第09話 控えは求めないと出ない
六日目から、御者の方が話しかけてくるようになった。
ヤンという名の、五十くらいの男の人だ。街で雇った馬車の御者で、はじめの五日はひとことも口をきかなかった。木箱十一を積んだ女を運ぶというのが、気味が悪かったのだと思う。
気が変わったのは、五日目の夕方に箱の中身を見せたからだ。
「……紙かい」
「紙です」
「宝石でも入ってるのかと思ってたよ」
それから、よく喋るようになった。
*
「お客さん、東は初めてかい」
「はい」
「関所がふたつある。知ってるかい」
「聞いております」
「ひとつ目が軍の管轄で、ふたつ目が教会だ。同じ街道に、番人が二種類いる」
ヤンは手綱を持ち替えながら、鼻を鳴らした。
「なんで二種類いるのか、俺は三十年走ってるが、いまだにわからん」
答えは知っている。
二百年前の話だ。街道の東半分を教会が整備して、西半分を軍が押さえていた時期があって、統合の話が三度出て三度とも流れた。流れた理由も書いてある。第四巻の、たしか後ろのほうだ。
私は黙っていた。
「ひとつ目は早いんだよ。軍のほうは、通行証さえありゃ通す。ふたつ目が厄介でね」
「厄介、と申しますと」
「銭を取られる」
ヤンは指で額をこすった。
「いや、取られるのは決まりなんだ。それはいい。ただ、日によって額が違う」
*
私は、少し考えた。
考えて、余計なことだと思って、それでも言った。
「……通行料は、書式の三番目の欄に書いてあるはずです」
「あ?」
「関所が出す控えの、三番目です。荷の種類と、台数と、額。その順で並んでおります。額の欄に書かれた数と、実際にお支払いになった数が違えば、控えの再発行を求められます」
ヤンが振り返った。
「……控えなんて、もらったことないぞ」
「求めないと出ません」
「求めていいのか」
「規定でございますので」
しばらく、車輪の音だけになった。
やがて、ヤンが言った。
「お客さん。前は何をしてなさった」
「書きものを」
「そりゃ、たいそうな書きものだ」
*
ひとつ目の関所は、ヤンの言うとおり早かった。
通行証を見せて、荷を検められて、それで終わり。番人は木箱を開けもしなかった。軍の関所は荷の中身より、通る人間の数を見ている。三十年走っている人が言うのだから、そうなのだろう。
問題はふたつ目だった。
昼過ぎに着いて、荷を降ろされて、一台ずつ数えられて、それから額を言い渡された。
ヤンが渋い顔をした。私にだけ聞こえる声で「先週の倍だ」と言った。
私は少し離れたところに立っていた。
番人は三人。ひとりが数えて、ひとりが額を告げて、ひとりは奥の卓で何か書いている。書いている方の手元に、綴じた帳面がある。あの帳面の書式は知っている。左から、日付、通行者、荷の種類、台数、額。額の欄は、控えと同じものを二枚同時に書く。
二枚書けば、一枚は渡すものだ。
ヤンが番人のところへ行った。
「控えをもらいたい」
「控え?」
「規定だろう」
番人が眉を上げた。ヤンの後ろの荷を見て、それから、ヤンの顔を見た。
「そんなものは出しておらん」
「出さないんじゃなくて、求められてないから出してないんだろう。俺はいま求めてる」
番人が奥を振り返った。
書いていた方が顔を上げて、少しのあいだ、動かなかった。
それから、立ち上がって、綴じ帳のいちばん上の一枚を切り離して持ってきた。
ヤンがそれを受け取って、日に透かすようにして見た。
私のいる場所からは、字は読めない。けれど、ヤンの肩が動いたのはわかった。
「……あんた、これ、ここに書いてある額は」
番人は答えなかった。
「先週の分も、これで出るか」
「先週のは、もう綴じてある」
「綴じてあるなら残ってるってことだろう」
番人が、もうひとりのほうを見た。
もうひとりが、額を言い直した。
*
馬車が動きだしてから、ヤンはずっと黙っていた。
林を抜けたあたりで、ようやく口を開いた。
「半分だった」
「そうですか」
