第五章 断層
《スピリット号》は、火災の拡大によって全電源を喪失した。
非常照明も船内放送も停止し、船内は完全な暗闇に包まれる。
混乱する乗客たちを前に、NRS海上救難部・中京基地第一分隊は、
紙の配置図と安全ロープを頼りに船内検索を続行した。
第一分隊副分隊長・位野木佐次郎の指揮のもと、隊員たちは装備を再確認し、
朝田大輔の判断で危険な主階段を避け、右舷消防通路から第五層へ進入する。
その先で、第一分隊はレストランに取り残された十四名の乗客を発見。
倒れた設備の下敷きになった少年を救出し、全員を避難させることに成功した。
しかし、右舷サービス区画では原因不明の浸水と、船体が変形するような異音が発生していた。
撤退命令が出される中、暗闇の奥から救難信号が響く。
そこには、まだ誰かがいる。
佐倉修一から与えられた時間は、わずか三分。
朝田と位野木は安全ロープを結び、崩壊の兆候を見せ始めたサービス通路へ向かった。
『三分だ』
無線機から聞こえた佐倉修一の声は、低く、はっきりしていた。
『三分だけ与える。生存者を発見できなくても、時間が来たら必ず撤退しろ』
位野木佐次郎は、朝田大輔の腰に固定した安全ロープをもう一度強く引いた。
金属製のカラビナが、短い音を立てる。
「聞いたな。三分だ」
「ああ」
「返事が軽い」
「時間がない」
朝田はサービス通路へ続く扉を見つめた。
扉の下から流れ出す黒い水は、さっきより少しだけ量を増している。油と煤、それに細かな破片が混ざり、傾いた床をゆっくりと右舷側へ流れていた。
その向こうから、再び音が響く。
コン。
コン。
コン――
二回短く、一回長く。
偶然ではない。
明らかに、人が助けを求めている。
位野木は撬棒を扉の隙間へ差し込んだ。
「朝田、扉の状態は?」
朝田は手の甲を近づけ、表面温度を確認する。
「高温ではない。だが、内側から圧力がかかっている」
「水か?」
「それだけじゃない」
朝田は床へ目を落とした。
扉の下部が、外側へわずかに膨らんでいる。
「向こう側で何かが倒れている。開けた瞬間に荷物か設備が動く可能性がある」
位野木は撬棒を抜いた。
「なら、蝶番側から隙間を作る」
「正面には立つな」
「誰に言ってる」
位野木は鼻を鳴らし、扉の横へ身体を移した。
朝田は安全ロープを近くの支柱へ通し、二人の間に余裕を持たせる。完全に固定すれば動きにくくなるが、緩すぎれば転倒したときに意味がない。
船内検索では、そのわずかな調整が生死を分ける。
「佐倉、これより開放する」
位野木が無線へ告げた。
『了解。残り二分四十秒』
「もう数えてるのか」
『当然だ』
「相変わらず細かいな」
『お前が大雑把すぎる』
位野木は苦笑した。
「言われてるぞ、朝田」
「位野木にだ」
「分かってる」
ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻る。
◇
だが、扉の向こうで再び救難信号が鳴った瞬間、二人の表情は同時に変わった。
位野木が撬棒を差し込む。
「いくぞ」
金属がこすれ合う。
ギギッ――
一度目では動かない。
位野木は支点を変え、今度は体重を乗せた。
「朝田、下を見ろ」
朝田は膝をつき、扉下部へライトを向ける。
黒い水がわずかに逆流した。
「内側の水位が高い。十センチ以上ある」
「開けたら流れるか」
「流れる。足を取られるほどではないが、床の状態は見えなくなる」
「了解」
位野木は息を整えた。
「安全ロープ確認!」
「確認」
「足場!」
「左側は安定。右側は床材が浮いている」
「なら左へ逃げる」
位野木は撬棒を押し下げた。
バキンッ!
扉のロックが外れた。
その瞬間、内側から濁った水が一気に流れ出した。
「下がれ!」
二人は同時に左側へ身体を寄せる。
水は傾斜した床を勢いよく流れ、食器の破片や金属片を押し流していった。
扉も内側から押されるように開き、その向こうで何か大きな物体が倒れる音が響く。
ガンッ!
