第二章 出動
海上救難部(NRS)中京基地第一分隊に所属する救難士・朝田大輔は、今日も仲間たちと変わらぬ日常を過ごしていた。
厳しい訓練を積み重ねながらも、その胸に秘めた過去を語ることはない。
かつて西京基地医療隊、水中作業隊、そして海上特殊救難隊で経験を積んだ彼は、現在、中京基地第一分隊の一員として静かな日々を送っていた。
しかし、その穏やかな時間は一本の緊急通報によって終わりを告げる。
夜の海で、何かが起きた。
警報が、中京基地に鳴り響いた。
食堂にいた第一分隊の隊員たちは、一瞬で表情を切り替える。
食器を置き、椅子を引き、誰一人声を上げることなく装備室へ走り出した。
朝田大輔も、その流れに加わる。
装備室のドアを開け、自分のロッカーの前に立つ。
耐火救助服。
防刃グローブ。
ライフジャケット。
安全ハーネス。
ヘルメット。
携帯無線機。
毎日欠かさず点検されている装備が、整然と並んでいた。
朝田は迷うことなく救助服を身につける。
防水ファスナーを首元まで引き上げる。
ライフジャケットを固定する。
ハーネスを締める。
ヘッドライト。
レスキューナイフ。
ホイッスル。
救急ポーチ。
携帯無線機。
一つずつ手で触れ、位置を確かめる。
最後にヘルメットをかぶった。
周囲でも、隊員たちが黙々と装備を整えている。
聞こえるのは、ベルクロを剥がす音。
金具が触れ合う乾いた音。
そして、短い確認の声だけ。
「無線、異常なし。」
「ライト確認。」
「ハーネス確認。」
「装備良し。」
器材ラックには空気呼吸器が整然と並び、予備ボンベが番号順に固定されている。
その隣には潜水器材、防寒スーツ、フルフェイスマスク、レギュレーター、BCD。
医療班は酸素ボンベ、AED、吸引器、頸椎カラー、止血資器材、多数傷病者対応用メディカルバッグを点検し、救助班は投索器、救命浮環、救助担架、破壊工具、油圧救助器具、照明機材、発電機を確認していく。
今夜、どの装備を使うことになるのか。
それは誰にも分からない。
だが、一つでも欠けることだけは許されない。
一分も経たないうちに、第一分隊全員の出動準備が完了した。
第一分隊長・佐倉修一が入口に立つ。
全員を静かに見渡し、小さくうなずいた。
「出動。」
その一言で、隊員たちは一斉に動き出す。
救難車両が基地を飛び出した。
赤色灯と青色灯が夜を切り裂く。
港湾道路では一般車両が道を譲り、警備員が交差点を確保する。
車列は第一埠頭へ向かって一直線に走り続けた。
五分とかからず、埠頭へ到着する。
潮風が吹き抜ける。
潮の匂いと、ディーゼルエンジンの匂いが混ざり合っていた。
サーチライトに照らされた白い救難艇が、静かに波へ身を預けている。
低く響くエンジン音は、すでに出航準備が整っていることを物語っていた。
船首には、黒い文字。
NRS-301 晨星。
中京基地第一分隊の救難艇。
重大海難事故が発生すれば、真っ先に現場へ向かう船だった。
「乗船!」
隊員たちは舷梯を駆け上がり、それぞれの持ち場へ向かう。
朝田は甲板へ上がると、いつものように周囲を見回した。
空気呼吸器。
予備ボンベ。
医療器材。
AED。
高速救助艇。
夜間照明装置。
すべてが定位置に固定され、出動を待っている。
準備は、完了していた。
晨星の係留索が外される。
ゆっくりと岸壁を離れ、港内航路へ入る。
進路良し。
機関出力、上昇。
やがて船首が外海へ向くと、エンジン音が一段と低く唸った。
晨星は夜の海へ加速していく。
しかし、出動したのは第一分隊だけではなかった。
その数分後。
第二分隊、第三分隊の救難艇も相次いで出港する。
第四分隊と第五分隊は基地で最終待機。
いつでも出動できる態勢を整えていた。
無線から次々と報告が入る。
「第二分隊、出港しました。」
「第三分隊、出港しました。」
「第四分隊、出動待機完了。」
「第五分隊、待機を継続します。」
一方――。
第六分隊は後方支援を開始していた。
予備ボンベ。
潜水器材。
医療資器材。
酸素ボンベ。
照明機材。
発電機。
補給班が次々と岸壁へ搬送していく。
整備班は予備救助艇と各機器の最終確認を行い、通信室ではAIS、海象、気象情報を絶えず更新していた。
基地指揮所。
大型電子海図には、各救難艇の航跡が映し出されている。
その前に、一人の男が立っていた。
中京基地司令。
池田裕。
かつて第一線で数え切れない海難救助に参加した救難士。
現在は中京基地全体を指揮する司令官だった。
隊員たちは、敬意を込めて彼をこう呼ぶ。
「大参謀」。
どれほど状況が混乱しても。
どれほど情報が錯綜しても。
池田は冷静に情報を整理し、最善の判断を下す。
それが、現場の隊員たちへの何よりの支えだった。
池田が口を開く。
「精神号のAISを継続追跡。」
「海上保安、消防、港湾局、国立中京病院へ連絡。」
「多数傷病者受け入れ体制を要請。」
「第一分隊を先行。
第二、第三分隊は到着後ただちに支援。
第四、第五分隊は待機を維持。」
「了解。」
指揮所が再び動き始める。
その頃。
晨星は暗い海を走り続けていた。
船内にはエンジンの振動だけが響いている。
佐倉修一は通信室から届いた最新資料を受け取る。
隊員たちを見渡した。
「現時点で確認されている内容を説明する。」
全員の視線が集まる。
「遭難船は大型客貨船『精神号』。
本日夜、中京港を出港。
掛川島港へ向かっていた。」
佐倉は資料を一枚めくる。
「乗客二百二十八名。
乗員六十名。
計二百八十八名。」
船内は静まり返る。
「二十二時四十一分。
Maydayを受信。
機関室で爆発が発生した可能性。
その後、全船停電。
主機停止。」
さらに続ける。
「AISでは、中京港南西三十五海里付近を示している。
火災の状況。
負傷者数。
浸水の有無。
いずれも確認できていない。
通信は断続的だ。」
誰も言葉を発しない。
朝田は座席脇に固定された空気呼吸器へ視線を向けた。
圧力計は正常。
医療班もAEDと酸素ボンベをもう一度確認する。
救助は、現場へ着く前から始まっている。
佐倉は資料を閉じた。
「最悪を想定しろ。
だが、最悪に飲まれるな。
現場では標準手順どおり行動する。
独断行動は禁止だ。」
「了解!」
力強い返答が船内に響いた。
その直後だった。
艦橋から緊迫した声が飛び込む。
「前方に火光!」
全員が立ち上がる。
船首の向こう。
漆黒の水平線に、小さな橙色の光が揺れていた。
港の灯ではない。
炎だった。
燃え続ける精神号だった。
晨星は減速しない。
むしろ、さらに速度を上げる。
夜の海を切り裂きながら。
炎の待つ海域へ、一直線に突き進んでいった。




