第五章 お題が先生だったら
# 第五章 お題が先生だったら
こはくは出発線の前で、二本の尻尾を見下ろしていた。
右の尻尾を少し動かす。
左も動かす。
「まだ始まってないぞ」
悠斗が言うと、こはくは顔を上げた。
「いるか確かめた」
「さっきまでなかったわけじゃないだろ」
「今からしまうから」
こはくは両手を腰へ当てた。
隣の出発線には、瑞雲保育園の狸の子が立っている。
丸い耳に、太い尻尾。
白銀先生の説明を聞きながら、片足の踵で地面を軽くたたいていた。
「コースの先に、お題の札があります」
白銀先生が、運動場の中央にある机を示した。
机には二枚の札が、伏せて置かれている。
「札を取ったら、その向こうの材料置き場で、お題と同じ物を探してください。よく見て、その姿へ変化してから、審査の場所まで戻ります」
「同じお題ですか?」
悠斗が尋ねた。
「もちろんです。今回は、変化したまま自分で戻れる物を選んであります」
こはくが机の向こうを見た。
大きな布を掛けられた物が、いくつも並んでいる。
横長のもの。
背の高いもの。
低くて丸いもの。
「何かな」
「札を見てからだ」
悠斗はこはくの前へしゃがんだ。
「慌てて、違う物に化けるなよ」
「分かってる」
「戻ってくる場所も、今見ておけ」
こはくは出発線の後ろを振り返った。
審査の場所には白い丸が二つ描かれ、机を挟んで高嶺園長と、審査係の職員が座っている。
その向こうに、宵待の観覧席があった。
母親が手を上げる。
こはくも手を振った。
「先生は?」
「そこの横で見てる」
「見ててね」
「さっきも言っただろ。見てるよ」
こはくはうなずき、前へ向き直った。
◇
「よーい、始め!」
こはくと狸の子が走り出した。
尻尾が二本、後ろへ流れる。
こはくは机へ着くと、札を裏返した。
絵が描かれている。
赤い車輪。
青い荷台。
前から伸びた、長い持ち手。
その下へ、大きな文字があった。
――荷車。
白銀先生が材料置き場の布を外す。
椅子や箱、桶と一緒に、小さな荷車が置かれていた。
こはくはすぐに駆け寄った。
狸の子も、同じ荷車を見ている。
丸い赤い車輪が四つ。
青い荷台の側面には、白い雲の模様。
木の持ち手の先には、握りやすい横棒がついていた。
こはくは一度、荷車の後ろへ回った。
狸の子が目を閉じる。
白い煙が立った。
煙の中から、赤い車輪が現れる。
青い荷台。
白い雲。
狸の耳も、尻尾もない。
ただ、本物より少し小さかった。
荷車になった狸は、その場で車輪を回し、審査の場所へ向かった。
「こはくちゃん、ゆっくり見て!」
きゅうが声をかけた。
こはくは荷台の中を覗き込んだ。
何も入っていない。
それから、自分の後ろを見た。
二本の尻尾。
こはくは息を吸い、目を閉じた。
◇
白い煙が、こはくを包んだ。
悠斗は審査場所の脇で、煙が晴れるのを待った。
赤い車輪が見える。
青い荷台が続く。
白い雲の模様も、木の持ち手も、本物とよく似ていた。
大きさも同じだった。
車輪の横にも、荷台の後ろにも、尻尾はない。
「しまえた」
悠斗が小さく言った。
隣で夜久園長もうなずく。
荷車がこちらへ向きを変えた。
荷台の前の縁に、狐の耳が二つ並んでいた。
「……耳」
悠斗の声に、大河が頬へ手を当てた。
「言った方がいい?」
夜久園長が競技表を見た。
「変化したあとは、周囲から直す場所を教えてはいけない決まりです」
大河は口を閉じた。
こはくの車輪が動き始める。
初めの二回転は、少しふらついた。
それから四つの車輪が揃い、勢いがつく。
荷台の耳が、風を受けて後ろへ伏せられた。
「こはく、白い丸までだ!」
悠斗が声をかける。
こはくはまっすぐ戻ってきた。
先に止まっていた狸の荷車の隣へ並ぶ。
二台の荷車が、白い丸の中に収まった。
「尻尾、ないよね?」
こはくの声が、荷台から聞こえた。
悠斗は口を開きかけた。
白銀先生が近づいてくる。
「ここからは、審査員が確認いたします」
悠斗はうなずいた。
こはくの耳が、ぴんと立った。
◇
審査員たちが、二台の荷車を見比べる。
本物の荷車も、職員が持ってきて横へ置いた。
三台並ぶと、狸の荷車が一回り小さいのは、はっきり分かった。
こはくの荷車は、車輪の高さも荷台の幅もよく合っている。
白い雲の数まで同じだった。
ただし、耳がある。
高嶺園長が、羽団扇を机へ置いた。
「どちらも、よく観察して変化しましたね」
二台の荷車が黙っている。
「瑞雲の荷車は、少し小さくなっています」
狸の車輪が、わずかに動いた。
「しかし、変化をするのは小さな子どもです。多少の大きさの違いは、まだ仕方のないところでしょう」
高嶺園長が、こはくの方へ目を向ける。
「一方、こちらは大きさも模様もよく再現できていますが、耳が残っています」
荷台の耳が、左右へ動いた。
「耳?」
「ええ。荷車には、狐の耳はありませんね」