朝田の頭灯が暗闇を切り裂いた。
通路の中は、想像以上に狭かった。
左右には業務用の棚と収納庫が並び、床には割れた容器や清掃用具が散乱している。
天井からは水滴が落ち、奥の方では配管から白い蒸気が細く噴き出していた。
「視界は三メートル」
朝田が言う。
「煙は薄い。だが、水蒸気が混ざっている」
位野木は扉付近の壁へ蛍光チョークで印をつけた。
入口。
進入時刻。
二名。
簡単な記号だが、後続隊が見れば状況を理解できる。
「入るぞ」
二人はサービス通路へ足を踏み入れた。
水は足首より下だった。
しかし、床の傾斜と散乱物のせいで、歩くたびに靴底が不安定に滑る。
朝田が先に進み、位野木が半歩後ろからロープを管理する。
「信号は右奥からだ」
「聞こえてる」
コン。
コン。
コン――
音はさっきより弱くなっていた。
「急ぐぞ」
「走るな」
「分かってる」
位野木はそう答えながら、歩幅だけを大きくする。
通路の途中で、天井の照明器具が斜めに垂れ下がっていた。
朝田は手を上げて位野木を止める。
「電線が露出している」
位野木がライトを向けた。
切れた配線が水滴に濡れ、床のすぐ上まで垂れている。
「主電源は落ちてる」
「予備電源が復旧すれば通電する可能性がある」
「面倒だな」
「触れるな」
「俺はそんなに信用がないか?」
「さっき扉を力で開けようとした」
「撬棒を使っただろ」
朝田は返事をせず、絶縁棒で配線を壁側へ押し上げた。
位野木が結束バンドで固定し、二人はその下を通過する。
直後、無線から佐倉の声が入った。
『残り二分』
「まだ奥がある」
位野木が答える。
『進入距離を報告』
朝田が振り返る。
「入口から約十五メートル。通路に浸水、深さ五センチ前後。蒸気漏れと電線の露出あり」
◇
『了解。構造音は?』
二人は一瞬、黙った。
低く長い音が、船体のどこかから伝わってくる。
ミシ……。
まるで巨大な何かが、ゆっくりと折れ曲がっているような音。
位野木は天井を見上げる。
「続いてる」
『時間厳守だ』
「了解」
無線が切れる。
二人はさらに奥へ進んだ。
通路は途中で左右に分かれていた。
右は厨房設備区画。
左は倉庫と乗員用通路。
救難信号は一度途切れたあと、左側から聞こえた。
コン。
コン。
今度は長い音が続かない。
朝田は左を指した。
「こっちだ」
二人が曲がると、目の前に崩れた棚が現れた。
大型の金属棚が通路を塞ぎ、その上に業務用冷蔵庫の扉と木製の箱が重なっている。
隙間は人一人が通れるほどもない。
位野木は棚の向こうへ向かって叫んだ。
「NRS海上救難部だ! 聞こえるか!」
一瞬の静寂。
そのあと、かすかな声が返ってきた。
「……ここ……です……」
日本語だった。
成人男性の声。
かなり弱い。
朝田は棚の下へライトを差し込む。
わずかな隙間の向こうに、人の足が見えた。
黒いズボン。
片方の靴が脱げている。
「何人いる!」
位野木が聞く。
「二人……です……一人、意識が……」
◇
声のあとに激しい咳が続いた。
朝田は棚の構造を確認する。
金属棚は左側の支柱に引っかかり、完全には倒れ切っていない。その下に木箱と調理器具が挟まり、不安定な状態で止まっている。
「無理に動かせば全部落ちる」
「別の入口は?」
「図面では、この先に乗員通路へ抜ける扉がある。ただし反対側へ回るには二十メートル以上かかる」
位野木が時計を見る。
残り一分三十秒。
「間に合わない」
朝田は床へ膝をついた。
棚の下部には、人が這って通れるかどうかという程度の隙間がある。ただし、途中で配管と木箱が邪魔をしている。
「俺が入る」
位野木の返答は早かった。
「却下」
「隙間なら通れる」
「お前が入ったら、誰が棚を監視する」
朝田は棚の右上を指した。
そこには大型の金属容器が斜めに引っかかっている。
「船がもう一度傾けば、あれが落ちる」
「なら俺が支える。お前が行け」
「三分の制限がある」
「だから急げ」
位野木は安全ロープを外そうとした朝田の手を押さえた。
「外すな。中で何かあったら引き戻す」
「狭すぎる」
「お前の腰なら通る」
朝田は位野木を見上げた。
「褒めているのか?」
「事実だ」
無線から佐倉の声が飛ぶ。
『残り一分』
位野木が応答した。
「生存者二名を確認。一名は意識低下。倒壊した棚が通路を遮断している」
『撤退しろ』
「救助に入る」
『位野木』
佐倉の声が低くなる。
『許可していない』
位野木は朝田を見る。
朝田は棚の隙間と、奥に見える足を見ていた。
「分隊長」
朝田が無線を取る。
「一名は応答あり。もう一名は意識状態不明。このまま撤退すれば、次に戻るまで持たない可能性がある」
『構造が不安定だ』
「分かっています」
『時間を延長する根拠は?』
朝田は数秒だけ考えた。
感情ではなく、状況を整理する。
「煙は薄く、火炎はありません。浸水は五センチ以下。退路は確保されています。
危険要因は棚の倒壊と船体傾斜ですが、位野木が監視と支持を担当できます」
位野木が小さく笑う。
「信用されてるな、俺」
朝田は続けた。
