第四章 暗闇
中京港を出港した大型客貨船《スピリット号》で火災が発生し、船内には多数の乗客と乗員が取り残された。
NRS海上救難部・中京基地第一分隊は、悪天候の海を越えて現場へ到着し、炎と濃煙が立ち込める船内へ突入。分隊長・佐倉修一の指揮のもと、朝田大輔たちは乗客の避難誘導と負傷者の救助を開始する。
しかし、火勢は想定以上の速さで拡大し、船体の傾斜も徐々に大きくなっていく。
限られた時間の中、一人でも多くの命を救うため、第一分隊は危険な船内検索を続行する。
その直後――《スピリット号》は突然、全電源を喪失した。
闇に包まれた船内で、本当の試練が始まろうとしていた。
警報音が、突然途切れた。
ほんの一秒前まで、耳を刺すような音が船内に鳴り響いていた。
天井の赤い警告灯も、何度も明滅していた。
それが次の瞬間――
すべて消えた。
パチン、と小さな音がした。
そして、《スピリット号》は完全な暗闇に沈んだ。
「停電だ!」
「何も見えない!」
「押すな! 押さないでくれ!」
どうにか保たれていた乗客たちの列が、一気に崩れた。
出口を求めて前へ進もうとする者。
視界を失い、その場にしゃがみ込む者。
足元に置かれていた荷物が傾いた床を滑り、金属製の壁に激突する。
鈍い音が、暗闇の中で何度も響いた。
「美奈!」
女性の悲鳴が聞こえた。
「美奈、どこにいるの!」
その声に反応したように、周囲の乗客たちがさらに動き始める。
「全員、その場から動くな!」
佐倉修一の声が、通路の前方から飛んだ。
「壁につかまれ! 姿勢を低くしろ!」
続いて、無線機に向かって命令を出す。
「第一分隊、全員ヘッドライトに切り替え!」
次の瞬間、いくつもの白い光が同時に灯った。
細い光線が濃い煙を切り裂き、暗闇の中に救難士たちの姿を浮かび上がらせる。
それだけで、乗客たちの混乱はわずかに弱まった。
朝田大輔はライトを点けると、まず足元を確認した。
高齢の男性が床に倒れている。
傾斜した通路で身体を支えきれず、右手だけで手すりにしがみついていた。
そのすぐ後ろでは、混乱した乗客たちが前へ進もうとしている。
このままでは踏まれる。
朝田はすぐにしゃがみ込み、自分の肩で人の流れを止めた。
「止まってください。人が倒れています」
大きな声ではなかった。
それでも、不思議と周囲にはよく通った。
朝田は男性の腕を支え、ゆっくりと立ち上がらせる。
「足は痛みますか?」
男性は荒い息を繰り返しながら、首を横に振った。
「いや……急に真っ暗になって……」
「右側の壁に手をついて、前の救難士についていってください」
朝田は男性を疏散班の隊員に預けた。
そして、暗闇の先へ視線を向ける。
主電源が失われた。
それは、照明が消えたというだけではない。
船内放送。
監視カメラ。
電子ロック。
乗客の位置を確認するための設備。
それらすべてが使えなくなった可能性がある。
大型客貨船《スピリット号》は今、船ではなくなりつつあった。
傾きながら燃える、巨大な鋼鉄の迷路。
それが、現在の姿だった。
◇
無線機から、各隊の報告が次々と入る。
『第一検索班、区画内の照明がすべて消失!』
『中央階段、非常灯が作動していません!』
『第三分隊より報告。船内監視システム、完全にダウン!』
『船橋が予備発電機の起動を試みています。現在、応答なし!』
激しい雑音が声を細かく切り裂いていた。
佐倉は無線機を握り直した。
