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Coding  作者: ルーベン・ファーガソン
本編 (Coding:Rescue)
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第六章 選択

《スピリット号》の右舷サービス区画で、朝田大輔と位野木佐次郎は暗闇の奥から響く救難信号を確認した。


佐倉修一から与えられた捜索時間は、わずか三分。


二人は浸水したサービス通路へ進入し、蒸気漏れや露出した配線を避けながら、

倒壊した棚の向こうに取り残された二名の船員を発見する。


一人は頭部を負傷し、意識が低下した若い女性船員。


もう一人は、左脚を棚の下に挟まれた年配船員だった。


朝田は狭い隙間を単独で通過し、位野木と連携しながら救出を開始する。

しかし、船体の構造音は次第に変化し、艙壁には細い亀裂が走り始めた。


やがて、その亀裂から黒い水が噴き出す。


救助を続ける時間は、もうほとんど残されていない。


崩壊し始めた船内で、二人は負傷者の命と、自分たちが撤退できる可能性の間に立たされていた。

黒い水が、壁の亀裂から流れ出していた。


最初は細い筋にすぎなかった。


だが、船体が軋むたびに亀裂は少しずつ広がり、水量も確実に増えている。


「朝田!」


棚の向こうから、位野木佐次郎の声が飛んだ。


「いつまで支えればいい!」


「あと十秒!」


「さっきも十秒って言ったぞ!」


朝田大輔は返事をせず、棚の下に挟まれている年配船員の脚へ手を伸ばした。


倒れた金属棚は、位野木が反対側から支えている。


わずか五センチ。


それだけ持ち上げれば、脚を圧迫している木箱を引き抜ける。


しかし、船体の傾斜と床に広がった水のせいで、棚は今にも横へ滑り出しそうだった。


「もう少しです!」


年配船員は歯を食いしばり、壁に背中を押しつけていた。


額には大粒の汗が浮かび、顔色も悪い。


それでも、自分の脚より、近くに倒れている若い女性船員を気にしている。


「彼女を……先に……」


「二人とも連れていきます」


朝田は短く答えた。


「木箱を抜きます。痛みますが、動かないでください」


船員が頷く。


朝田は片手で棚を支えながら、もう片方の手を隙間へ差し込んだ。


指先が木箱の縁に触れる。


あと少し。


そのとき、船体の奥から鋭い音が響いた。


ピキッ――


壁の亀裂が伸びる。


水が細い噴流となって吹き出し、朝田の防護服を濡らした。


「構造音が変わった!」


位野木が叫ぶ。


「分かってる!」


「なら急げ!」


「急いでる!」


「お前がそう言うときは、だいたい遅い!」


朝田は木箱を強くつかんだ。


一度では動かない。


床と棚の間に挟まり、完全に噛み込んでいる。


彼は身体を低くし、足を壁へ押しつけた。


「位野木、もう三センチ上げられるか?」


「簡単に言うな!」


「上げられるか?」


位野木は息を吐いた。


「上げる!」


棚の反対側で、金属が軋む。


位野木が肩と両腕で支柱を押し上げた。


「今だ!」


隙間がわずかに広がる。


朝田は木箱を一気に引いた。


ガッ――!


箱が外れ、床の上を滑る。


「脚を抜いてください!」


年配船員は両手で自分の太腿を抱え、必死に身体を後ろへ引いた。


圧迫されていた左脚が棚の下から抜ける。


「抜けた!」


「離れるぞ!」


位野木の声と同時に、朝田は船員の身体を抱えて棚から遠ざけた。


「三、二、一!」


位野木が支柱から手を離す。


金属棚は床へ落下し、激しい音を立てた。


ドンッ!


