第四章 予言は最後まで言えません
# 第四章 予言は最後まで言えません
「最初の競技は、予言競走です」
白銀先生の声が、運動場へ響いた。
中央には、二つのコースが並んでいる。
白い線の先に、赤い旗と青い旗。
それぞれの旗を一周して戻り、ゴールの向こうにある台へ進む。
「台の前で予言をしていただきます。先に予言まで終えた方が勝ちです」
悠斗はことの隣へしゃがんでいた。
「旗まで行って、回って、戻ってくる。それは分かったか?」
「まわるぅ」
「そう。旗を倒すなよ」
「はたも、まわるぅ?」
「旗は立ってるだけだ」
ことは眠そうな目で、赤い旗を見た。
黒い子牛の身体についた尻尾が、ゆっくりと揺れている。
「せんせぇ、ここぉ?」
「戻ってくるところで待ってる。夜久園長もいる」
少し後ろで、夜久園長がうなずいた。
ことの母親は、観覧席の一番前へ座っている。
両手を膝の上で重ね、こちらを見ていた。
悠斗はその目を見て、うなずき返した。
予言をさせるつもりはない。
そのことは、席を離れる前にも伝えてあった。
母親が、ことへ小さく手を振る。
「こと、旗を回っておいで」
「はぁい」
隣のコースでは、アマビエの子が出発線へ進んでいた。
長い髪の間から、小さな嘴が出ている。
下半身は魚のような形で、鱗が提灯の光を受けてきらきらしていた。
地面を進むには、少し工夫がいるらしい。
身体を左右へ揺らし、裾から見える脚を順番に動かしている。
「がんばれぇ」
ことが言った。
アマビエの子は、ことを見た。
「あなたも」
「うん」
二人とも、まだ走ってはいない。
悠斗はことの頭を軽く撫で、ゴール側へ移動した。
◇
「位置について」
白銀先生が、小さな旗を上げた。
ことは前を見ている。
アマビエの子も、青い旗を見ていた。
「よーい」
ことの尻尾が、一度だけ揺れた。
「始め!」
二人が動いた。
ことの前脚が一歩出る。
後ろ脚が続く。
ゆらり。
ゆらり。
いつも積み木の散歩についていくときと、大して変わらない速さだった。
「ことちゃん、頑張れ!」
きゅうが叫んだ。
「走ってる?」
小吉が尋ねる。
「進んでる」
大河が答えた。
「走ってはない」
「本人は走ってるつもりかもしれないだろ」
悠斗はゴールの脇から言った。
ことは声のした方へ顔を向ける。
「せんせぇ」
「前を見ろ。旗はそっちだ」
ことが向き直った。
四本の脚は止まっていない。
ただ、首まで悠斗へ向けたため、少し斜めに進んでいた。
「赤い旗。赤い方だぞ」
「あかぁ」
ことは赤い旗へ向かった。
その隣で、アマビエの子はもっとゆっくり進んでいる。
左右に揺れ、少し前へ出る。
また揺れ、もう少し前へ出る。
水の中なら、まるで違うのだろう。
今は地面だった。
「慌てなくていいですよ。旗をよく見て」
白銀先生が声をかけた。
ことが赤い旗へ着く。
鼻先を近づけた。
「におうな。回れ」
悠斗が言うと、ことは旗の棒を中心に、ゆっくり歩き始めた。
「ことちゃん、くるっと!」
こはくが両手で丸を作る。
ことは半周したところで、観覧席へ顔を向けた。
母親が手を振っている。
「おかあさぁん」
「見てるよ。もう半分、回ってね」
その隣から、いわおの父親も手を上げた。
「そうそう。上手に回ってるぞ」
ことは嬉しそうに目を細め、残りの半周を進んだ。
それから、悠斗の方へ歩いてくる。
アマビエの子は、ようやく青い旗へ近づいたところだった。
「ことちゃん、一番!」
きゅうが跳ねた。
悠斗は返事をしなかった。
先に戻ってきても、その先へは進ませられない。
ゴールの白い線を見た。
そのすぐ向こうに、自分の手が届く位置を選ぶ。
夜久園長も、台の横へ立っていた。
◇
ことが白い線を越えた。
拍手が起きる。
こはくときゅうが、席から少し前へ出てきた。
「戻ったぁ」
ことが悠斗を見上げる。
「ああ。ちゃんと回れたな」
「いっかい」
「そう。一回だ」
ことは満足したように、台の方へ顔を向けた。
白銀先生が言う。
「では、予言をどうぞ」
悠斗の手が、ことの口元へ近づいた。
まだ何も言っていない。
ことは台の向こうをぼんやりと見つめる。
目が、遠くなった。
「あしたはぁ――」
「駄目!」
きゅうとこはくが同時に叫んだ。
悠斗の手が口を塞ぐ。
駆け寄ったきゅうも、小さな手を重ねようとする。