「第一分隊、前進を中止。各班、人員と装備を確認して報告しろ」
すぐに返答が続く。
『検索第一班、五名。全員確認』
『医療班、四名。全員確認』
『疏散班、六名。うち二名は負傷者を乗船口へ搬送中』
『消防支援班、五名。全員確認』
最後の報告を聞き終え、佐倉は無線機を下ろした。
その直後だった。
「全員、動くな!」
警報よりも大きいのではないかと思うほどの声が、後方から響いた。
第一分隊副分隊長、そしてベテラン救難士である位野木佐次郎が、濃煙の中から現れた。
大柄な身体に重い消防救難装備をまとった姿は、まるで動く壁だった。
ヘッドライトに照らされた顔には、いつもの豪快な笑みはない。
鋭い目で、隊員たちの動きを見ていた。
若い隊員の一人が、前方へ向かおうとしていた。
位野木はその肩ベルトをつかみ、強引に後ろへ引き戻す。
「どこへ行くつもりだ」
「前にまだ乗客がいます。先に助けに――」
「その前に、自分を助けろ」
位野木は隊員の腰にある安全ロープを確認した。
一度引いただけで、顔つきが変わる。
カラビナが完全に閉じていなかった。
「これで前へ行くつもりだったのか?」
若い隊員の顔が青ざめる。
「すみません。さっき急いでいて――」
「俺に謝るな。今すぐ締め直せ」
位野木は自らカラビナを閉じ、二度強く引いた。
外れないことを確認してから手を放す。
「暗闇の中で誰かにぶつかられれば、そのまま階段から落ちるぞ。そうなったら、お前が人を助けるんじゃない。全員がお前を助けることになる」
「はい……」
「全員、装備を再確認!」
位野木の声に、隊員たちはすぐ二列に並んだ。
「安全ロープ!」
「確認!」
「空気ボンベの圧力!」
「正常!」
「無線周波数!」
「第一救難チャンネル、正常!」
「ヘッドライト、予備照明!」
「正常!」
位野木は列の間を歩き、一人ずつ装備に触れていく。
肩ベルト。
ボンベの固定具。
腰のカラビナ。
わずかにねじれているロープさえ見逃さない。
普段の位野木は、何かあるたびに豪快に笑っていた。
そして、いつも決まって口にする。
――元気があれば、何でもできる!
だが、実際の任務中にその言葉を聞くことは、意外なほど少ない。
代わりに、何度も繰り返される言葉がある。
安全ロープ確認。
空気圧確認。
単独行動は禁止。
位野木は知っている。
救難とは、ただ危険へ飛び込むことではない。
危険の中で判断を失わず、要救助者と仲間をともに連れ帰ることだ。
「よく聞け!」
位野木は隊員たちを見回した。
「仲間が見えなくなったら止まれ。無線が使えなくなったらロープで合図しろ。ボンベ圧が警戒値を下回ったら、前に誰が残っていても撤退する」
先ほどの若い隊員が、小さく手を上げた。
「でも、要救助者がすぐ前にいた場合は……」
位野木は彼をまっすぐ見る。
「だからこそ、勝手に動くな」
先ほどよりも声は穏やかだった。
だが、その言葉に迷いはなかった。
「お前が倒れれば、前の要救助者は助からない。それどころか、救助対象が一人増える。助けたいと思うのは悪くない」
位野木は若い隊員の肩を軽く叩いた。
「だが、生きて連れ出して初めて救助だ」
若い隊員は少し黙ったあと、力強くうなずいた。
「了解しました」
「よし」
位野木は口元をわずかに緩める。
「元気があるのは結構だ。ただし、安全ロープは締めろ」
近くにいた隊員たちから、小さな笑いが漏れた。