衝撃で倉庫全体が揺れ、天井から断熱材と粉塵が降り注ぐ。


朝田は船員を庇うように身体を伏せた。


数秒後。


大きな崩落が起きていないことを確認し、顔を上げる。


「位野木!」


「生きてる!」


棚の向こうから返事があった。


「そっちは?」


「二人とも生存!」


    ◇


「なら、さっさと出すぞ!」


朝田は年配船員の脚を確認した。


脛には強い圧迫痕があり、腫脹も始まっている。大きな出血はないが、自力歩行は難しい。


「脚は動かせますか?」


船員はゆっくりと足首を動かした。


「少しなら……」


「立たないでください。圧迫時間が長い可能性があります」


朝田は無線機を取った。


「佐倉、男性船員の圧迫を解除。左下腿損傷、自力歩行困難。女性船員は意識レベル低下、呼吸あり」


無線から佐倉修一の声が返る。


『出口側に医療班を待機させている。二名を順番に通せ』


「この隙間では担架を使えません」


『簡易搬送具は?』


朝田は周囲を見回した。


倒れた棚。


散乱した箱。


破損した調理器具。


その中に、厚手の防水シートが半分だけ見えている。


「代用します」


朝田はシートを引き抜き、意識のない女性船員のそばへ広げた。


頭部を動かさないよう頸部を手で支え、身体をゆっくりと横へ転がす。


「位野木、ロープを送ってくれ」


「待ってろ」


棚の隙間から安全ロープが差し込まれる。


朝田はシートの四隅を折り、ロープを通して即席の搬送具を作った。


「女性から出す。頸椎損傷の可能性がある。引くときはゆっくり」


「了解」


朝田は女性の頭側につき、身体の位置を整えた。


「準備できた」


「こちらもだ」


「引け」


ロープが張る。


女性を乗せたシートが、濡れた床の上をゆっくりと滑り始めた。


棚の下を通すとき、肩が金属部に当たりそうになる。


朝田は片手で頭部を固定し、もう片方で身体の向きを調整した。


「少し左」


「こっちの左か、お前の左か!」


「位野木から見て右!」


「最初からそう言え!」


位野木の声が倉庫に響く。


その騒がしさとは反対に、ロープの動きは慎重だった。


少しずつ。


決して急がず。


女性船員の身体が棚の隙間を抜けていく。


やがて、向こう側から声が上がった。


「確保した!」


朝田は息を吐いた。


「医療班へ渡せ」


「分かってる。次は男性だ!」


朝田は年配船員の腰へロープを固定した。


「脚を浮かせます。痛みが出たら言ってください」


船員は頷いた。


「あなたは……?」


「後から出ます」


「でも、水が……」


壁から噴き出す水は、すでに床一面へ広がっている。


足首までは届いていない。


しかし、確実に増えていた。


「大丈夫です」


朝田は船員の肩へ腕を回した。


「今は、自分のことだけ考えてください」


棚の隙間まで移動させたあと、朝田は脚が金属部へ当たらないよう、両手で支えた。


「位野木、引けるか?」


「いつでも来い!」


「ゆっくりだ」


「分かってる!」


船員の身体が、棚の下へ入る。


圧迫されていた脚が少し触れるたび、苦痛に顔が歪んだ。


「あと少しです」


朝田は声をかけ続けた。


「呼吸を止めないでください」


「はい……」


「前を見て」


棚の向こうから、位野木の太い腕が伸びてきた。


船員の救命胴衣をつかむ。


「もう大丈夫だ。こっちへ来い!」


最後の一引きで、船員の身体が隙間を抜けた。


「確保!」


位野木の声が響く。


    ◇


同時に、無線から佐倉の声が入った。


『朝田、残り三十秒。即時撤退しろ』


「了解」


朝田は安全ロープを自分の腰へ結び直した。


床へ伏せ、棚の下へ身体を入れる。


その瞬間。


壁の亀裂が大きく開いた。


バキッ――!


水が一気に噴き出す。


倉庫の中で白い飛沫が広がり、床を流れる水が急激に深くなった。


「朝田!」


「動くな!」


朝田は棚の下で身体を止めた。


船体が右舷へ傾く。


散乱していた箱や金属容器が、一斉に水の流れへ乗った。


ガンッ!


