第八章 聞こえました
第八章 聞こえました
大河は、運動場の端に引かれた線を見ていた。
遠い。
あそこにいる先生を、呼ばなければならない。
「次は、先生呼び競争です」
白銀先生が説明した。
「出発線から走り、中央の丸へ入ったら、自分の園の先生を呼んでください。先生たちは、皆さんに背中を向けて待ちます」
運動場の中央には、白い丸が二つ描かれている。
「自分を呼ぶ声が聞こえたら、先生は振り返って迎えに走ります。お子さんと手をつなぎ、こちらの線まで戻った方が勝ちです」
大河は丸を見た。
その先の待機線を見る。
「あそこから?」
「そうですね」
夜久園長が隣へしゃがんだ。
「今度は、私を呼んでください」
大河が顔を向ける。
「夜久先生?」
「はい」
「来てくれる?」
「聞こえたら、すぐに」
大河は自分の喉へ手を当てた。
隣には、瑞雲の天狗の子が立っている。
赤い顔に、長い鼻。
高嶺園長へ向かって、大きな声で話していた。
「僕、一回で呼ぶ!」
「期待していますよ」
高嶺園長が羽団扇を揺らす。
大河は口を閉じた。
「小さかったら?」
「もう一度呼んでください」
夜久園長が答えた。
「聞こえなかったら?」
「私は、あそこで待っています」
大河は待機線を見た。
夜久園長が立ち上がる。
「では、行ってきます」
「うん」
大河は、その背中を見送った。
◇
「園長、走れるんですか?」
悠斗が、待機線へ向かう夜久園長に声をかけた。
「歩けますからね」
「歩くのと走るのは違うでしょう」
「呼ばれたら、迎えに行きますよ」
夜久園長はいつもの調子で答え、そのまま行ってしまった。
悠斗は大河の横へしゃがむ。
「俺は、ここで見てる」
「夜久先生、遠い」
「ああ」
「背中、向けるんだって」
「だから、声で呼ぶんだろ」
大河は夜久園長を目で追った。
「みんなにも聞こえる」
観覧席を見た。
親たちも、知らない子どもたちもいる。
悠斗はうなずいた。
「でも、呼ぶ相手は夜久先生だ。あの背中に向かって言えばいい」
大河の父親が、観覧席から手を上げた。
何か言いかけ、口を閉じる。
そのまま、うなずいた。
大河も、小さくうなずき返した。
◇
待機線では、二人の園長が並んでいた。
高嶺園長は出発線を眺め、羽団扇の柄を握り直した。
「私は、強くて、何でもできる妖を育てたいんです」
夜久園長が顔を向ける。
「負け癖は、つけたくないんですよ」
高嶺園長は続けた。
「勝てる力があるのなら、勝つために使うべきでしょう」
「そうですか」
夜久園長は出発線の大河を見た。
大河は、まだ喉へ手を当てている。
「やはり、あなたとは考え方が違うようです」
「このご時世、弱ければ淘汰されます」
高嶺園長が言った。
夜久園長は、穏やかな顔のまま答えた。
「弱さも知らないと、淘汰されますがね」
高嶺園長の羽団扇が止まった。
「どういう意味です?」
「先生方、後ろを向いてください」
白銀先生の声が届いた。
夜久園長は向きを変えた。
高嶺園長も、わずかに眉を寄せてから背を向ける。
二人の前には、誰もいない運動場が広がっていた。
「続きは、あとにしましょう」
夜久園長が言った。
「今は、子どもが呼びますから」
◇
「よーい、始め!」
二人の子どもが走り出した。
大河の大きな足が、地面を蹴る。
天狗の子が少し先へ出た。
白い丸へ入る。
大河も、自分の丸へ着いた。
止まった。
夜久園長の背中を見る。
いつものエプロンの紐が、腰の後ろで結ばれていた。
顔は見えない。
「……夜久先生」
口は動いた。
夜久園長は動かなかった。
隣の天狗の子が、大きく息を吸う。
「高嶺せんせーい!」
よく通る声だった。
高嶺園長が振り返った。
羽団扇を腰へ差し、長い袖を押さえる。
地面を蹴った。
「速いな」
悠斗がつぶやく。
大河の目が、高嶺園長を追った。
夜久園長は待機線に残っている。
背中は、まだこちらを向いていた。
「夜久先生」
大河が、もう一度呼んだ。
観覧席の声と、走る足音が重なる。
声は、途中で消えてしまった。
夜久園長は動かない。
大河は両手を胸の前で握った。
高嶺園長が天狗の子へ着く。
二人が手をつないだ。
帰り道へ走り出す。
