第三章 瑞雲保育園へようこそ
# 第三章 瑞雲保育園へようこそ
参加の返事は、七人分揃った。
悠斗は机へ紙を並べ、一枚ずつ名前を確かめた。
観覧の予定欄にも、全員、来られる家族の名前が書いてある。
「小吉のお母さん、仕事を交代してもらえたそうです」
「よかったですね」
夜久園長がうなずく。
「大河のお父さんは、工事の仲間に相談したと」
「ええ。皆さん、予定を合わせてくださったようです」
悠斗は最後の紙を持ち上げた。
きゅうの分だった。
保護者の署名の下へ、違う筆圧で文字が足されている。
きゅうり。
「家族の名前を書く欄だぞ」
隣で覗いていたきゅうが答えた。
「一緒に行く」
「観覧しないだろ」
「見てるかもしれない」
「途中で食べるくせに」
きゅうは否定しなかった。
◇
運動会の当日。
日が沈む少し前から、宵待保育園の玄関には親子が集まっていた。
大河の父親は、いつもの作業着ではなく、ゆったりした運動着を着ている。
いわおの父親も、今日は服に土がついていなかった。
こはくの母親は歩きやすい靴を履き、小吉の母親は大きな水筒を鞄へ入れていた。
「せっかくですから、冷たいお茶を多めに持ってきました」
「俺ももらっていいですか」
悠斗が尋ねると、母親は笑った。
「もちろん。先生の分もありますよ」
足元には、小吉の毛布が入った袋。
きゅうの水と霧吹き。
めめの眼鏡ケースと、予備の眼鏡。
救急箱、名簿、着替え。
悠斗は荷物を順番に確認し、ノートへ印をつけた。
「先生、ぼくは?」
小吉が横から覗き込む。
「お前は荷物じゃない。あとで数える」
「今いる」
「見えてる」
「お母さんもいる」
「ああ」
小吉は母親の手を握り、満足そうにうなずいた。
めめは赤い眼鏡をかけたまま、玄関の外を見ていた。
「空、オレンジ」
「もうすぐ暗くなるな」
「あの色は、よく分かる」
隣にいたこはくの母親が空を見上げる。
「きれいねえ。めめちゃんが教えてくれたから、見られたわ」
めめは少し笑った。
「夜になったら、月も見る」
「会場で先生のところから離れるなよ」
悠斗が言うと、きゅうが袋を持ち上げた。
「キュウリからも離れない」
「それは離れていい」
◇
隣町までは、親たちの車に分かれて向かった。
悠斗は夜久園長と一緒に、ことの母親の車へ乗った。
母親は人の姿になり、運転席へ座っている。
後ろでは、ことが牛の身体を収められる座席に落ち着き、窓を眺めていた。
「せんせぇ、うんどうかい、はじめてぇ?」
「保育園の先生として行くのは初めてだな」
「こどものときはぁ?」
「覚えてない」
夜久園長が助手席から振り返った。
「悠斗君は、かけっこの途中で雪を降らせたことが――」
「その話は今しなくていいです」
「まだ何もお話ししていませんよ」
「始めたでしょう!」
ことの母親が、笑いをこらえながら車を曲げた。
窓の外で、住宅街の明かりが後ろへ流れていく。
少しずつ道が上り始めた。
やがて前方に、二本の大きな門柱が見えた。
白い石でできている。
片方には、金色の文字が刻まれていた。
瑞雲保育園。
「保育園の門ですか、これ」
悠斗は窓へ顔を寄せた。
「そうですよ」
「中に城がありそうなんですけど」
夜久園長は答えず、眼鏡の位置を直した。
◇
門の向こうには、広い庭があった。
地面は平らに整えられ、白い線がくっきりと引かれている。
園舎は大きく、窓も明るい。
軒には提灯が並び、運動場の周囲には色とりどりの旗が張られていた。
宵待保育園の親子が、駐車場から集まってくる。
「ひろい」
小吉が言った。
「きれい」
めめも眼鏡を押し上げる。
きゅうは悠斗のジャージを引っ張った。
「池、あるかな」
「勝手に探しに行くなよ」
「まだ行ってない」
「先に言ってるんだ」
「ようこそ、お越しくださいました」
声がした。
玄関の前に、白銀先生が立っていた。
白い髪は後ろへきれいに流され、紺色の運動着にも皺がない。
その背後で、九本の尻尾がゆったりと揺れていた。
一本ずつ毛並みが整い、先まで白く光っている。
こはくが、ぴたりと足を止めた。
「九本」
白銀先生は目を細めた。
「ええ。こはくさんですね」
「どうして知ってるの?」
「夜久先生から、尻尾を見たいとうかがいました」
こはくは本物の悠斗を見た。
「先生、言ったの?」
「園長に伝えた」
「全部しまえる?」
白銀先生が微笑む。
九本の尻尾が、白い煙に包まれた。
次の瞬間には、一本も見えなくなっている。
頭の狐耳も消えていた。
「すごい!」
こはくが声を上げた。
きゅうも後ろへ回ろうとし、悠斗につかまる。
「人の尻を確認しに行くな」
「本当にないか見たい」
「ここから分かるだろ」
白銀先生は、こはくの頭と腰へ目を向けた。
「あなたも練習中だそうですね」
「尻尾だけなら、しまえる」
「二本とも?」
「うん。でも耳が出る」
「両方を同時に隠せて、初めて完成です。頑張りましょう」
こはくの耳が、少し下がった。
母親がその肩へ手を置く。
「今日は先生の尻尾を見られてよかったね」
「うん」
白銀先生は受付の机を示した。