「三十年、余計に払ってた」
「……そうかもしれません」
「なんで誰も教えてくれねえんだ」
私は答えなかった。
答えは、たぶんこうだ。誰も知らないからではない。知っている者が、街道を走っていないからだ。
書式を作る人は書斎にいて、書式を使う人は街道にいる。あいだを繋ぐものが、紙しかない。紙は、求めないと出ない。
四百年、ずっとそうだったのだと思う。
「お客さん」
「はい」
「あんた、他にも知ってるかい」
「……いくつかは」
「そりゃいい」
ヤンは笑って、それきり何も聞かなかった。
聞かないでくれたことに、少しだけ助けられた。
*
その日の夕方、街道の脇に、天幕が並んでいるのが見えた。
馬が繋いである。荷車も。人が動いている。
「軍だな」
ヤンが言った。
「珍しいんですか」
「この時季にはな。刈り入れ前だ。畑から人を出したがらねえから、演習も動員もやらん。俺が知ってるのは、そういう決まりだよ」
私は、天幕を数えていた。
癖だった。目に入ったものを数えてしまう。
ひとつの天幕に八人。並んでいるのは二十七。荷車が六。厩の馬が、見えるだけで四十ほど。
——二百と少し。
刈り入れ前に二百と少しが動く理由は、規定の上ではみっつしかない。国境の警備の交代。王都からの護送。そして、支払いの取り立てだ。
国境の警備の交代は、この時季ではない。書式に月が指定してある。春と秋、それぞれ決まった旬に動く。
王都からの護送も違う。護送なら旗が出る。旗は出ていない。
残るのは、ひとつ。
軍が動くのは、払われるはずのものが払われないときだ。
払われるはずのものとは、たとえば、商会からの前渡しがある。軍は自前で兵糧を持たない。買う。買う金は先に立て替えられている。立て替えている先は、決まっている。
立て替えを保証していた家も、決まっていた。
私は、そこで数えるのをやめた。
「お客さん?」
「なんでもありません」
馬車は、天幕の列を右に見ながら通り過ぎた。
荷車の一台に、印が入っている。遠くて紋までは見えないけれど、荷の縛り方でわかった。商会の荷だ。商会の荷は縄を三重に回して、結び目を上に出す。軍の荷は二重で、結び目を下にする。
商会の荷が、軍の陣に入っている。
まだ何も起きていない。前渡しの荷が届いているだけだ。届いているうちは、まだ話し合いの段階だ。
兵の一人と目が合った。若い方だった。何か食べていて、こちらを見て、また視線を戻した。
この方は、なぜ自分がここにいるかをご存じないだろう。
ご存じないまま、動員されて、天幕を立てて、飯を食っていらっしゃる。
——七日前まで、それでよかった。
この方が何も知らないでいられるように、私は書斎にいた。知らないでいられることが、あの仕事の成果だった。
いまも、この方は何も知らない。
成果だけが、逆さまになっている。
私は座り直して、膝の上の包みに手を置いた。
次の宿までは、あと一刻ほどだった。
*
その夜、宿の帳場でヤンが控えの紙を広げていた。
灯りにかざして、指でなぞって、また戻して。三十年ぶんの数字を、後ろから追いかけているのだと思う。
「お客さん。この、いちばん下の欄は何だい」
「発行した者の名でございます」
「名前を書くのか」
「書きます。書かないと、誰が決めた額かわからなくなりますので」
ヤンは、そこをしばらく見ていた。
「……知らねえ名だ」
「そうでしょうね」
「知らねえ奴が決めた額を、三十年払ってたわけだ」
私は答えなかった。
紙には、決めた者の名が残る。残っているのに、誰も見ない。見る習慣がないからだ。習慣は、書式では作れない。
ヤンは紙を畳んで、上着の内側に入れた。
「明日も、求めていいのかね」
「関所を通るたびに」
「毎回か」
「毎回でございます」
「面倒だな」
そう言って、ヤンは笑った。笑いながら、上着の上から一度、紙のあたりを押さえた。
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