港臨時医療対策本部』


「NRS中京基地、池田です。医療責任者と話したい。」


短い待機音。


そして、女性の声が聞こえた。


『国立中京病院、加藤です』


落ち着いた声だった。


周囲の喧騒が無線越しにも聞こえる。


それでも、彼女の声だけは揺れていない。


「現在の受け入れ可能数を確認したい。」


『重症外傷十二名。中等症二十四名。軽症は港湾救護所で一次対応後、周辺病院へ分散できます』


「今後、重症者が増える可能性がある。」


『想定しています。手術室をさらに一室追加しました。輸血部も大量輸血体制へ移行しています』


池田は頷いた。


「海軍と空軍の搬送が始まる。到着間隔が短くなる。」


『港側で着陸区域を二つに分けます。空軍機と海軍機の患者導線も分離してください』


「了解。」


加藤の返答に迷いはなかった。


池田は一瞬考えたあと、尋ねる。


「加藤医師。」


『はい』


「精神号船内には、第一分隊が入っている。」


無線の向こうが、ほんの一瞬だけ静かになった。


それは一秒にも満たない間だった。


『……分かりました』


声は変わらない。


だが、池田はその短い沈黙を聞き逃さなかった。


「知り合いがいるのか?」


『今は患者の話をしてください』


はっきりとした返答だった。


池田の口元がわずかに緩む。


「失礼した。」


『重症者の情報は、搬送前に送ってください。港へ到着してからでは遅いです』


「了解。」


通信が切れる。


副官が池田を見る。


「やはり、ご存じなんですね。」


池田は海図へ視線を戻した。


「知っているのは、俺じゃない。」


それだけ答えた。


    ◇


国立中京病院。


救命救急センターの廊下を、複数のスタッフが早足で行き交っていた。


ホワイトボードには、受け入れ予定数と空床状況が次々と書き込まれていく。


重症外傷。


熱傷。


低体温。


溺水。


煙吸入。


頭部外傷。


想定される傷病は一つではない。


「加藤先生、輸血部から連絡です。」


看護師がタブレットを差し出す。


「O型赤血球製剤、追加分確保。血漿も解凍開始しています。」


加藤美智子は画面を確認した。


「血小板も準備してください。大量出血が来てからでは間に合いません。」


「はい。」


「熱傷対応は?」


「形成外科と集中治療部が待機中です。」


「透析室にも連絡を。長時間圧迫傷が含まれる可能性があります。」


看護師はすぐに指示を書き込む。


若い医師が近づいてきた。


「加藤先生、港へは先生が行かれるんですか?」


「はい。」


「救命救急センターの指揮は?」


「副センター長に引き継ぎます。」


「でも、先生は外科です。港でトリアージをするより、院内で手術に備えた方が——」


加藤は若い医師を見た。


責めるような視線ではない。


ただ、真っ直ぐだった。


「最初の判断を誤れば、必要な患者が必要な場所へ届きません。」


「それは分かりますが……」


「病院へ運ぶだけが医療ではありません。」


彼女は机の上に置かれた防水性の医療ジャケットを手に取った。


「病院へ来られない患者がいるなら、こちらから迎えに行きます。」


若い医師は言葉を失った。


加藤はジャケットへ袖を通す。


その動作には慣れがあった。


病院の白衣よりも。


手術着よりも。


むしろ、この重い救難用ジャケットの方が身体に馴染んでいるようにさえ見えた。


看護師がその姿を見て、少し驚く。


「先生、その装備……慣れているんですね。」


加藤はファスナーを閉じた。


「昔、着ていただけです。」


「NRSに?」


「今は関係ありません。」


短い答え。


それ以上、質問を許さない声だった。


しかし、彼女の視線は壁面モニターへ向いていた。


事故海域の情報。


大型客貨船《スピリット号》。


NRS中京基地第一分隊、船内検索継続中。


そこに表示されている文字を、加藤は数秒だけ見つめた。


朝田大輔の名前はない。


だが、彼女は知っていた。


第一分隊。


その言葉だけで十分だった。


「加藤先生。」


別の看護師が呼ぶ。


「二台のMER、出動準備完了しました。」


加藤は視線を戻す。


「第一車は重症外傷対応。第二車は低体温と呼吸管理を中心にします。」


「医師の配置は?」


「第一車に私と麻酔科医。第二車に救急医二名。」


「看護師は各三名。」


「臨床工学技士を第二車へ。人工呼吸器と補助循環装置の確認もお願いします。」


「了解しました。」


病院車庫へ続く大型扉が開かれる。


二台のMERが並んでいた。


車内には、簡易手術灯、人工呼吸器、輸液ポンプ、超音波診断装置、

緊急処置用器材が整然と配置されている。


単なる救急車ではない。


走る救命処置室。


それがMERだった。