「こちらでお名前の確認を。保護者の皆さまには、観覧席をご案内します」
◇
「夜久先生」
玄関から、別の声がした。
背の高い女が歩いてくる。
濃い紫の運動着に、髪は高く結い上げてある。
背筋がまっすぐだった。
鼻も、よく目立っていた。
長い鼻の下に、きっちり結ばれた口がある。
手には羽団扇。
女が止まると、白銀先生が一歩横へ退いた。
「高嶺先生。お招きいただき、ありがとうございます」
夜久園長が頭を下げる。
悠斗も慌てて続いた。
「黒川悠斗です。保育補助をしています」
「高嶺です。ようこそ瑞雲保育園へ」
高嶺園長は悠斗の黒いジャージを見て、それから園児たちへ目を移した。
「皆さん、楽しみにしていらしたかしら」
「お弁当、持ってきた!」
きゅうが答える。
高嶺園長の羽団扇が止まった。
「そう。競技も楽しみですね」
「キュウリ三本」
「きゅう、今は本数を報告しなくていい」
悠斗が言うと、高嶺園長は微笑み直した。
「今日の経験が、皆さんの励みになればと思っています」
「ええ。よその園のお子さんと遊べる機会ですから」
夜久園長が答えた。
「遊ぶだけではありませんよ、夜久先生」
羽団扇が、ゆっくりと動く。
「日頃の成果を確かめる、大切な機会です」
「なるほど」
夜久園長はうなずいた。
それ以上は言わなかった。
高嶺園長の鼻先が、ほんの少し上を向いた。
「白銀先生、宵待の皆さんをご案内して」
「承知しました」
白銀先生の尻尾が、再び姿を現した。
こはくは歩きながら、九本を目で追っていた。
◇
運動場の端には、二つの園の席が用意されていた。
宵待保育園、と書かれた札の前に、悠斗は荷物を下ろした。
保護者の観覧席は、そのすぐ後ろだった。
「毛布はここ。水はこっち。勝手にほかの場所へ行くなよ」
悠斗が説明している間に、向こうの園児たちが集まってきた。
耳の丸い狸の子。
背の高い、大入道の子。
その隣では、骨の身体をした子が歩くたびに、かたかたと音を立てている。
小吉は見上げた。
いわおも見上げた。
「大きい」
「うん」
二人で同じことを確認した。
少し後ろには、小さな烏天狗がいた。
背中の羽をぱたぱた動かしているが、足は地面についたままだ。
「飛べる?」
きゅうが尋ねる。
「まだ。でも、もうすぐ飛べる」
「ぼく、十秒潜れる」
「十秒?」
「十秒」
きゅうは胸を張った。
観覧席から、いわおの父親が声をかけた。
「今日はどんな競技があるかな、きゅうちゃん」
「キュウリの競技!」
「ないぞ」
悠斗が答える。
狸の子が、こはくへ顔を向けた。
「変化する?」
「するよ」
「ぼくは、何にでもできる」
白い煙が上がった。
狸の子が、小さな椅子になる。
耳も尻尾も見えない。
「こはくも椅子になる!」
「まだやらなくていい。競技の前に疲れるぞ」
悠斗が止めた。
椅子が元の狸へ戻る。
「ぼくは、疲れないよ」
こはくの耳がぴんと立った。
悠斗はその頭へ手を置いた。
「お前は座って、水を飲め」
◇
白銀先生が、競技表を持って戻ってきた。
「本日の順番です。お名前と種目に間違いがないか、ご確認ください」
悠斗は受け取った紙を開く。
夜久園長が隣へ立った。
最初は、目印を回って戻り、予言をする競走。
ことと、アマビエ。
変身借り物競争は、こはくと狸。
大玉転がしには、いわおと小吉の名前が並んでいた。
相手は、大入道とガシャ髑髏。
パン食い競争、きゅうと烏天狗。
声で先生を呼ぶ競走、大河と天狗。
色合わせ玉入れ、めめと千里眼。
悠斗は、最初の行へ指を戻した。
「ことの競技、確認したんですよね」
「はい。安全に参加できる形をお願いしました」
夜久園長の声は静かだった。
白銀先生が答える。
「もちろん。先生がそばに付き添ってくださって結構です。予言をなさらない場合も、コースを回った経験は残りますから」
「勝敗は?」
「先に戻り、予言まで終えた方が勝ちです」
悠斗は白銀先生を見た。
白銀先生はにこやかだった。
夜久園長は紙を押さえ、続きを確認する。
「最後は、全員参加ですね」
「ええ。家づくりです。詳しい説明は種目の前にいたします」
白銀先生が戻っていく。
悠斗は競技表を見つめた。
まだ、始まってもいない。
それなのに、胸の中へ小さな引っかかりが残った。
「悠斗先生」
ことが足元から顔を上げる。
「はしるぅ?」
「……ゆっくりでいいぞ」
「うん」
「戻ってきたら、俺が隣にいる。未来の話はしなくていい」
ことはうなずいた。
悠斗は競技表を畳み、ノートの間へ挟んだ。
観覧席では、親たちが飲み物を分け、荷物を並べている。
小吉は母親へ手を振った。
めめの父親が、応援席に立つ赤い旗を娘へ教えていた。
こはくは、きゅうへ九本の尻尾の話をしている。
「一本ずつ、しまうのかな」
「九本いっぺんじゃない?」
「忙しそう」
悠斗は少し笑った。
運動場の中央へ、高嶺園長が進み出る。
提灯の下で、羽団扇が上がった。
「それでは、真夜中の大運動会を始めます」
拍手が広がる。
きゅうが立ち上がり、悠斗の顔を見た。
「先生、お弁当は?」
「まだだ!」
宵待の観覧席から、笑い声が上がった。