金属容器が棚へ衝突する。


棚全体が揺れた。


朝田の背中に金属板が触れる。


「棚が動いた!」


位野木が叫ぶ。


「ロープを引け!」


「まだだ!」


「何がまだだ!」


朝田の左足に、何かが引っかかっていた。


振り返る余裕はない。


手を伸ばして確認すると、倒れた配管の固定金具が安全ロープに絡んでいる。


このまま位野木が引けば、ロープが締まり、朝田の身体は棚と床の間に固定される。


「ロープが絡んだ」


「切れるか?」


朝田は腰のナイフへ手を伸ばした。


「切れば戻れない」


「予備を送る!」


「隙間を通らない」


棚が再び揺れる。


ミシッ。


金属板が、朝田の気瓶へ押しつけられた。


無線から佐倉の声が飛んだ。


『何が起きている!』


位野木が答える。


「朝田の安全ロープが障害物に絡んだ! 棚も動いている!」


『位野木、引き戻せるか?』


「無理に引けば挟まる!」


『朝田、状況は?』


「ロープ固定金具に絡まり。自力解除を試みます」


『十秒で解除できなければロープを切れ』


朝田は金具へ手を伸ばした。


水の流れが強く、指先が何度も外れる。


「朝田!」


位野木の声が近い。


「手を伸ばせ!」


棚の向こうから、位野木が腕を差し入れていた。


しかし、距離が足りない。


指先と指先の間には、まだ三十センチ以上ある。


「届かない」


「なら前へ来い!」


「ロープが動かない」


「切れ!」


「切ったら水に流される」


「俺がつかむ!」


「届かない」


「届かせる!」


位野木はさらに身体を棚の下へ入れようとした。


だが、彼の肩幅では通らない。


金属が防護服を擦る。


「位野木、入るな」


「黙れ!」


「二人とも挟まる」


「お前を置いて帰れるか!」


その声に、朝田は一瞬だけ動きを止めた。


位野木はいつも大声だった。


新人を叱るときも。


隊員を励ますときも。


冗談を言うときも。


だが今の声は違った。


怒っているのではない。


恐れていた。


朝田を、この暗闇に残すことを。


「位野木」


「何だ!」


「三秒後にロープを切る」


位野木の表情が変わる。


「待て」


「水が増えている」


「待てと言ってる!」


「切ったら、棚が傾く前に前へ出る」


「俺が腕をつかむ」


「届く位置まで行く」


朝田はナイフをロープへ当てた。


「三、二——」


そのときだった。


棚の向こうから別の安全ロープが飛んできた。


朝田の腕へ巻きつく。


「朝田! それをつかめ!」


佐倉の声だった。


朝田は目を見開いた。


「分隊長?」


「入口から第二ロープを通した。位野木、朝田の右腕へ固定しろ!」


「了解!」


位野木は棚の下へ腕を伸ばし、ロープの先端を朝田の手首へ巻きつけた。


完全な固定ではない。


それでも、水に流されるのを防ぐには十分だった。


「固定した!」


『朝田、元のロープを切れ!』


朝田は迷わずナイフを引いた。


安全ロープが切れる。


腰への張力が消え、身体が水の流れに押された。


「引け!」


位野木と通路側の隊員たちが同時にロープを引く。


朝田は両腕で床を押し、棚の下を進んだ。


気瓶が金属へ引っかかる。


「止まった!」


「身体を左へ回せ!」


位野木の指示に従い、朝田は肩を傾ける。


気瓶が金属板を擦りながら抜けた。


あと少し。


位野木の手が見える。


朝田は腕を伸ばした。


今度は届いた。


位野木が手首をつかむ。


「つかまえた!」


    ◇


そのまま力任せに引き抜いた。


朝田の身体が棚の下から滑り出す。


直後。


金属棚が完全に崩れ落ちた。


轟音が通路を揺らす。


もしあと数秒遅れていれば、朝田はその下に押し潰されていた。


位野木は朝田の肩をつかみ、壁際まで引きずった。