加藤が第一車へ乗り込む。


助手席の看護師が無線を確認する。


「中京港まで二十二分。」


「道路状況は?」


「豪雨の影響で一部冠水。ただし、警察が緊急車両用ルートを確保しています。」


「分かりました。」


エンジンが始動する。


赤色灯が回り始める。


病院の白い壁が赤い光に染まった。


二台のMERは同時に車庫を出る。


豪雨の夜へ。


中京港へ。


そして、まだ見えない多数の傷病者のもとへ。


加藤は窓の外を見つめていた。


無線機から、事故現場の断片的な情報が流れてくる。


『第一分隊、第七層進入』


『右舷中央部、構造変形拡大』


『傾斜角、二十度』


彼女の手が、膝の上でわずかに握られた。


しかし、その表情は変わらない。


看護師は気づかなかった。


加藤が無線から聞こえる「第一分隊」という言葉にだけ、ほんの少し強く反応していたことを。


    ◇


《スピリット号》第七層。


「助けて……!」


煙の向こうから、かすかな声が聞こえた。


朝田は立ち止まり、右手を上げる。


第一分隊の全員が動きを止めた。


「方向は?」


位野木が小声で尋ねる。


朝田は耳を澄ませた。


風の音。


火災の低い唸り。


船体を流れる水。


それらに混じり、もう一度声がする。


「……ここ……」


朝田は通路左側へライトを向けた。


客室番号、七〇四。


扉は半分開いている。


しかし、倒れた荷物棚が入口を塞いでいた。


「七〇四号室。」


佐倉が配置図へ印をつける。


「要救助者確認。位野木、入口確保。」


「了解。」


位野木は前へ出ると、扉と棚の状態を確認した。


「棚は右側で固定。下から持ち上げれば動く。」


朝田が煙を確認する。


「室内の煙は薄い。窓が割れている可能性があります。」


「火は?」


「見えません。」


位野木は撬棒を差し込んだ。


「第一班、補助!」


二名の隊員が加わる。


「一、二、三!」


金属棚が持ち上がる。


床を擦る音。


わずかな隙間。


「朝田、入れるか!」


朝田は姿勢を低くし、隙間へ身体を滑り込ませた。


室内は大きく傾いていた。


ベッドは右舷側の壁へ移動し、テレビと机は倒れている。


その隙間に、一人の少女がいた。


十歳前後。


割れた窓から入る雨に濡れながら、壁際で膝を抱えている。


右腕には血が滲んでいた。


朝田が近づく。


「NRSです。助けに来ました。」


少女は怯えた目で彼を見る。


「お母さんが……」


「お母さんはどこですか?」


少女は震える指で浴室の方を示した。


「中に……動かなくなって……」


朝田は無線へ報告する。


「要救助者二名。少女一名、意識清明。成人女性一名、浴室内。」


『了解』と佐倉。


「位野木、少女を先に。」


「分かった。」


朝田は少女の身体を確認する。


「立てますか?」


少女は首を横に振った。


「足が……痛い。」


左足首が不自然に腫れている。


朝田は簡易固定具を取り出した。


「少し触ります。」


少女が不安そうに彼を見る。


「痛い?」


「少しだけ。」


「我慢できるか?」


少女は唇を噛んで頷いた。


朝田は足首を固定し、救助用ハーネスを装着する。


「外に大きな人がいます。」


「大きな人……?」


「声も大きいです。」


入口の向こうから位野木が叫んだ。


「全部聞こえてるぞ!」


少女の顔に、初めて少しだけ笑みが浮かんだ。


朝田は彼女を抱き上げ、入口まで運ぶ。


「位野木。」


「任せろ。」


位野木の両腕が隙間から伸びる。


少女を慎重に受け取る。


「大丈夫だ。おじさんが外へ連れていく。」


「おじさん……?」


位野木の動きが一瞬止まる。


「お兄さんだ。」


少女は小さく首を傾げた。


周囲の隊員から笑いが漏れる。


「笑うな! 早く搬送しろ!」


少女が医療班へ渡される。


朝田はすぐに浴室へ向かった。


床には水が溜まり、扉は内側から何かに押されて半分しか開かない。


「聞こえますか!」


返事はない。


朝田は隙間からライトを入れる。


女性が床へ倒れていた。


頭部が洗面台の下に入り、身体は動いていない。


朝田は扉を押す。


動かない。


「障害物あり。浴室扉、開放不能。」


位野木が入口から叫ぶ。


「壊すか?」


「内側に傷病者がいる。扉を倒せない。」


朝田は扉の蝶番を見る。


下側は変形している。


上側だけを外せば、扉を横へずらせる可能性がある。


「小型切断機を。」


隊員が工具を差し入れる。


朝田は上側蝶番へ刃を当てた。


金属音。


火花。


浴室内へ火花が入らないよう、濡れた防火布で周囲を覆う。


「切断開始。」


高い音が室内に響いた。


その瞬間。


船体が大きく揺れた。


ゴォン――!


