第九章 近くで見れば
# 第九章 近くで見れば
めめは、赤い眼鏡を両手で押し上げた。
運動場の向こうに、かごが三つ並んでいる。
かごの後ろには、旗が一本ずつ立っていた。
「見えるか?」
悠斗が尋ねる。
「三つある」
「旗の色は?」
めめは顔を少し前へ出した。
腕の目も、額の目も、同じ方を向く。
しばらく見てから、首を横に振った。
「ここからは分からない」
悠斗は競技表を見た。
色合わせ競争。
同じ色の玉を、旗の立つかごへ一つずつ入れる。
三つ揃えて、出発線へ戻った方が勝ち。
瑞雲の出場者の欄には、千里眼と書いてあった。
隣にいる子は、額に大きな目を一つ持っている。
その目で、遠くの旗を見ていた。
「左が黄色。真ん中が赤。右が青」
白銀先生へ、すらすら答える。
めめも旗を見た。
黄色と言われれば、黄色いような気がする。
青と言われれば、青いようにも思えた。
「先生」
「何だ?」
「近くへ行ってもいい?」
悠斗は顔を上げた。
白銀先生へ尋ねる。
「玉を取る前に、旗を見に行ってもいいんですか?」
「かまいません。ただし、玉は出発線の箱から運んでください」
「分かった」
めめが言った。
「近くで見てくる」
「ああ。分からないまま入れるより、その方がいい」
めめはうなずいた。
◇
出発線に、玉の入った箱が二つ置かれた。
それぞれ、赤、青、黄色が一つずつ。
めめは箱へ顔を近づけた。
黄色い玉を持ち上げる。
「黄色」
「そうだな」
悠斗が答える。
次に、赤い玉を持った。
「眼鏡と同じ」
「赤だな」
めめは青い玉を見た。
少し長く見てから、箱へ戻す。
「これは青」
「分かったか?」
「近いから」
悠斗はかごの方へ目を向けた。
大人なら、旗の色はこの場所からでも分かる。
めめには遠い。
その隣には、遠くを見るのが得意な子がいる。
「旗、もっと近くてもよくないですか」
悠斗が白銀先生へ言った。
「玉を運ぶ距離は、皆さん同じです」
「それはそうですけど」
「近づいて確認することも認めていますよ」
白銀先生は、かごを指した。
悠斗はめめを見た。
めめは、走っていく道を確かめている。
旗まで見に行く。
戻って玉を取る。
もう一度、運ぶ。
ただでさえ多く走るのに、転ばせるわけにはいかなかった。
「足元も見ろよ」
「うん」
「眼鏡がずれたら、一回止まって直せ」
「分かってる」
「疲れたら――」
「先生、まだ走ってない」
「そうだったな」
めめは観覧席へ顔を向けた。
両親が手を上げていた。
めめも手を振る。
それから、眼鏡の縁をもう一度触った。
◇
「よーい、始め!」
千里眼の子が黄色い玉を取った。
左のかごへ走っていく。
めめは玉を持たずに走った。
旗の近くへ着く。
一度止まり、左の旗を見る。
黄色。
真ん中へ顔を向ける。
赤。
右は、青。
めめは、小さくうなずいた。
出発線へ戻る。
千里眼の子とすれ違った。
相手は、もう一つ目の玉を入れていた。
「めめちゃん、頑張れ!」
こはくが声を上げる。
めめは箱の前でしゃがんだ。
黄色い玉を取る。
胸へ抱え、左のかごへ走った。
かごの前で旗を見上げる。
手の中の玉も見る。
「同じ」
玉を入れた。
観覧席から拍手がした。
めめはすぐに戻った。
箱の中へ顔を近づける。
赤い玉を取った。
走り出すと、眼鏡が鼻の先へずれた。
めめは止まった。
玉を片腕で抱える。
空いた手で眼鏡を戻した。
「よし、そのまま」
悠斗が言った。
めめはまた走った。
真ん中のかごへ着く。
赤い旗が揺れていた。
玉を持ち上げ、旗へ近づける。
赤と赤。
かごへ入れた。
◇
千里眼の子が、最後の青い玉を入れた。
振り返り、出発線へ走る。
