第10話 ひでえ女もいたもんだ
その宿の食堂は、混んでいた。
卓が四つしかなくて、相席になった。同じ卓に、王都から来たという商人が三人。荷を運ぶ途中で、東の市へ向かうのだという。
ヤンは厩の様子を見に行っていて、まだ来ない。
私は隅に座って、汁物をもらった。
旅の女がひとりで卓についていると、たいてい何か言われる。この六日でわかったことのひとつだ。声をかけられたら、身内の葬儀で東へ、と答えることにしている。そう答えると、みな黙る。
今日は、誰も声をかけてこなかった。
三人とも、話に夢中だったからだ。
*
商人たちは、最初は荷の話をしていた。
麻の相場が上がったとか、南の川が浅くなって舟が使えないとか。そういう話を聞くのは嫌いではない。書斎で読んでいた数字が、口から出てくると別のものに聞こえる。
途中から、王都の話になった。
「そういや、聞いたか。夜会の話」
「婚約破棄のか」
「それもだが、そのあとだ」
いちばん年かさの方が、椀を置いた。
「殿下が仰ったそうだ。今後、揉め事の裁定はご自分が下されると」
卓が、少し静かになった。
「……それは、ずいぶん」
「お忙しいことになるな」
誰かが笑った。
その笑い方は、可笑しいから笑ったのではなかった。どう受け取ればいいかわからないときの笑い方だった。
「じゃあ何か。うちの荷が関所で揉めたら、殿下が出てこられるのか」
「そりゃないだろう。大きい話だけだ」
「大きい話ってのは、どこからだ」
誰も答えなかった。
私は汁物を飲んでいた。
答えは、決まっている。どこからが大きい話かを決める書式がある。第九巻に載っている。額と、関わる家の数と、期間の三つで決まる。三つのうち二つが基準を超えたら、上へ回す。
その書式を読んだ方が、いま王都にいらっしゃるかどうか。
いらっしゃらない。
私が最後だった。
*
「まあ、いいことじゃないか」
若い方が言った。
「殿下がご自分で決められるなら、話が早い。今までは、どこで誰が決めてるのかもわからなかったんだ」
「そりゃそうだ」
「三つに割れてて、どれに持ってっても他の二つが文句を言う。あれよりはましだろう」
もっともだと思った。
外から見れば、そうなる。三つに割れているのは事実で、割れているせいで遅いのも事実だ。ひとりが決めるほうが早いのも、間違っていない。
「去年の川の件、覚えてるか」
年かさの方が言った。
「舟の通行の割り当てだろう。あれは三月かかったな」
「三月だ。三月待たされて、出てきた答えが、上りは軍、下りは教会で、荷が混じる分は折半だと」
「ややこしいったらない」
「だがまあ、あれ以来、揉めてないな」
「……そういや、揉めてないか」
三人が、なんとなく黙った。
私は汁物を飲んでいた。
あれは、三月ではなく三月と九日かかった。九日ぶんは、三つに同じ文面を送って、三つとも同じ字で返してもらうための時間だ。同じ字で返させないと、後から片方が違うことを言い出す。
早くはない。
ただ、早く決まったことが守られるかどうかは、別の話だ。
守られるかどうかを確かめる者がいるから、遅かった。遅いのは、確かめていたからだ。
私は、そこまで考えて、汁物の椀を置いた。
考えても仕方がない。もう、私の管轄ではない。
*
「その婚約破棄の娘な」
年かさの方が、思い出したように言った。
「腹いせに、公爵家の保証を全部外したらしいぞ」
「本当か」
「府の知り合いから聞いた。翌朝いちばんに窓口へ来て、書類を三枚出して帰ったと」
「ひでえ女もいたもんだ」
私は、椀を持ち直した。
「捨てられたのが悔しいのはわかるがな。関係ない連中まで巻き込むこたぁない」
「なんて名だ」
「オルデンだよ。公爵家の」
「ああ、聞いたことがある。冷たい娘だってな。夜会でも誰とも口をきかんかったとか」
「そりゃ、ああいうことをするわけだ」
三人が、それぞれ頷いた。
悪意はない。事実として、そう見えている。
実際、そのとおりに書いてある。捨てられた家が腹いせに手を引く——そう見えるように、私が書いた。
書いたとおりに伝わっているのだから、これは成功だ。
十一年、そうやってきた。人の口に上らないように、上ったとしても間違ったかたちで上るように。父様の教えは正しくて、私はそれをよく守った。