張りつめていた空気が、ほんのわずかに軽くなる。
◇
位野木はそのまま朝田の前まで歩いてきた。
まず装備を見る。
次に、朝田の肩ベルトを引いた。
「ボンベは?」
「八十三パーセント」
「無線」
「正常」
「予備灯」
朝田は腰のポーチを軽く叩いた。
「二本」
位野木は安全ロープまで確認すると、周囲に聞こえない程度まで声を落とした。
「今日は、また一人で奥まで行くなよ」
朝田が顔を上げる。
「位置は報告する」
「報告の話じゃない」
位野木は眉を寄せた。
「何でもかんでも、一人で背負うなと言っている」
二人の視線がぶつかった。
数秒の沈黙。
「分かった」
朝田は答えた。
位野木は疑うように目を細めた。
「お前が『分かった』と言うときほど、信用できないんだよな」
「なら、聞かなければいい」
位野木の目が見開かれた。
「お前、中京に来てから生意気になったな」
朝田は返事をせず、他の隊員の位置を確認し始めた。
位野木はその背中を見つめ、わずかに笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
二人のやり取りは、普通の同僚というより、もっと以前から互いを知っている者同士のようだった。
近くにいた新人たちは気づいていた。
しかし、今は尋ねる余裕などなかった。
◇
佐倉は防水仕様の紙製配置図を広げた。
ヘッドライトの光量を落とし、反射で線が見えなくならないよう調整する。
「電子図面は使用不能。ここから先は紙の配置図を使う。検索を終えた区画は、必ず扉に印を残せ」
赤い蛍光チョークで、現在位置を囲む。
「現在地は第六層右舷、第二客室区画。中央階段は濃煙で閉鎖状態。第三客室区画に未確認乗客がいる可能性がある」
佐倉は図面の中央を指した。
「経路は二つ。主階段を使えば最短。もう一つは右舷消防通路を通り、一層下へ降りてからサービス区画を抜ける」
位野木も図面をのぞき込んだ。
「主階段は吹き抜け構造だ。下から煙が来ているなら、すぐ煙突になる」
「右舷消防通路には防火扉が二枚ある。内部の状態は不明だ」
佐倉は朝田を見る。
「どう判断する?」
朝田はすぐには答えなかった。
主階段の入口へ向かう。
階段の下から、濃煙がゆっくりと上がってきていた。
ヘッドライトを向けると、煙の層はすでに肩の高さまで下がっている。
しかも、止まっていない。
はっきり分かるほどの速度で、上へ流れていた。
朝田は壁際に立ち、手を伸ばして空気の流れを確かめる。
そのまま姿勢を低くし、床付近の煙の動きまで観察した。
位野木は黙って待っている。
数秒後、朝田は立ち上がった。
「主階段は使えない」
佐倉が尋ねる。
「理由は?」
「煙の流れが速くなっている。温度も上がっている。下層の火災区画に、新しい空気の流入口ができた可能性が高い」
朝田は主階段を見た。
「ここは垂直に開いた空間だ。下層の防火区画が破られれば、高温の煙が一気に上がってくる」
そして、図面の右側を指す。
「右舷消防通路を使う。距離はあるが、外板に近い。防火扉も二枚残っている。少なくとも、主階段より低温である可能性が高い」
若い隊員の一人が、ためらいながら口を開いた。
「でも、そちらは最低でも五分は余計にかかります。もし第三客室区画にまだ人が――」
「朝田の判断で行く」
位野木が、言葉を遮った。
迷いはなかった。
説明を求めることもなかった。
若い隊員が一瞬、言葉を失う。