朝田は壁へ肩をついて身体を支える。


浴室の中で、女性の身体が少し滑った。


「傾斜増加!」


無線から池田の一斉通信が入る。


『全分隊へ。傾斜角二十一度。右舷中央部の変形拡大。各隊、撤退経路を再確認せよ』


佐倉が即座に応答する。


「第一分隊、了解。」


位野木は室内へ向かって叫んだ。


「朝田、あと何分だ!」


「一分。」


「三十秒でやれ!」


「無理です。」


「なら四十秒!」


朝田は切断機を押し込む。


火花が散る。


蝶番が赤く焼ける。


あと少し。


そのとき、浴室の女性が小さく咳をした。


生きている。


朝田の目が変わる。


「意識反応あり。」


「急げ!」


「今やっています!」


蝶番が切れた。


扉上部が外れる。


朝田は扉を持ち上げ、横へずらした。


「開放!」


浴室へ入る。


女性の呼吸を確認する。


浅い。


額に裂傷。


左肩が不自然な位置にある。


「成人女性、意識低下。呼吸あり。左肩脱臼または骨折の可能性。」


朝田は頸部を固定し、女性へ声をかける。


「聞こえますか。娘さんは無事です。」


女性のまぶたがわずかに動いた。


「……娘……」


「外へ出ました。」


その言葉を聞いた瞬間、女性の身体から力が抜けた。


安心したのだろう。


朝田は搬送シートを広げる。


入口の向こうで、位野木がロープを準備する。


「送れ!」


朝田は女性をシートへ移し、頭部を固定した。


「引くぞ!」


「ゆっくり!」


ロープが張る。


女性の身体が客室内を滑っていく。


その最中。


天井の一部が大きく膨らんだ。


朝田は顔を上げる。


配管から水が漏れている。


いや。


漏れているのではない。


天井裏に溜まった水が、板材を押し下げている。


「位野木、急げ!」


「引いてる!」


女性が入口を抜ける。


位野木たちが受け取る。


朝田も後退しようとした。


その瞬間。


天井板が落ちた。


バシャッ――!


大量の水が客室内へ流れ込む。


朝田の膝まで一気に水位が上がる。


「朝田!」


位野木が叫ぶ。


「出口へ!」


朝田は水をかき分け、棚の隙間へ向かう。


しかし、船体がさらに右へ傾く。


倒れていたベッドが滑り始めた。


重い金属フレームが、朝田と出口の間へ迫る。


「危ない!」


位野木が撬棒を差し込む。


ベッドの脚を受け止める。


「早く出ろ!」


朝田は隙間へ身体を滑り込ませる。


ベッドが撬棒を押し込む。


位野木の腕が震える。


「あと少し!」


「分かってる!」


朝田の肩が出口を抜ける。


位野木がその装備をつかみ、力任せに引いた。


二人が同時に通路へ倒れ込む。


直後。


ベッドが入口を完全に塞いだ。


ドンッ!


誰も言葉を発しなかった。


数秒後、位野木が朝田の胸元をつかむ。


「怪我は!」


「ありません。」


「本当か!」


「本当です。」


位野木は大きく息を吐き、手を放した。


「毎回、心臓に悪いんだよ。」


「今回は単独行動ではありません。」


「そういう問題じゃない!」


佐倉が二人の前へ来る。


「言い争いはあとだ。傷病者を搬送する。」


「了解。」


医療班が女性を担架へ固定する。


その傍らには、先ほど救出された少女がいた。


少女は母親の姿を見つけ、泣きながら手を伸ばす。


「お母さん!」


女性はまだ意識が朦朧としている。


それでも、娘の声に反応するように指先をわずかに動かした。


朝田はその様子を確認し、立ち上がる。


佐倉が配置図を見る。


「第七層、残り四名。」


そのとき、無線機から第二検索班の報告が入った。


『第一分隊、こちら第二検索班! 七一二号室付近で三名確認! うち一名、自力移動不能!』


佐倉は即座に答える。


「現在地を維持。第一分隊が向かう。」


『了解!』


別の通信が重なる。


『指揮所より全隊! 海軍《雄獅》、事故海域へ到着!』


船外から、低く重い汽笛が響いた。


ボォォォ――


暴風雨と鋼鉄の軋みに混じりながらも、その音は船内まで届いた。


位野木が顔を上げる。


「海軍が来たか。」


佐倉は短く頷く。


「これで搬送能力が上がる。」


朝田は暗い通路の先を見る。


「まだ船内には人がいます。」


「ああ。」


佐倉は無線機を握り直した。


「第一分隊、七一二号室へ移動。」


「了解!」


隊員たちは再び隊形を組む。


その背後で、救出された母娘が暗闇の中から運び出されていく。


一つの命が、次の手へ渡される。


第一分隊から医療班へ。


医療班から搬送班へ。


救難艇から救難艦へ。


そして、海軍、空軍、港、病院へ。


嵐の中で。


巨大な命のリレーが、今まさに動き始めていた。



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― 新着の感想 ―
いや、この第7章、マジで胸熱すぎるだろ……!男として、こういう命がけのプロの仕事を見せられると、30代の今の年齢だからこそ余計にグッとくるものがあるわ。 個人的にツボだったポイントをいくつか語らせてく…
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