守った結果が、いま目の前で汁物を飲みながら喋っている。
汁物は、まだ温かかった。
*
「しかし、そんな娘に保証を任せてたってのが、そもそもおかしくないか」
若い方が言った。
「任せてたわけじゃないだろう。家の名義だ」
「じゃあ、なんで娘が窓口に行けるんだ」
卓が、また少し静かになった。
「……そりゃ、代理だろう」
「代理でも、三枚まとめて通るか?」
「通ったんだから、通るんだろう」
誰も答えを持っていなかった。
私は椀を両手で持って、湯気を見ていた。
いい問いだ、と思った。
この方は、いちばん近いところまで来ていらっしゃる。もう半歩踏み込めば、たぶん見える。名義ではなく、人に付いていたのだと。
誰も、その半歩を踏み出さなかった。
話は、東の市の相場に戻っていった。
*
ヤンが入ってきたのは、そのすぐあとだった。
私の隣に座って、汁物をもらって、それから、卓の話に加わった。
「なんの話だい」
「王都の話さ。婚約破棄の娘が」
「ああ、それか。聞いたよ」
ヤンは椀に口をつけて、こう言った。
「ひでえもんだ」
私は、隣で汁物を飲んでいた。
ヤンは私の名を知らない。訊かれなかったので、名乗っていない。「お客さん」としか呼ばれたことがない。
今日の昼、この人は三十年ぶんの通行料を取り返した。
その人が、いま、私のことをひどい女だと言っている。
どちらも本当のことだ。矛盾していない。片方だけが見えているだけで、見えていない側を見せていないのは、私だ。
「お客さんは、どう思う」
ヤンが聞いてきた。
私は少し考えて、答えた。
「……そうですね」
自分の声が、思っていたよりも平らだった。
十一年ぶんの躾は、まだ壊れていないらしい。
三日前に一度だけ壊れかけたけれど、あれきりだ。書斎で、誰もいない部屋で、口を押さえたあのときだけ。
壊れなくてよかった、と思った。
思ってから、本当にそうだろうか、と思い直した。
ここで名乗れば、たぶんヤンは謝る。悪いことを言ったと思って、それから、私に気を遣うようになる。関所の話も、もうしなくなるだろう。
名乗らなければ、明日も同じように話ができる。
だから名乗らない。
——本当に、それだけだろうか。
汁物は、もう冷めていた。
*
「そういやお客さん」
ヤンが椀を置いて言った。
「明日はどのあたりまで行きなさる」
「決めておりません」
「決めてないのかい」
「はい」
「そりゃいい」
ヤンは笑った。
「決めてないってのはな、悪くないもんだよ。俺は三十年、行き先を人に決められてきた。荷主が言うところへ行って、言われた日に着く。それだけだ」
「お疲れさまでございます」
「今日はよかった」
ヤンは、上着の内側を軽く叩いた。控えの紙が入っているのだと思う。
「三十年で、初めて自分で決めたよ。求めるって決めた」
私は椀を持ったまま、少しのあいだ動けなかった。
この人は、たぶん、たいしたことを言ったつもりはない。
*
部屋に上がって、灯りを消した。
窓が街道に面していた。
寝つけなかったので、掛け金を外して少し開けた。夜の空気は冷たくて、遠くで犬が鳴いていた。
しばらくして、街道に光の列が見えた。
松明だ。
列は、ゆっくりと東へ向かっている。馬の脚と、車輪の音。荷を引いている。夜通し歩くつもりらしい。
夜に急ぐ荷は、二種類しかない。腐るものと、間に合わないもの。
私は数えた。
癖だった。
——夕方に見たのより、多い。
街道脇の天幕が二百と少しだった。今夜の列は、三百に届くかもしれない。一日で百増えるというのは、集結ではなく、追加だ。追加が出るのは、最初の見積もりが足りなかったときだ。
見積もりが足りなかったということは、相手が想定より払わないということだ。
窓を閉めた。
閉めてから、額を窓枠につけて、しばらくそうしていた。
——十四日。
あと五日、ある。
窓に額をつけたまま、私は五日を数えた。五日あれば、書式を揃えて、窓口へ行って、異議を申し立てられる。誰かが。
寝台に戻って、目を閉じた。
数えた数を頭から追い出そうとした。
うまくいかなかった。
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