大河の肩が下がった。
足が、丸の外へ出かける。
けれど、止めた。
夜久園長は、あそこで待つと言った。
まだ、いる。
大河は息を吸った。
両手を口の横へ当てる。
「夜久先生!」
夜久園長の顔が、こちらへ向いた。
「来て!」
◇
悠斗は、夜久園長が足を踏み出すのを見た。
次の瞬間には、もう白い丸のそばにいた。
「は?」
悠斗の口から声が漏れる。
飛んでいない。
消えてもいない。
確かに地面を進んできた。
けれど、走る足を目で追うより先に、夜久園長は大河の前へ、ぬらりと現れていた。
エプロンの裾さえ、大して揺れていない。
息も切れていなかった。
「聞こえました」
夜久園長が言った。
大河は、目を丸くしている。
「行きましょう」
差し出された手を、大河がつかんだ。
二人が走り出す。
今度は、ちゃんと走っていた。
大河の足に合わせ、夜久園長が隣を進む。
「大河、走れ!」
悠斗が立ち上がった。
高嶺園長と天狗の子は、線のすぐ手前まで来ている。
その後ろから、大河と夜久園長が近づく。
あと少し。
天狗の子が線を越えた。
一歩。
もう一歩。
大河も線を越えた。
旗が上がる。
「瑞雲保育園の勝利です!」
大河はその場で止まり、肩で息をした。
夜久園長は、手をつないだまま前へしゃがむ。
「よく呼んでくれましたね」
「……負けた」
「ええ。あと一、二歩でした」
夜久園長はうなずいた。
「ですが、大河君の声は、あの場所まで届きました」
待機線を指す。
大河が振り返った。
さっきと同じ、遠い線だった。
「聞こえた?」
「はっきり聞こえました」
「名前も?」
「夜久先生、来て。全部です」
大河は、自分の口へ触れた。
夜久園長が笑った。
「背中を向けていても、大河君が私を呼んだと分かりましたよ」
「小さくなかった?」
「私を迎えに走らせる声でした」
大河は、少し黙った。
つないだ手を見下ろす。
「来てくれた」
「呼んでくれましたから」
◇
観覧席から、拍手がした。
「大河君、聞こえたよ!」
きゅうの母親が手を振る。
「こっちまで、ちゃんと届いた!」
小吉の母親も、こはくの母親も、大河の名前を呼んだ。
大河は父親を見つけた。
父親は、大きな両手で拍手をしている。
「お父さんにも?」
「聞こえた!」
大きな声で答え、父親は少しだけ音量を下げた。
「よく呼べたな」
大河が近づくと、父親がしゃがんだ。
「最初、来なかった」
「最後は来た」
「夜久先生、すぐ来た」
「見ていたよ」
父親が大河の頭を撫でる。
大河は、少し照れたように顔を下げた。
口元は笑っていた。
きゅうが夜久園長へ近づく。
「どうやったの?」
「何をですか?」
「急に、そこにいた」
「迎えに行ったんですよ」
「ぼくもできる?」
「まずは、呼ばれたらお返事をしましょうね」
「それはできる!」
悠斗も夜久園長を見た。
「あんなに速く動けるなら、普段からやってくださいよ」
「毎晩走り回る、頼もしい先生がいますから」
「俺の運動不足解消に付き合ってたんですか?」
「解消しましたか?」
「今、足が痛いです」
「では、休んでください」
「園長のせいで走ったわけじゃないですけどね!」
大河が笑った。
いつもの、小さな声だった。
◇
悠斗はノートを開いた。
大河。離れた場所で、背を向けている夜久園長を呼べた。
騒がしい中でも、名前と「来て」が届いた。
夜久園長と手をつなぎ、最後まで走った。
横へ、大きな丸をつける。
大河が覗き込んだ。
「聞こえたって書いた?」
「書いた」
「夜久先生にも、お父さんにも」
「みんなに聞こえた」
大河はうなずいた。
水筒を受け取り、父親の隣へ戻っていく。
悠斗は次の行へ書き足した。
夜久園長。異常に速い。
「私の記録も?」
すぐ横から声がした。
悠斗が顔を上げる。
夜久園長が、涼しい顔で立っていた。
「今度は、普通に来たんでしょうね?」
「もちろんです」
少し離れた場所では、高嶺園長が天狗の子へ話しかけていた。
得点板に、新しい印がつく。
夜久園長はそちらを見てから、大河へ目を戻した。
大河は父親へ、白い丸を指して説明している。
途中で夜久園長を見つけ、手を上げた。
夜久園長も、手を上げた。