佐倉は位野木を見て、それから朝田を見た。
「第一分隊は右舷消防通路を使用する」
決定は早かった。
「位野木が第一検索班を先導。朝田は経路と火災状況の判断を担当。医療班は中央、疏散班は最後尾につけ」
「了解!」
隊員たちが隊形を組み直す。
先ほど疑問を口にした若い隊員が、隣にいる先輩へ小声で尋ねた。
「副分隊長は、どうして何も聞かずに朝田さんの判断を?」
先輩は安全ロープを締めながら答えた。
「朝田だからだ」
「それ、理由になってませんよ」
「何度か一緒に任務へ出れば分かる」
若い隊員は、ますます分からないという顔をした。
位野木には、その会話が聞こえていた。
だが、振り返らない。
撬棒を手に取り、右舷消防通路へ続く防火扉の前に立った。
「全員、下がれ」
位野木は手の甲を扉へ近づけた。
直接触れず、表面から伝わる熱を確認する。
続いて膝をつき、扉の隙間から煙や炎が漏れていないかを見る。
「扉の温度は正常。隙間からの煙もなし」
朝田が反対側へ移動した。
下部の隙間へライトを向ける。
「内部に圧力差があるかもしれない。最初は少しだけ開けろ。一気に引くな」
「分かっている」
位野木は扉の正面から外れ、枠の横へ身体を寄せた。
万が一、高温の煙が噴き出しても直撃を避けられる位置だ。
「安全ロープ固定!」
「固定完了!」
「後方、二歩下がれ!」
全員が指示に従う。
位野木は取っ手を握った。
ゆっくり回す。
そして、防火扉を手のひら一枚分だけ開いた。
炎は見えない。
高温の煙も噴き出さなかった。
代わりに、焦げた臭いと潮の臭いが混ざった冷たい空気が、細い隙間から流れ出てきた。
朝田がライトを差し込む。
通路の中には、まったく照明がなかった。
外板に沿って造られた狭い階段が、下へ向かって続いている。
壁と手すりには、薄い灰色の粉塵が積もっていた。
そして、さらに奥から音が聞こえる。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
一定の間隔。
まるで固定されていない金属扉が、船の揺れに合わせて壁へぶつかっているようだった。
「炎は見えない」
朝田が言った。
「視界は五メートル程度」
位野木は扉をもう少し開いた。
「第一班、進入。二人一組。ロープ間隔を保て」
振り返り、全員を見渡す。
「単独行動は禁止だ」
「了解!」
位野木が先頭に立ち、消防通路へ入った。
朝田がその直後に続く。
他の隊員たちも、一定の間隔を保ちながら暗闇の中へ消えていった。
最後の一人が通過すると、防火扉は静かに閉じられた。
再び、暗闇が彼らを包む。
◇
ヘッドライトの細い光だけが、狭い階段を照らしていた。
煙は天井付近をゆっくりと流れている。
密閉された空間では、隊員たちの足音と呼吸音が異様なほど大きく聞こえた。
《スピリット号》は、今も傾き続けている。
もともと急な階段は、今では下へ落ちていく坂のようになっていた。
隊員たちは片手で手すりを握り、もう片方で安全ロープを調整しながら進んでいく。
踊り場へ差しかかった、そのときだった。
前方から、激しい衝突音が響いた。
バンッ!
直後、暗闇の中から人影が飛び出してくる。
「助けてください!」
位野木は即座に腕を伸ばし、その人物を受け止めた。
船員の制服を着た若い男だった。
顔には灰が付着し、右の額から血が流れている。
完全に混乱していた。
位野木の腕をつかみ、下の階を指さす。