「ことちゃん、続き言っちゃ駄目!」
「んむぅ」
ことの尻尾が、のんびり揺れた。
「きゅう、俺が押さえてるから大丈夫だ。こはくも、少し下がれ」
「でも」
「近すぎると、ことが動けない」
こはくは一歩下がった。
けれど、ことから目を離さなかった。
夜久園長が正面へしゃがむ。
「ことちゃん。今日のお弁当は、何が入っていますか?」
ことが園長を見た。
「お母さんが作ってくれましたね」
悠斗はゆっくりと手を緩めた。
ことは口をもごもごさせる。
「おいもぉ」
「そう。お芋ですね」
「あまぁい」
「あとで、みんなと食べましょう」
「うん」
ことの目が、いつもの眠そうな目へ戻った。
悠斗は手を離した。
すぐ横へしゃがんだまま、ことの肩を撫でる。
観覧席で、母親が大きく息を吐いたのが見えた。
◇
アマビエの子が、青い旗を回って戻ってきた。
相変わらず、ゆっくりだった。
白い線の手前で少しよろめき、姿勢を直す。
「あと少しですよ」
白銀先生が声をかける。
アマビエの子は、ようやくゴールを越えた。
頬が赤くなっている。
長い髪を両手で後ろへ払い、台の前へ進んだ。
「明日は、雨です」
はっきりした声だった。
白銀先生が旗を上げる。
「瑞雲保育園の勝利です」
向こうの観覧席から、大きな拍手が起きた。
アマビエの子が胸を張る。
高嶺園長は羽団扇を持ったまま、ゆっくりとうなずいていた。
きゅうが白い線を指さす。
「ことちゃん、先だった」
「競技は予言までですから」
白銀先生は穏やかに答えた。
悠斗は立ち上がった。
「ずるいぞ」
声は、自分でも思ったより低かった。
白銀先生がこちらを見る。
「ことが最後まで言えないことは、知ってるでしょう」
「ですから、先生の付き添いを――」
「付き添いがいても、言わせられるわけじゃない」
悠斗がもう一歩前へ出ようとした。
夜久園長と目が合う。
園長が、静かに首を振った。
悠斗の足が止まった。
ことは、自分のすぐ下にいる。
こはくもきゅうも、こちらを見上げていた。
悠斗は口を閉じた。
言いたいことは、まだあった。
けれど、ことが何か言った。
「せんせぇ」
悠斗はしゃがみ直した。
「何だ」
「まわったよぉ」
「……ああ」
「あかいの、いっかい」
「ちゃんと一回、回ってきたな」
ことはうなずいた。
「おいもぉ?」
「まだだ。席へ戻って、水を飲もう」
悠斗はことの隣を歩き始めた。
きゅうとこはくもついてくる。
後ろからアマビエの子が、小さく手を振った。
ことが振り返る。
「あした、あめぇ?」
「うん」
「かさぁ」
「持ってきてね」
「うん」
ことはもう一度、尻尾を揺らした。
◇
宵待の席へ戻ると、母親がことの顔を覗き込んだ。
「おかえり」
「ただいまぁ」
「旗まで行けたね」
「いっかい、まわったぁ」
「見てたよ」
母親はことの頬へ触れ、それから悠斗を見た。
小さく頭を下げる。
悠斗も、黙ってうなずいた。
「ことちゃん、迷わず戻ってきたねえ」
めめの母親が言った。
「お母さんに手も振ってたな」
大河の父親が笑う。
「ゆっくりでも、最後まで歩いた」
いわおの父親もうなずいた。
ことは大人たちの顔を順番に見て、嬉しそうに笑った。
きゅうが隣へ座る。
「ことちゃん、先に戻ったのにね」
「もどったぁ」
「ぼく、見てた」
「うん」
「口、止めるのも手伝った」
ことはきゅうを見た。
「ありがとぉ」
きゅうが胸を張った。
「キュウリ食べる?」
「いらなぁい」
「お芋の方がいい?」
「うん」
「じゃあ、ぼくが食べる」
「休憩までしまっておけ」
悠斗が止めると、きゅうは袋を抱え直した。
夜久園長が、ことの前へ水を置く。
悠斗はその横へ腰を下ろした。
瑞雲の得点板に、最初の印がついている。
こちらには、まだ何もない。
悠斗は板を見て、それからことを見た。
ことは水を飲み終え、赤い旗を眺めている。
「もういっかい、まわるぅ?」
「今は次の子が使うんだ」
「あとでぇ?」
「空いてたらな」
ことは満足そうにうなずいた。
運動場へ、白銀先生の声が響く。
「次は、変身借り物競争です」
こはくが顔を上げた。
二本の尻尾が、ぴんと立つ。
悠斗は競技表を開いた。
今度は、こはくの名前が書かれている。
「先生」
こはくが呼んだ。
「見ててね」
「見てるよ」
悠斗はノートを閉じ、立ち上がった。




