第三章 乗船
大型客貨船「精神号」よりMaydayが発信され、中京基地第一分隊は救難艇「晨星」で緊急出動した。
事故海域へ向かう途中、分隊長・佐倉修一から状況説明が行われる。精神号は中京港を出港後、掛川島港へ向かう航海中に機関室で爆発が発生した可能性があり、船内は全域停電。AISでは中京港南西三十五海里付近に位置し、乗客二百二十八名、乗員六十名、計二百八十八名が取り残されていた。
一方、中京基地では司令・池田裕――通称「大参謀」が指揮を執り、各分隊への出動命令と関係機関への連携を開始する。
やがて晨星の前方に、夜の海を赤く染める炎が見え始める。
第一分隊は、燃え続ける精神号へ向かって進み続けた。
晨星は夜の海を切り裂くように進んでいた。
朝田大輔は右舷甲板に立ち、手すりを静かに握る。
冷たい潮風が頬を打つ。
波しぶきが耐火救助服を濡らしていく。
潮の匂い。
その奥に、焦げた臭いが混じっていた。
朝田はゆっくり顔を上げる。
暗い水平線の先。
赤く揺れる炎が、夜空を染めていた。
距離が縮まるにつれ、その光ははっきりと姿を現していく。
「目標海域まで三海里。」
艦橋から報告が入る。
朝田は振り返らない。
安全ハーネスを締め直し、空気呼吸器の元栓を確認する。
圧力計は正常。
ヘルメット。
ヘッドライト。
レスキューナイフ。
ライフライン。
一つひとつ、指先で確かめる。
周囲でも第一分隊が最後の装備確認を始めていた。
医療班は酸素ボンベとAEDを確認する。
救助班は投索器、救助担架、破壊工具を手に取る。
誰も無駄口を叩かない。
これから向かう場所が、生死の境界線であることを全員が知っていた。
「朝田。」
佐倉修一が声を掛ける。
「はい。」
「第一班を率いろ。」
「了解。」
短い返答。
朝田はフルフェイスマスクを胸元へ掛け直し、再び前を見据えた。
巨大な船影が闇の中から浮かび上がる。
大型客貨船――精神号。
右舷へわずかに傾き、船尾からは黒煙が噴き上がっている。
機関室付近では炎が激しく燃え上がり、赤黒い煙が夜空へ流れていた。
やがて、甲板の様子が見えてくる。
そこには大勢の乗客が集まっていた。
助けを求めて両手を振る人。
幼い子どもを抱き締めたまま泣き続ける母親。
肩を支え合う高齢の夫婦。
船員たちは必死に避難誘導を続けていたが、不安と恐怖は人波となって甲板を包み込んでいた。
「助けて!」
「こっちです!」
「まだ中に人がいます!」
叫び声が風に乗って届く。
泣き声も。
助けを求める声も。
そのすべてが、夜の海へ吸い込まれていく。
朝田は双眼鏡を静かに構えた。
一人。
また一人。
乗客の位置を確認していく。
煙の流れ。
炎の勢い。
避難経路。
頭の中で船内構造と重ね合わせる。
やがて双眼鏡を下ろした。
「上甲板に多数。」
落ち着いた声だった。
「右舷側は煙が濃いです。」
佐倉もうなずく。
「医療班は負傷者対応。」
「救助班は私と乗船。」
「朝田、前方検索を担当。」
「了解。」
朝田は深く息を吸う。
焦るな。
慌てるな。
目の前の一人を確実に助けろ。
それが救難士として最初に教わったことだった。
彼はフルフェイスマスクを装着する。
バルブを開く。
シューッ――。
空気呼吸器が静かに作動する。
規則正しい送気音だけが耳に響いた。
背中のボンベの重みを感じる。
その重さが、不思議と心を落ち着かせた。
第一分隊の隊員たちも互いの装備を確認し合う。
ハーネス。
ライフライン。
無線。
空気呼吸器。
異常なし。
誰一人として笑わない。
誰一人として余計な言葉を口にしない。
全員の胸にあるのは、一つだけだった。
必ず、生きて帰る。
そして、一人でも多くの命を連れて帰る。
その瞬間――。
轟音が海上を震わせた。
船尾で爆発が起きる。
炎が一気に吹き上がり、精神号全体が大きく揺れた。
甲板から悲鳴が上がる。
「きゃあっ!」
「早く!」
「火が来る!」
晨星のサーチライトが一斉に点灯した。
白い光が黒煙を切り裂き、焦げた船体を照らし出す。
船首に残る船名。
――精神号。
晨星は慎重に船体を寄せていく。
二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
佐倉は右手を上げた。
「第一分隊。」
静かな声だった。
しかし、その一言だけで全員の身体が動く。
「乗船開始!」
朝田はライフラインを握り締める。
そして誰よりも先に、燃え続ける精神号へ向かって踏み出した。