「下に、まだ人がいます! レストランの中に人が!」
「まず落ち着け」
位野木は足元を安定させたまま尋ねた。
「《スピリット号》の船員か?」
「はい。サービス部門の研修船員です。停電したあと、自動扉が全部止まって、乗客が何人かレストランに閉じ込められました!」
無線越しに佐倉が尋ねる。
『人数は?』
船員は何度も息を吸った。
「分かりません。少なくとも十人以上です。怪我人もいます。それに、子供が棚の下敷きに……」
朝田がすぐに聞いた。
「レストランは何層だ?」
「第五層、右舷後部です。でも客室側へ続く防火扉が開かなくて、工具を取りに行こうとして……」
最後まで言い終える前に、船体が大きく右へ傾いた。
「つかまれ!」
位野木の怒声が飛ぶ。
全員が一斉に姿勢を低くし、手すりと安全ロープをつかんだ。
船員は反応が遅れ、前へ滑り出す。
位野木は救命胴衣をつかみ、力ずくで引き戻した。
通路の奥から、大量の物が倒れる音がした。
ガラスが割れる。
金属製の食器が床を転がる。
そして、乗客たちの悲鳴。
その声は、もう遠くなかった。
船体の揺れが少し収まると、位野木は船員から手を放した。
「歩けるか?」
船員は何度も頷いた。
「はい」
「お前が案内しろ。ただし、隊列の中央に入れ。先頭には出るな」
「でも、道は俺が――」
「だからこそ、お前が負傷するわけにはいかない」
位野木は予備の安全ロープを船員の腰へ固定した。
「お前には、乗客を外まで案内してもらう」
船員は一瞬、言葉を失った。
そして、小さく答えた。
「はい」
隊列は、再び第五層へ向かって動き始めた。
下へ進むほど、焦げ臭さが強くなっていく。
炎は見えない。
だが、天井付近には薄い煙の層ができていた。
朝田は手の甲を壁へ近づける。
「温度が上がっている」
位野木が尋ねる。
「火元は?」
「サービス区画か、下層の配管区画から上がっている可能性がある。まだ判断できない」
「残り時間は?」
朝田は煙の流れを見る。
「換気状態が変わらなければ、まだ余裕はある。ただし、防火扉が破られれば煙は一気に入る」
位野木は無線機を取った。
「佐倉、右舷第五層に要救助者。十名以上の可能性あり。温度は上昇中。これよりレストランへ進入する」
『了解。第二検索班が上層から迂回中だ。疏散班は消防通路入口で待機させる。船体傾斜に注意しろ。五分ごとに報告』
「了解」
◇
第五層へ到着すると、変形した金属扉が隊員たちの前を塞いでいた。
扉の中央は内側へ大きくへこみ、取っ手も動かない。
その向こうから、叫び声と叩く音が聞こえてくる。
「誰かいますか!」
「助けて!」
「怪我人がいるんです!」
位野木は扉のそばへ移動し、大声で応えた。
「NRS海上救難部だ! 全員、扉から離れろ! これから破壊開放する!」
扉の向こうから返事が聞こえた。
「分かりました!」
位野木は撬棒を扉の隙間へ差し込む。
「朝田、蝶番を見ろ」
朝田がライトを向ける。
「上側の変形が大きい。下から力をかけた方がいい」
「了解」
二人は左右に分かれて位置を取った。
位野木が大きく息を吸う。
「元気があれば――」
近くにいた隊員が、反射的に続けた。
「何でもできる!」
「よし!」
位野木は大きく笑った。
「だが、道具は使え!」
撬棒が押し下げられた。
金属同士がこすれ合い、耳障りな音を立てる。
一度。
二度。
三度目で、下側のロックが破断した。
バンッ!
