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宵待保育園 真夜中の運動会  作者: もちむぎ


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第七章 パンだったから

# 第七章 パンだったから


 運動場に、長い紐が張られた。


 紐から、パンの入った袋が二つ下がっている。


 職員が結び目を直すたび、袋がゆらゆらと揺れた。


 きゅうは、その下で口を開けていた。


「まだ食うな」


 悠斗が頭の皿を押さえ、後ろへ戻す。


「届くか確かめただけ」


「口で?」


「口で取るんでしょ」


「それはそうだけど」


 きゅうはもう一度、吊られた袋を見た。


 透明な袋の中には、丸いパンが入っている。


 上の方をまとめた結び目から、白い輪が伸びていた。


「袋の輪を口でくわえて、紐から外してください」


 白銀先生が説明した。


「手を使ってはいけません。パンを取ったあとは、そのまま向こうの線まで走ります」


「食べてから?」


 きゅうが尋ねる。


「食べずに走ってください」


「じゃあ、パン運び競争だ」


「パン食い競争です」


「食べないのに?」


「競技が終わってから、食べられます」


 きゅうは少し考えた。


 それから、悠斗を見る。


「早く終わった方が、早く食べられる」


「理解が早いな」


 悠斗は競技表を見た。


 パン食い競争。


 宵待の出場者、久太郎。


 瑞雲の出場者、烏天狗。


 隣の出発線に、小さな烏天狗の子がやってきた。


 黒い羽。


 小さなくちばし。


 背丈は、きゅうより少し低かった。


 歩くたびに、背中の羽の先が揺れる。


「飛ぶんですか?」


 悠斗が尋ねると、白銀先生は首を横に振った。


「地面を走る競技ですから、飛ぶのは禁止です」


 烏天狗の子は、羽を背中へ畳んだ。


 小さな足で、その場を二度踏む。


 きゅうも足を動かした。


「ぼく、走れるよ」


「知ってる。毎晩、門から走ってくるだろ」


「今日は水もない」


「よかったな」


「泳がなくていい」


「今日は、その十秒を使わなくて済む」


 きゅうは頭の皿を撫でた。


 観覧席の母親を見る。


 母親が手を振った。


「取ったら、ちゃんと前を見て走るんだよ!」


「分かってる!」


 きゅうは大きな声で答えた。


 悠斗は、吊られたパンときゅうを見比べた。


 足の速さは、普段から見ている。


 食べ物を見つけるのも早い。


 今までの競技とは違い、相手だけが遠くを見通せるわけでも、頭一つ高いわけでもない。


「これは、いけるんじゃないか」


 思わず口に出た。


 隣で夜久園長が競技表を畳む。


「期待していますね」


「食べ物が絡んでますから」


「きゅうちゃんへの評価、それでいいんですか?」


「本人も張り切ってるでしょう」


 きゅうは両手を後ろへ回し、口を大きく開けていた。


「始まるまで閉じてろ。顎が疲れるぞ」


 口が閉じた。


     ◇


 職員が紐の高さを調整した。


 二つの白い輪が、それぞれの出場者の口元へ来る。


 きゅうが膝を伸ばす。


 烏天狗の子も、少し顎を上げた。


「届くな?」


 悠斗が尋ねる。


「届く」


「手を使うなよ」


「使わない」


「袋ごと食うな」


「食べないよ!」


 きゅうは不満そうに振り返った。


「ぼく、そんなことしない」


「皿にアイスを載せようとした実績があるからな」


「それは食べるためじゃない」


「分かった。前を向け」


 きゅうが向き直る。


 隣の烏天狗の子が、こちらを見ていた。


「パン、好き?」


 きゅうが聞いた。


「好き」


「ぼくも」


 烏天狗の子が、少しうなずく。


 二人とも、パンを見た。


     ◇


「よーい、始め!」


 笛が鳴った。


 きゅうが走り出す。


 短い足が、地面を素早く蹴った。


 烏天狗の子も、そのすぐ横を走る。


「きゅうちゃん、頑張れ!」


 小吉が立ち上がった。


 きゅうが先に紐へ着いた。


 止まる。


 口を開ける。


 白い輪へ顔を近づけた。


 袋が、ふわりと逃げた。


「あ」


 きゅうが顔を動かす。


 輪が右へ揺れる。


 追いかけると、今度は左へ戻った。


「止まって!」


「パンに命令するな!」


 悠斗が声を上げた。


 きゅうは両手を後ろで握った。


 顎を上げ、揺れる輪へ口を開く。


 袋の角が頬へ当たった。


 パンは取れない。


 烏天狗の子が隣へ着いた。


 一度、くちばしを伸ばす。


 輪が横へ動いた。


 烏天狗の子は、その場で待った。


 輪が戻ってくる。


 くちばしの先で、白い輪を挟んだ。


「取った!」


 めめが言った。


 烏天狗の子が頭を下げる。


 紐の留め具から輪が外れ、袋が胸の前へ下がった。


 そのまま走り出す。


 羽は畳んだままだった。


「きゅう、慌てるな! 一回、待て!」


 悠斗が言う。


 きゅうは開けていた口を閉じた。


 目の前を袋が通り過ぎる。


 右へ行く。


 戻ってくる。


 きゅうが口を開いた。


 白い輪をくわえた。


「取れた!」


 こはくが両手を上げる。


 きゅうが頭を引いた。


 袋が紐から外れる。


 そのまま走った。


 丸いパンが、胸へぽんぽん当たる。


 きゅうは両手を振り、前を追いかけた。


 烏天狗の子の背中が見える。


 黒い羽が近づく。


「あと少し!」


 母親の声がした。


 きゅうの足が、さらに速く動いた。