「立てるか!」


「ああ」


「怪我は!」


「ない」


「本当か!」


「気瓶も正常だ」


「そんなことは聞いてない!」


位野木は朝田の両肩を強くつかんだ。


ヘッドライトに照らされた顔には、怒りと安堵が同時に浮かんでいる。


「お前は……!」


言葉が続かなかった。


朝田は短く息を整えた。


「二人は?」


位野木は一瞬黙り、顎で通路の先を示した。


「医療班が搬送中だ」


「なら撤退する」


「当たり前だ!」


位野木は切れた安全ロープの代わりに、新しいロープを朝田の腰へ固定した。


金具を締める手つきは、普段以上に強かった。


「痛い」


「黙れ」


「締めすぎだ」


「外れるよりいい」


二人はサービス通路を戻り始めた。


水はすでに足首近くまで達している。


蒸気漏れも強くなり、視界はさらに悪化していた。


「佐倉、二名救出。朝田も確保。これより撤退する」


『了解。入口で合流する』


無線が切れたあと、位野木は小さく息を吐いた。


「さっきのは、俺の判断ミスだ」


朝田が横を見る。


「何が?」


「お前を一人で棚の向こうへ行かせた」


「他に方法はなかった」


「それでもだ」


位野木は前を向いたまま言った。


「副分隊長の仕事は、隊員を前へ出すことじゃない。戻ってこられるようにすることだ」


朝田は少し黙った。


「戻った」


「結果論だ」


「助けた二人も戻った」


「それも結果論だ」


位野木の声は低かった。


「次も同じようにいくとは限らない」


朝田は答えなかった。


ただ、位野木の言葉を否定もしなかった。


    ◇


右舷消防通路の入口へ戻ると、佐倉と医療班が待っていた。


意識のない女性船員は頸部を固定され、担架へ乗せられている。

年配船員も応急処置を受け、別の搬送具に横たわっていた。


佐倉は二人の姿を確認すると、朝田へ視線を向けた。


「負傷は?」


「ありません」


「装備は?」


「安全ロープ一本を切断。気瓶圧七十一パーセント」


佐倉は一度頷いた。


「位野木」


「はい」


「三分の追加で、何分使った?」


位野木は時計を見る。


「五分四十二秒」


「二分四十二秒超過だ」


「分かっています」


「理由は?」


「二名を置いて撤退できなかった」


佐倉は厳しい表情のまま、何も言わなかった。


数秒の沈黙。


そのあと、彼は医療班へ向き直る。


「傷病者を先に搬送。第一検索班は気瓶圧と装備を再確認し、交代要員が来るまで待機」


位野木が尋ねた。


「処分はあとですか?」


佐倉は彼を見る。


「今ここで説教して船が沈まなくなるなら、いくらでもする」


「……そうですね」


「ただし、忘れるな」


佐倉の視線が朝田にも向けられる。


「救出できたことと、判断が正しかったことは同じではない」


朝田は静かに答えた。


「了解しました」


位野木も頷く。


「了解」


そのとき、基地指揮所から一斉通信が入った。


『精神号内、全分隊へ通達』


池田裕の声だった。


雑音の向こうでも、普段以上に緊張していることが分かる。


『右舷下層区画で浸水を確認。船体傾斜角は現在十八度。

構造解析班は、右舷中央部に局所的な変形が発生している可能性が高いと判断した』


周囲の隊員たちが顔を上げる。


十八度。


大型船の内部で感じる傾斜としては、すでに相当大きい。


床は歩きにくく、物品は固定されていなければ滑り出す。


担架搬送にも複数の隊員が必要になる。


池田の通信は続いた。


『今後、傾斜角が二十度を超えた場合、または船体構造音に急激な変化があった場合、

各分隊長の判断で検索を中止し、即時撤退せよ』


位野木が無線機を握り直す。


検索中止。


即時撤退。


その言葉は簡単だった。


だが、船内にはまだ失聯者がいる。