金属扉が内側へ弾けるように開いた。
煙と冷たい空気が、同時に流れ出してくる。
「まだ入るな!」
朝田が即座に隊員たちを止めた。
姿勢を低くし、煙の流れを見る。
高温の煙が噴き出してこないことを確認したあと、位野木に合図した。
「入れる。ただし、煙層が下がっている」
「第一班進入。第二班は出口を確保!」
位野木が先にレストランへ入った。
中は、想像以上にひどい状態だった。
テーブルも椅子も、船の傾斜によって右舷側へ倒れている。
皿。
グラス。
金属製の食器。
あらゆる物が床へ散乱していた。
大型のビュッフェカウンターは床を滑ったあと、支柱に激突して止まっている。
乗客たちは、その隙間に身を寄せ合っていた。
女性が一人、子供を抱きながら救難士へ手を振る。
「ここです! 子供がここに!」
朝田と医療班がすぐに駆け寄った。
少年の左脚が、倒れたカウンターの下に挟まれている。
顔色は悪い。
それでも意識はある。
母親が少年の手を強く握っていた。
「お母さん、足が痛い……」
「大丈夫。救難士さんが来てくれたから。絶対に大丈夫」
朝田は少年のそばに膝をついた。
「聞こえるか?」
少年が小さく頷く。
「俺は朝田だ。これから棚を持ち上げる。少し痛むかもしれないが、ずっと俺を見ていられるか?」
少年は唇を噛みながら、もう一度頷いた。
「できる……」
医療班がすぐに脚の状態を確認する。
「大量出血はありません。ただし圧迫時間が不明です。固定後に移動させます」
位野木はカウンターの反対側へ回り、重量と支点を確認した。
「四人では上がらない。油圧ジャッキを使うぞ」
隊員が破壊救助用バッグを開く。
「携帯油圧ジャッキ、あります」
「下部の支点へ入れろ。ゆっくり上げる。急に圧を抜くな」
位野木は他の乗客たちへ向き直った。
「歩ける者は、壁に沿って出口へ移動しろ。荷物は置いていけ。互いに支え合い、疏散班の指示に従え」
一人の男性が、旅行鞄を強く抱えていた。
「でも、パスポートと金が入っているんです!」
位野木は出口を指さした。
「命の方が大事だ」
「しかし――」
「外へ出れば、再発行する時間はいくらでもある」
位野木の声が低くなる。
「今すぐ置け」
男性は数秒迷ったあと、ようやく鞄から手を放した。
乗客の疏散が始まる。
朝田は少年のそばに残り、医療班が脚へ固定具を装着していく。
「油圧ジャッキ、設置完了!」
位野木はカウンターの縁を両手でつかんだ。
「十センチだけ上げる。欲張るな」
そして、少年を見る。
「坊主、少し揺れるぞ。怖いか?」
少年の目には涙が浮かんでいた。
それでも、首を横に振る。
「怖くない」
位野木は笑った。
「いい返事だ。元気があれば、何でもできる!」
少年は一瞬きょとんとしたあと、小さな声で繰り返した。
「何でも、できる……」
「その通りだ」
位野木が手を上げる。
「開始!」
油圧ジャッキがゆっくりと伸びていく。
重いカウンターが金属の軋む音を立てながら、少しずつ床から離れた。
「五センチ!」
「そのまま!」
「八センチ!」
朝田は隙間へ両手を入れ、少年の膝と足首を支える。
「あと二センチ」
「十センチ! 停止!」
「引くぞ!」
朝田ともう一人の隊員が、同時に少年の身体を引き出す。
少年が痛みに叫んだ。
母親が上半身を抱える。
「出た!」
医療班はすぐに少年を担架へ移した。
だが、位野木はまだ手を離さない。
「全員下がれ! 圧を抜くぞ!」
そのときだった。
船体の奥から、低く重い音が響いた。
ドンッ――!