「救出に必要な時間は、最短で三分」
無線の向こうで沈黙が続いた。
その間にも、船体は低く軋んでいる。
ミシ……。
やがて、佐倉が答えた。
『追加三分』
位野木が息を吐く。
『ただし、構造音が変化した場合は即時撤退。生存者を確保できなくても戻れ』
「了解」
『朝田』
「はい」
『必ず帰ってこい』
◇
朝田は一瞬だけ黙った。
「了解」
無線が切れる。
位野木は朝田の安全ロープを確認し、棚の前に立った。
「俺が上を見ている。何か動いたら、すぐ引き戻す」
「生存者の状態を確認したら報告する」
「分かった」
朝田は床へ伏せ、狭い隙間へ身体を入れた。
肩の装備が金属に当たり、小さな音を立てる。
一度止まり、身体の角度を変える。
「ボンベが引っかかる」
位野木が言う。
「外すか?」
「いや、このまま行く」
「無理するな」
「外した方が危険だ」
朝田は片腕を前へ伸ばし、床を押して少しずつ進んだ。
油と水が混ざった床は滑りやすく、視界はほとんどない。
頭灯の光も、棚と箱に遮られて細い線になっていた。
背後から、位野木の声が聞こえる。
「あと一メートル」
朝田は配管の下をくぐった。
その先で、ようやく空間が広がった。
「抜けた」
「状況は?」
朝田は立ち上がり、周囲を照らす。
そこは小さな備品倉庫だった。
棚がいくつも倒れ、床には段ボール箱と調理器具が散乱している。
天井の一部が剥がれ、断熱材が垂れ下がっていた。
そして、奥の壁際に二人の船員がいた。
◇
一人は年配の男性。
左脚を棚の下に挟まれ、壁にもたれながら金属製の棒で床を叩いていた。
もう一人は若い女性で、床に横たわったまま動かない。
「NRSです」
朝田が近づく。
男性は疲れ切った顔で、それでも安堵したように目を閉じた。
「来て……くれたんですね……」
「彼女は?」
「棚が倒れたときに……頭を打って……それから、ほとんど反応が……」
朝田は女性のそばに膝をついた。
呼吸を確認する。
浅い。
だが、ある。
頸動脈に触れる。
脈は速く、弱い。
「意識レベル低下。呼吸あり、脈拍触知」
無線で報告する。
『外傷は?』と佐倉。
「右側頭部に裂傷。出血は中等量。頸椎損傷の可能性があります」
位野木の声が棚の向こうから響いた。
「運べるか?」
朝田は女性の周囲を確認した。
「この隙間を担架では通せない」
「どうする?」
朝田は視線を男性の脚へ移した。
棚の角が脛を押さえ込んでいる。
出血は少ない。
しかし、長時間圧迫されている可能性がある。
二人。
一人は意識障害。
一人は脚を挟まれて動けない。
残り時間は、三分を切っている。
「まず女性を通路側へ出す」
朝田は言った。
「男性は圧迫を解除してから移動する」
「一人で二人は無理だ」
位野木の声に、朝田は短く答えた。
「棚を動かす」
「朝田」
「支点はこっち側にある。少し持ち上げれば、下の木箱を抜ける」
「崩れる可能性は?」
「ある」
「それを先に言え!」
朝田は倒れた棚へ手を当てた。
「だから、そっちから支えてくれ」
位野木は数秒黙った。
「……お前は本当に、人使いが荒いな」
「副分隊長だろ」
「都合のいいときだけ職位で呼ぶな」
それでも位野木は、すぐに棚の反対側へ身体を入れた。
「どこを支える?」
「右上の支柱。五センチだけ持ち上げる」
「五センチで足りるのか?」
「足りる」
「お前の『足りる』も信用できない」
「それでもやるんだろ」
「当たり前だ」
二人は倒れた棚を挟み、互いの姿が見えないまま位置を取った。
朝田は男性を見る。
「今から棚を上げます。痛みが強くなるかもしれません」
男性は歯を食いしばった。
「お願いします……彼女を、先に……」
「二人とも連れていきます」
朝田は言い切った。
倉庫の床が、小さく震えた。
天井から粉塵が落ちる。
位野木の声が響く。
「朝田、構造音が変わった」
さっきまでの低い軋みとは違う。
今度は、短く鋭い音だった。
ピキッ。
どこかで鋼板か溶接部が裂けた。
一度。
そして、もう一度。
ピキッ――
朝田は天井を見上げた。
「急ぐぞ」
「ああ」
「三秒で上げる」
「了解」
朝田は女性の身体を倒れた棚から離れた位置へ移し、男性の脚の周囲を確認した。
位野木が支柱に両手をかける。
「準備できた!」
朝田も棚の下部へ肩を入れた。
「一、二——」
その瞬間。
船体が、再び右舷へ傾いた。
「三!」
二人は同時に力を込めた。
金属棚が軋みながら、わずかに持ち上がる。
男性が痛みに声を上げた。
「木箱を抜け!」
位野木が叫ぶ。
朝田は片手で棚を支えながら、もう片方の手を隙間へ伸ばした。
指先が木箱に触れる。
あと少し。
しかし、そのとき。
倉庫の壁に一本の細い亀裂が走った。
最初は髪の毛ほどの細さだった。
それが、二人の目の前でゆっくりと伸びていく。
亀裂の向こうから、黒い水がにじみ出した。
一滴。
二滴。
そして次の瞬間、細い水流となって床へ噴き出した。
位野木の顔から、完全に笑みが消えた。
「朝田」
「ああ」
これは単なる配管漏れではない。
船体の内側で。
何かが、本格的に壊れ始めていた。