佐倉が応答した。


「第一分隊、了解」


『佐倉』


池田が個別通信へ切り替える。


『現在の未確認者数は?』


「船方名簿と避難者照合では、十九名です。ただし重複や未登録避難者を含む可能性があります」


『最後に確認された位置は?』


佐倉は紙の配置図を開いた。


「第七層客室区画に六名。車両甲板付近に八名。残り五名は位置不明です」


『車両甲板は右舷変形区画に近い』


「承知しています」


『無理はするな』


池田の声が低くなる。


『隊員を失えば、残った者も救えなくなる』


「了解」


通信が切れる。


    ◇


その場にいる全員が、同じ図面を見ていた。


十九名。


数字だけなら、まだ十九。


だが、それぞれに名前があり、家族があり、外で帰りを待つ人がいる。


一方で、第一分隊の装備も体力も無限ではない。


気瓶の残量。


担架の数。


医療班の人数。


安全に使える撤退経路。


どれも少しずつ限界へ近づいている。


医療班の隊員が佐倉へ報告した。


「分隊長、搬送用担架は残り二台です。簡易搬送具も三セットしかありません」


別の隊員が続ける。


「予備気瓶は消防通道入口に六本。ただし、この区画まで運ぶには人員が必要です」


消防支援組からも通信が入った。


『輪機区画の防火境界が上昇しています。追加の隊員が必要です。

このままでは、火勢が上層へ回る可能性があります』


直後、疏散組から別の報告。


『第七層客室区画で複数の負傷者を確認。医療班の支援を要請します』


消防。


医療。


検索。


すべてが人を必要としている。


すべてが、今すぐ助けを求めている。


しかし、第一分隊の人員は増えない。


佐倉は配置図を見つめたまま、動かなかった。


位野木が腕を組む。


「消防へ人を回せば、第七層の負傷者搬送が遅れる」


医療班の隊員が言う。


「でも、火が上がれば客室区画そのものが使えなくなります」


「車両甲板の八名も残っている」


別の隊員が小さく呟いた。


誰も答えられなかった。


朝田は図面へ視線を落とす。


輪機区画。


第七層客室。


車両甲板。


三つの場所。


三つの危険。


必要な人員は、現在使える数を超えている。


佐倉がようやく口を開いた。


「第一分隊の現在稼働可能人数は?」


位野木が即答する。


「軽傷者を除いて十八名。うち医療班四名、消防支援五名、検索班九名」


「気瓶交換が必要な者は?」


「七名」


「つまり、すぐ動けるのは十一名か」


佐倉は目を閉じた。


ほんの数秒。


それでも、隊員たちには長く感じられた。


分隊長が何かを選ぶ。


その選択によって、救われる者と、待たされる者が生まれる。


誰かを優先することは、別の誰かを後回しにすることだった。


やがて、佐倉は目を開いた。


「消防支援組から二名を輪機区画へ送る。残り三名は第七層へ同行し、煙と火勢の監視を担当」


位野木が図面を見る。


「車両甲板は?」


「現時点では進入しない」


その場の空気が変わった。


若い隊員が思わず顔を上げる。


「でも、八名が——」


位野木が視線だけで制した。


佐倉は続ける。


「車両甲板は右舷変形区画に近く、現在の人員と装備では安全を確保できない。まず第七層の六名を救出し、撤退経路を確保する」


「車両甲板の人たちは待たせるんですか」


若い隊員の声が震えていた。


佐倉は彼を見た。


「そうだ」


はっきりとした答えだった。


「でも——」


「今、車両甲板へ人員を割けば、第七層の負傷者搬送も、輪機区画の防火も中途半端になる」


佐倉の声は冷静だった。


だが、感情がないわけではない。


その判断の重さを、誰より理解している顔だった。


「全部を同時には救えない」


若い隊員は唇を噛んだ。


「それでも、待っている人がいます」


位野木がゆっくりと口を開く。