 烏天狗の子が線を越えた。


 そのすぐあとで、きゅうも越えた。


 白銀先生が旗を上げる。


「瑞雲保育園の勝利です!」


 きゅうは、もう二歩走った。


 それから止まり、袋を手で受け取った。


 烏天狗の子を見た。


 自分のパンを見る。


 もう一度、線を見た。


     ◇


「惜しかったな」


 悠斗が近づくと、きゅうはパンの袋を抱えた。


「ちょっとだった」


「ああ。最後、よく追いついた」


 きゅうは吊られていた紐を振り返った。


 それから、手の中のパンを見る。


「そっか」


「何が?」


「パンだったからだ」


 悠斗は、きゅうの顔を見た。


「何がパンだったからなんだよ」


「吊るされてたの」


「見てたから知ってる」


 きゅうはうなずいた。


 何かが分かったらしい。


 背筋を伸ばし、パンを持ったまま胸を張った。


「キュウリなら勝ってた」


 きっぱりと言った。


 さっき負けたばかりの顔には、まったく見えなかった。


 悠斗は一度、口を閉じた。


 こらえようとした。


 けれど、きゅうがあまりにも得意そうなので、吹き出してしまった。


「そうだなあ。キュウリなら勝ってたなあ」


「うん!」


 きゅうは大きくうなずいた。


 悠斗の手を引き、観覧席へ向かう。


 足取りは、来たときと同じように軽かった。


     ◇


 観覧席へ戻ると、小吉がきゅうの袋を見た。


「取れた」


「うん。パンだったから負けた」


「ぼくも負けた」


 小吉は隣の場所を空けた。


 きゅうが座る。


「そっちも、あと少し?」


「遠かった」


「駐車場まで行ったから」


「行ってない」


「行きそうだった」


「行ってない」


 いわおが、小吉の隣でうなずいた。


「途中で戻った」


 きゅうは袋を膝へ置いた。


 母親が、その前へしゃがむ。


「ちゃんと手を使わずに取れたね」


「使っちゃ駄目だから」


「取れなくても、最後まで使わなかった」


 きゅうは自分の両手を見た。


「使ったら、早かった」


「それはみんな、早いだろ」


 悠斗が言う。


 こはくの母親が笑った。


「きゅうちゃん、取ったあと、とても速かったよ」


「あと少しだったな!」


 大河の父親も言った。


 きゅうは顔を上げた。


「見てた?」


「もちろん!」


 めめの父親が、隣からうなずく。


「袋が戻ってくるのを待ったところも、見ていたよ」


「ぼく、待った」


「うん。自分で取れたね」


 きゅうは白い輪へ指を通した。


 輪を持ち上げると、袋が膝の上で揺れた。


「これが、こうなって」


 右へ動かす。


「戻ってきたから、取った」


 母親がうなずいた。


 きゅうはもう一度、袋を揺らした。


 今度は、逃げなかった。


     ◇


 悠斗が袋の結び目をほどく。


 きゅうは丸いパンを取り出した。


 一口かじる。


 しばらく噛んでから、真ん中を見た。


「あんこ」


「そうだな」


「甘い」


「嫌だったか?」


 きゅうは首を横に振った。


 もう一口食べる。


 隣で、小吉がパンを見ている。


 きゅうが顔を向けた。


「食べたい?」


「ちょっと」


 きゅうは悠斗へパンを差し出した。


「分けて」


「お前が取ったやつだぞ」


「ぼくも食べる」


「全部やれとは言ってない」


 悠斗は新しい紙皿を取り出した。


 食べていない側から、小さくちぎる。


 小吉へ渡すと、小吉は母親を見た。


 母親がうなずく。


「ありがとう」


 きゅうは残りのパンを持ち直した。


「おいしいよ」


 小吉が一口食べる。


「甘い」


「言ったでしょ」


 いわおもパンを見た。


 きゅうは少し考え、また悠斗へ差し出した。


「ちょっとだけ」


「分かった」


 いわおの分も、紙皿へ置く。


 今度は、こはくが近づいた。


 めめも、その後ろから顔を向ける。


 きゅうは残ったパンを見下ろした。


「……小さくなる」


「全員に分けなくてもいいんだぞ」


 悠斗が言う。


 きゅうは一度、パンを持ち上げた。


 それから、こはくたちを見る。


「一口ずつ」


 親たちが笑った。


 ことの母親が、小さな紙皿を並べる。


 悠斗はパンを分けた。


 七人分にするには、小さなパンだった。


 きゅうの分だけ、少し大きく残す。


「競技した人の分だ」


 誰も文句を言わなかった。


 きゅうは自分のパンを食べた。


 ほかの子たちも、一口ずつ食べる。


「おいしぃ」


 ことが言った。


 きゅうは、口をもぐもぐさせたままうなずいた。


 悠斗はノートを開く。


 久太郎。パンの袋を、手を使わず自分で取った。


 取ったあと、最後まで走った。


 次の行へ書き足す。


 負けた。けれど、落ち込まなかった。


「何を書いたんですか?」


 夜久園長が覗き込む。


 悠斗はノートを少し傾けた。


 夜久園長が読み、きゅうを見る。


「悔しくないのですか?」


 きゅうはパンを持ったまま答えた。


「だって、パンだったから」


 悠斗はまた笑ってしまった。


「本人の中では、もう解決してるんです」


 きゅうは最後の一口を食べた。


 空になった袋の輪へ、指を通す。


 少し離れた瑞雲の席では、烏天狗の子もパンを食べていた。


 目が合う。


 烏天狗の子が、パンを持ち上げた。


 きゅうも袋を持ち上げた。


 中には、もう何も入っていなかった。

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