床が大きく震える。
油圧ジャッキが横へ傾いた。
「危ない!」
位野木は前へ出た。
肩で滑り始めたカウンターを支える。
別の隊員が、すぐにジャッキを固定し直した。
「副分隊長!」
「俺はいい! 担架を先に出せ!」
位野木は歯を食いしばった。
太い腕が力で震えている。
それでも、カウンターを押さえ続けた。
朝田が位野木を見る。
「三秒後に離れる」
「分かった」
「一、二、三!」
二人が同時に後退した。
カウンターが床へ落ち、激しい音を立てる。
位野木は荒く息を吐いた。
腕を見る。
防護服の表面に、金属でこすられた跡があった。
朝田がその手首をつかむ。
「怪我は?」
「少しかすっただけだ」
「確認する」
「いつからお前の方が口うるさくなった」
「今からだ」
位野木は笑いながら、朝田に防護具を確認させた。
最後の乗客がレストランを出た、その直後。
◇
無線機から緊迫した声が入った。
『第一分隊、基地指揮所より呼び出し!』
佐倉が応答する。
「第一分隊、受信」
『船側から報告。右舷下層で浸水の可能性あり。《スピリット号》の傾斜角は増加中。全分隊、撤退経路を再確認。中央区画の使用を避けろ!』
位野木が天井を見上げた。
先ほどまで一定に響いていた金属の衝突音が、いつの間にか止まっている。
代わりに聞こえてきたのは、もっと低く、長い音だった。
ミシ――
巨大な鋼板が、限界を超える力に耐えているような音。
朝田は床へ膝をつき、手のひらを金属甲板へ当てた。
細かな振動が伝わってくる。
エンジンではない。
波でもない。
船体そのものが、変形している。
「位野木」
朝田が顔を上げた。
「どうした?」
「ここには長くいられない」
朝田の表情を見た瞬間、位野木の顔から笑みが消えた。
「構造か?」
「可能性がある」
朝田の視線が、レストラン後方へ向いた。
そこには、サービス通路へ続く扉がある。
扉の下から、黒い水が少しずつ流れ込んでいた。
油と細かな破片が混ざった水。
船の傾斜に沿い、右舷側へ流れていく。
位野木も近づいて確認する。
「この階に海水が来るはずはない」
「下の配管か、隔壁が破損している可能性がある」
無線から、佐倉の声が入る。
『位野木、朝田。状況を報告しろ』
位野木が無線機を取った。
「レストランの要救助者は十四名。全員救出。うち三名は担架搬送。右舷サービス区画で原因不明の浸水を確認。船体が変形している可能性あり」
少しの沈黙。
佐倉の声が、さらに低くなった。
『ただちにレストランを離脱し、疏散班と合流しろ』
「了解」
位野木は振り返った。
「全員撤退! 工具は持てる物だけ持て。無理なら捨てろ! 第二班が先行、朝田と俺が最後尾につく!」
隊員たちが一斉に動く。
◇
最後の一人がレストランを出ようとした、そのときだった。
サービス通路の奥から、かすかな音が聞こえた。
コン。
コン。
短く二回。
そのあと、長く一回。
コン――
朝田が足を止めた。
位野木も振り返る。
「救難信号だ」
二人は同時にサービス区画を見た。
扉の隙間から、黒い水が流れ続けている。
天井からは、不安を煽る金属音。
無線では佐倉が命令していた。
『ただちに撤退しろ。繰り返す。ただちに撤退』
再び音が響く。
コン、コン――コン。
誰かがいる。
暗闇の奥で。
位野木は撬棒を握り直した。
「中に人がいる」
朝田は答えなかった。
煙の流れ。
浸水量。
船体の傾斜。
残された撤退時間。
すべてを、短い時間で見ていた。
そして無線機を取る。
「分隊長。レストラン後方、サービス区画から生存者と思われる信号を確認。内部確認の許可を求める」
佐倉は即座に答えた。
『船体状況が不明だ。単独進入は許可しない』
位野木が朝田の腰へ安全ロープを固定した。
「一人じゃない」
無線の向こうで、短い沈黙があった。
『三分だ』
ようやく佐倉が告げる。
『三分だけ与える。発見の有無にかかわらず、必ず撤退しろ』
位野木はロープを強く引き、固定を確認した。
「聞いたな。三分だ」
朝田が頷く。
「十分だ」
「お前が『十分だ』と言うときも、信用できないんだよな」
「それでも来るのか?」
位野木は撬棒を扉の隙間へ差し込んだ。
「お前が仲間の命を賭け事に使わないことだけは、知っている」
朝田が位野木を見る。
位野木はそれ以上説明しなかった。
扉の向こうでは、救難信号がさらに激しくなっていた。
二人の足元で、《スピリット号》の鋼鉄の船体が再び音を立てる。
ミシ、ミシ――
暗闇の奥で。
何かが、ゆっくりと壊れ始めていた。