「いる」


その声は、いつものような大声ではなかった。


「だから、戻るために順番を決める」


若い隊員が位野木を見る。


「本当に戻れますか?」


位野木はすぐには答えなかった。


右舷側から、船体が軋む音が聞こえる。


低く。


長く。


まるで、答えを急かすように。


「分からない」


位野木は正直に言った。


「俺たちは神様じゃない。全員を必ず救えるなんて、約束はできない」


若い隊員の表情が曇る。


位野木は続けた。


「だが、ここで全員が倒れれば、次に助けられる命もなくなる」


彼は若い隊員の肩へ手を置いた。


「生きている救難士だけが、次の人を救える」


誰も言葉を発しなかった。


それは正しい。


あまりにも正しく、だからこそ苦しい言葉だった。


朝田は配置図を見つめたまま言った。


「車両甲板へ行く別の経路があります」


佐倉が顔を上げる。


「どこだ?」


朝田は図面上の細い線を指した。


「左舷側の乗員用通路です。通常は車両甲板の管理室へ通じています」


位野木が図面を覗き込む。


「左舷を回るのか。距離が長すぎる」


「右舷変形区画を避けられます」


「途中の防火扉は?」


「二か所。船員の鍵が必要です」


佐倉は救出した年配船員を見る。


医療処置を受けていた彼は、会話を聞いていたらしい。


弱々しく手を上げた。


「管理用の……共通鍵なら、私が持っています」


彼は制服の胸元を探ろうとした。


医療班員が代わりにポケットから鍵束を取り出す。


複数の鍵と、識別札。


その中に「VEHICLE CONTROL」と書かれた札があった。


朝田は鍵を受け取る。


佐倉が尋ねた。


「その経路を使えば、何分かかる?」


「第七層の救出後、左舷通路から車両甲板管理室まで約十分。ただし、通路の状態が正常なら、です」


「正常でなければ?」


「分かりません」


位野木が腕を組んだ。


「結局、賭けだな」


朝田は首を横に振る。


「賭けにはしない」


「状況が見えないぞ」


「だから、先に第七層へ行く。その途中で左舷側の煙流と構造状態を確認する」


朝田は図面を指でなぞる。


「使えると判断できれば、救出後に車両甲板へ向かう。危険なら行かない」


若い隊員が聞く。


「行かない、という選択もするんですか?」


朝田は彼を見た。


「する」


迷いのない答えだった。


「救難は、行く勇気だけでは成立しない。行かない判断も必要だ」


「でも、それで人が——」


「だから判断する」


朝田の声は静かだった。


「助けたいという気持ちだけで進めば、救助ではなくなる」


若い隊員は何も言えなくなった。


佐倉は配置図を畳んだ。


「決定する」


全員の視線が集まる。


「第一分隊は第七層客室区画の救出を優先する。その移動中に左舷乗員通路の状況を確認。車両甲板への進入可否は、その時点で再判断する」


位野木が頷く。


「了解」


「消防支援二名は輪機区画へ。残りは気瓶交換後、第七層へ向かう」


「了解!」


隊員たちが動き始める。


予備気瓶が運び込まれ、空になりかけたボンベが交換される。


安全ロープ。


無線。


照明。


装備が再び確認されていく。


位野木は朝田の腰へ新しい安全ロープを固定した。


「今度は切るなよ」


「状況次第だ」


「切るなと言ってる」


「絡まったら切る」


「絡ませるな」


朝田は何も答えなかった。


位野木は金具を強く引き、固定を確認する。


「朝田」


「何だ?」


「車両甲板へ行けると思うか?」


朝田は少しだけ考えた。


「今は分からない」


「珍しく正直だな」


「最初から正直だ」


位野木は鼻で笑った。


「嘘をつかないことと、全部話すことは違うぞ」


朝田は位野木を見た。


その言葉には、任務以外の意味も含まれていた。