こはくが黙った。
「人に見られたとき、これでは一目で妖の変化だと分かってしまいます。今回は、耳も尻尾も隠せている方を勝ちとします」
白銀先生が旗を上げた。
「瑞雲保育園の勝利です」
拍手が起きた。
狸の荷車が白い煙に包まれ、元の姿へ戻る。
狸の子は、誇らしそうに自分の尻尾を持ち上げた。
こはくの荷車は、まだ動かなかった。
耳が二つとも、ぺたりと伏せられている。
悠斗はその前へしゃがんだ。
「こはく」
「尻尾は、しまった」
「ああ。見てた」
「二本とも」
「ちゃんと二本とも、なかった」
「耳、忘れた」
青い荷台が白い煙に包まれた。
煙が消えると、こはくが座っていた。
頭に狐の耳。
後ろには二本の尻尾。
こはくは自分の耳を両手で押さえた。
「尻尾が出ないように、ずっと考えてたの」
「そうか」
「出たら駄目だから」
「うん」
「そしたら、耳が出てた」
悠斗はこはくの隣にある本物の荷車を見た。
「大きさも、模様も、よく見たな」
「でも、耳があった」
「そこは次の練習だ」
こはくは耳から手を離した。
今度は狸の子を見る。
「小さかったのに」
「そうだな。でも、耳があったら見破られるっていうのも、その通りだろ」
こはくは返事をしなかった。
悠斗も、それ以上は言わなかった。
こはくが立ち上がる。
二本の尻尾が、不満そうに地面を払った。
◇
席へ戻る途中で、こはくが足を止めた。
「お題が悠斗先生なら、完璧だったのに!」
悠斗が振り返る。
「俺?」
「荷車は、いつも見てないもん!」
こはくの周りへ、白い煙が上がった。
伸びた黒い髪。
赤い線の入ったジャージ。
少し曲がった背中。
そこに、もう一人の悠斗が立っていた。
本物の悠斗は、頭を見た。
黒い髪しかない。
腰の後ろへ目を移す。
何も出ていない。
「……こはく」
「ほら!」
こはくは悠斗の声で言った。
「こっちだったら、できた!」
きゅうが駆け寄ってきた。
「耳、ない!」
後ろへ回る。
「尻尾もない!」
「人の尻を確認するな」
悠斗が言う。
こはくも同じ声で言った。
「人の尻を確認するな」
「今はまねしなくていい!」
観覧席から、こはくの母親が立ち上がった。
「こはく?」
「お母さん、できてるよね?」
母親は近づき、頭から足まで見た。
髪の横へ目を向ける。
後ろも確かめる。
「消えてる」
小さな声だった。
そのあとで、母親は笑った。
「耳も尻尾も、ちゃんと消えてるよ」
きゅうの母親も、めめの両親も席から顔を向けた。
「まあ、本当に悠斗先生が二人だ」
「こはくちゃん、できたねえ!」
大河の父親が声を上げ、慌てて少し音量を下げた。
めめは二人へ近づいてきた。
「どっち?」
「俺が本物」
「こっちも俺」
こはくが答える。
めめは赤い眼鏡を直し、顔を近づけた。
「本当に同じ」
小吉が二人を見比べる。
それから、こはくの方を指した。
「こっち、怒ってる」
「怒ってない!」
悠斗の顔をしたこはくが、唇を尖らせた。
「荷車じゃなかったら、勝ってたの!」
「その顔は俺、しないぞ」
きゅうが笑った。
こはくはさらに口を尖らせたが、母親が頬へ触れると、少しだけ表情が緩んだ。
「今まで、たくさん練習したものね」
「うん」
「先生になって、何回も」
「うん」
悠斗は自分と同じ顔を見た。
最初は、笑われるのが嫌で練習もしなかった。
自分に化けてみろと言ったら、耳と尻尾をつけたまま、不機嫌そうに立っていた。
それから何度も、悠斗になった。
髪や声だけでなく、姿勢まで覚えられてしまった。
「よく見てたんだな、俺のこと」
「毎日いるもん」
こはくは当然のように答えた。
悠斗は少し黙った。
それから、自分と同じ頭へ手を置く。
「できたな」
「今なら勝てた」
「それは分かった」
「もう一回、競争したい」
「競技は終わった。今度は、違う物でもできるように練習しよう」
こはくは渋々うなずいた。
けれど、まだ元へは戻らない。
そのまま観覧席の前を一周し、耳も尻尾もないことを見てもらった。
親たちは拍手をした。
勝ったときの拍手ではなかった。
こはくは一周し終えると、ようやく自分の姿へ戻った。
「疲れた」
「だから先に水を飲めって言っただろ」
悠斗は水筒を渡した。
こはくは両手で持ち、ゆっくり飲んだ。
その後ろで、瑞雲の得点板に二つ目の印がついた。
悠斗はノートを開く。
こはく。荷車への変化、尻尾は消えたが耳が残った。
次の行へ書き足す。
悠斗への変化。耳と尻尾、両方を隠せた。
大きな丸をつけた。
こはくが覗き込む。
「勝ってないのに、丸?」
「できたからだ」
こはくはしばらく丸を見つめた。
やがて、二本の尻尾が小さく揺れた。
運動場では、職員たちが大きな玉を運び始めていた。
いわおと小吉が、並んでそれを見ている。
「大きい」
「うん」
悠斗はノートを閉じた。
「次は、お前らだぞ」
二人が同時に振り返った。