めめも戻っている途中だった。
線の手前で追い越された。
旗が上がる。
「瑞雲保育園の勝利です!」
めめは足を止めた。
千里眼の子が、白銀先生のところへ向かう。
箱には、青い玉が一つ残っていた。
めめはそれを見た。
悠斗がコースの横へ来る。
「めめ」
「これ、まだ」
「ああ」
「入れてきていい?」
「いいよ。最後までやってこい」
めめが青い玉を取った。
今度は、初めよりゆっくり走る。
息が上がっていた。
右のかごへ着く。
旗を見た。
玉を見る。
青い。
どちらも、同じ青だった。
めめは玉を入れた。
かごの中へ顔を近づけ、もう一度確かめる。
それから、出発線へ戻ってきた。
悠斗が待っている。
「全部、入れた」
「見てた。全部合ってた」
めめは息を吐いた。
眼鏡を外しかけ、やめる。
「遠くは、分からなかった」
「うん」
「近くで見たら、分かった」
「そうだな」
めめは、三つの旗を振り返った。
ここからでは、また色がぼやけている。
けれど、どのかごへ何を入れたかは覚えていた。
「黄色、赤、青」
左から順に言う。
悠斗がうなずいた。
◇
観覧席へ戻ると、母親が水筒を渡してくれた。
父親はめめの眼鏡を見た。
「ずれても、自分で直せたね」
「止まって直した」
「よく覚えていたね」
めめは水を飲んだ。
小吉の母親が、かごの方を指す。
「めめちゃん、三つとも同じ色へ入れられたね」
「近くで見たの」
「うん。ちゃんと確かめていたね」
いわおの父親も、こはくの母親も笑っていた。
きゅうの母親は、めめが旗と玉を並べて見たところを、両手でまねした。
「一つずつ、こうやって」
「同じか見た」
「そう。最後の青も」
めめは両親を見た。
「みんな、見てた」
「みんな応援していたよ」
父親が答える。
めめは赤い眼鏡へ触れた。
「私、分かったよ」
「うん」
「最初は分からなかったけど、自分で見た」
母親が、めめの頭を撫でた。
めめは少しだけ胸を張った。
◇
千里眼の子が、観覧席の前を通りかかった。
めめが顔を上げる。
「ここから、全部見えたの?」
「うん」
千里眼の子は運動場の旗を見た。
「向こうの木の上も見える」
「木?」
「葉っぱに、虫がいる」
めめは目を凝らした。
木があるのは分かる。
虫は、分からない。
「私は、見えない」
千里眼の子がめめを見た。
「目、いっぱいあるのに?」
「遠いから」
めめは答えた。
隣で悠斗が顔を向ける。
めめは自分の眼鏡を押し上げた。
「近くなら、見えるものもあるよ」
「そうなんだ」
千里眼の子は、赤い眼鏡へ目を向けた。
「それ、赤いね」
「赤だよ」
めめがうなずいた。
「好きな色」
千里眼の子は、もう一度旗の方を見てから、白銀先生のところへ戻っていった。
めめは水筒の蓋を閉めた。
悠斗は、しばらくその横顔を見ていた。
「先生?」
「何でもない」
悠斗はノートを開いた。
めめ。旗へ近づき、自分で色を確認した。
赤、青、黄色。三つとも正しいかごへ入れた。
眼鏡がずれたとき、立ち止まって直せた。
その下へ、書き足す。
見えないものを、見えないと言えた。
丸をつける。
めめが覗き込んだ。
「何て書いた?」
「自分で確かめたって書いた」
「三つとも?」
「三つとも」
めめはノートへ顔を近づけた。
文字はまだ読めない。
丸があるのは、分かった。
指先で、その横を触れる。
「先生、この丸は黒」
「黒いペンだからな」
「次は、赤で書いて」
「注文が増えたな」
悠斗は鞄から、赤いペンを出した。
黒い丸の隣へ、赤い丸を一つ描く。
めめが顔を近づけた。
「赤」
「正解」
めめは笑った。
眼鏡と同じ色の丸を、もう少しだけ見ていた。