過去のこと。


二人が以前、どこで出会ったのか。


なぜ位野木が朝田を信じるのか。


だが、今は話すときではない。


「戻ったら話す」


朝田が言った。


位野木の動きが止まる。


「何をだ?」


「聞きたいことがあるんだろ」


位野木は数秒、朝田を見つめた。


やがて、いつもの豪快な笑みを浮かべる。


「なら、絶対に戻らないとな」


「そのつもりだ」


「よし!」


位野木は周囲の隊員へ振り返った。


「第一分隊、準備できたか!」


「準備完了!」


「気瓶圧力!」


「正常!」


「安全ロープ!」


「確認!」


「目的地は第七層客室区画! 六名を救出し、全員で戻る!」


位野木は拳を上げた。


「元気があれば——」


隊員たちが応える。


「何でもできる!」


「その通りだ!」


位野木の声が船内に響く。


「だが、無理はするな! 危険を感じたら必ず報告しろ! 

勝手に英雄になる奴は、俺が基地に戻ってから殴る!」


隊員たちの間に小さな笑いが起きる。


佐倉が先頭へ出た。


「第一分隊、前進開始」


防火扉が開かれる。


その先には、再び暗い通路が続いていた。


第七層には六名。


車両甲板には八名。


そして、まだ居場所すら分からない者が五名。


すべてを救える保証はない。


次にどの道が閉ざされるかも分からない。


それでも、彼らは進む。


一つの命を選ぶためではない。


次の命へたどり着くために、今できる最善を選び続ける。


第一分隊の光が、再び暗闇の中へ入っていった。


その直後。


無線機から、緊迫した声が飛び込んできた。


『第七層検索班より緊急報告!』


佐倉が足を止める。


「こちら第一分隊。状況を報告しろ」


『客室区画で火災煙が急速に流入! 負傷者六名のうち、二名が自力移動不能!』


激しい咳と、乗客の叫び声が無線越しに聞こえる。


『さらに、左舷側通路で防火扉が閉鎖! 現在の撤退経路が使えません!』


第一分隊の全員が、佐倉を見た。


先ほど選んだばかりの道が、もう閉ざされようとしている。


佐倉は一度だけ目を閉じた。


そして、すぐに無線機を握り直す。


「第七層検索班、その場で煙を遮断しろ。第一分隊が向かう」


『了解!』


佐倉は前を向いた。


「急ぐぞ」


隊員たちが走り出す。


暗闇の中で。


また一つ、新しい選択が彼らを待っていた。

ここまで『Coding』を読んでいただき、本当にありがとうございます。


第一章から第六章にかけては、停電した船内という極限の状況を舞台に、第一分隊の活動を中心に描いてきました。


暗闇、煙、浸水、そして刻一刻と変化する船体の状況。


その中で、救難士たちは「一人でも多くの命を救いたい」という思いと、「仲間全員で帰る」という使命の間で、何度も難しい選択を迫られています。


この作品を読んでくださる皆さまからいただく感想や応援の言葉は、執筆を続ける大きな力になっています。


一つひとつのメッセージを励みにしながら、朝田たちの物語を最後まで丁寧に描いていきたいと思っています。


物語は、まだ終わりません。


第一分隊を待っている試練は、これからさらに厳しくなっていきます。


最後まで見届けていただけたら、とても嬉しいです。


これからも『Coding』を、どうぞよろしくお願いいたします。


RUBEN FERGUSON

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― 新着の感想 ―
『Coding』第六章「選択」を読ませていただきました!もう、緊迫感が凄すぎて息をするのを忘れるくらい引き込まれちゃいました。30代になって涙もろくなったせいか、極限状態での人間ドラマにめちゃくちゃ感…
感想一覧
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