第11話 並べるものではなかった
八日目は、朝から雨だった。
街道がぬかるんで、馬車の進みが遅くなった。ヤンが「今日は半分も行けねえな」と言って、それきり喋らなくなった。喋る余裕がないのだと思う。
窓を閉め切った車内は暗い。
やることがないので、私は膝の上の帳面を開いた。
*
余白に、日付を書いた。
癖だ。整理をするつもりはなかった。手が動いただけだ。
王都、一日目。財務府と記録院。
王都、二日目。府の使い。記録を預けろと。
街道、五日目。商会の請求。書面の作成は、王都の二日目。
街道、七日目。関所の額が先週の倍。
同じ日の夕方。軍の天幕。二百と少し。
その夜。松明。三百に届くか。
書き終えて、しばらく見ていた。
並べるものではなかった、と思った。
並べなければ、ばらばらの出来事のままでいられる。並べると、順番ができる。順番ができると、線になる。
線は、もう見えている。
*
商会が、王都の二日目に書面を作った。私が窓口に立った翌日だ。
商会があの速さで動けるのは、公爵家の保証が消えることを、その日のうちに知ったからだ。知ったのは府からだろう。府の誰かが報せた。誰が、というのは考えないほうがいいと言ったけれど、考えないほうがいいのは、理由がひとつしかないからだ。
商会は、公爵家から取り立てて終わりにするつもりはない。
あの明細を作れる方が書いているのなら、当然、次も見ている。公爵家の保証が消えて、いちばん困るのは公爵家ではない。
軍だ。
軍は自前で兵糧を持たない。買う。買う金は先に立て替えられていて、その立て替えを、うちが保証していた。保証がなくなれば、立て替えは止まる。止まれば、軍は自分で払うしかない。
払えなければ、取りに行く。
二百が三百になったのは、そういうことだ。
*
王太子殿下が「今後の裁定は自分が下す」と仰ったのは、たぶん善意だ。
誰かが決めなければならないと思われたのだろう。実際、決める者が要る。決める者が要るという判断は、正しい。
ただ、決めることと、決まったことが守られるかを確かめることは、別の仕事だった。
殿下は前者を引き受けられた。
後者を引き受けた者は、いない。
関所の額が先週の倍になったのは、そのせいだ。確かめる者がいないと知られたら、額は動く。あの番人を責めることはできない。あの方は、ずっと動かせると思っていて、たまたま今週まで動かさなかっただけだ。
私は、帳面の余白を見ていた。
字が、いつもより雑だった。
*
——戻れるだろうか。
その問いが出てきたのは、二度目だった。一度目は宿の窓で、額を窓枠につけていたときだ。
今度は、ちゃんと計算した。
王都までは、いま八日かかる。異議の申し立ての期限まで、あと四日。間に合わない。
仮に間に合ったとして、私は異議を申し立てられない。申し立てられるのは保証を受けていた側で、当家ではない。これは、家を出る前に叔父様にも申し上げた。
では、戻って、次の証人になると申し出るのはどうか。
これも、だめだ。
証人の承認には、三派すべての合意が要る。合意が成立したことを確かめる者が必要で、その者がいま、この馬車に乗っている。
私が私を承認することになる。
それは、承認ではない。無利害の第三者が証明するという一点だけが、あの仕事の中身だった。そこを崩したら、四百年ぶんの箱は、ただの古い紙になる。
私は帳面を閉じた。
閉じてから、開き直して、いま書いた頁を破った。
破って、二つに折って、また折って、包みの底に入れた。
捨てなかったのは、雨で窓が開かなかったからだ。ほかに理由はない。
*
戻れない。
戻る道がないのではなく、戻ってできることがない。
残っているのは、ひとつだけだ。
誰かが気づいて、書式を揃えて、窓口へ行く。あと四日ある。書式は難しくない。三枚だ。私が書けたのだから、誰でも書ける。
気づく方は、いらっしゃる。
記録院の院長。あの方は棚のことをご存じだ。三十年あの前に立っていらした。ただ、あの方に動けるのは記録院の中だけで、財務府の窓口には立てない。
財務府の年かさの方。あの方は書式の行を読まれた。読める方だ。ただ、あの方が動くと、府が公爵家を庇ったことになる。府はいま、それをしたがらない。
グレイ伯爵。あの方は水利の書面で助かった。けれど、助かったことをご存じない。
ヴェルダ侯爵夫人。関税を三度書き直した。ご存じない。
名前を挙げていって、途中でやめた。
挙げても仕方がない。挙げた誰かが動くわけではない。
それに、気づいたところで、みなさま自分の持ち場から出られない。持ち場から出るには、なぜ出るのかを説明しなければならない。説明できないから、出ない。
説明できるようにしておくのが、私の仕事だった。
それを、しなかった。
——ひとりでも気づけばいいのだ。
三日前に自分でそう思ったことを、私はまだ覚えていた。覚えているということは、まだ数えているということだ。
*
昼過ぎに、雨が上がった。
ヤンが窓を叩いて、教えてくれた。
「お客さん。晴れたよ」
「はい」
「今日中に、次の宿までは行ける」
「ありがとうございます」
窓を開けた。
濡れた道が光っていて、遠くに山の稜線が見えた。灰色で、低い。
「あれが国境の山だ」
ヤンが言った。
「あと二日ってとこかね。峠を越えりゃ、向こうは別の国だよ」
「越えられたことは」
「三度ある。若いころに、荷を運んでね」
ヤンは手綱を持ち直した。
「向こうはいいぞ。道が広い。こっちみたいに、途中で管轄が変わったりしねえ」
「変わらないのですか」
「変わらん。関所もひとつだ。だから話が早い」
私は、その稜線を見ていた。
思っていたより、近い。
十一年、地図の上でしか見たことのない線だった。書式の上では、あの線を越える手続きが第七巻に書いてある。荷の申告、身元の照会、通行の許可。三段階だ。
三段階のうち、三つ目は、私の名では下りない。
通行の許可を出すのは、王家の名において関所を預かる者だ。その者は、私が誰かを照会する。照会先は王都になる。王都でいま私の名を照会したら、どう返ってくるか。
冷たい娘。腹いせに保証を外した。
止められはしないだろう。止める理由がない。ただ、遅れる。
考えていなかった。
置き場所を探すことばかり考えていて、そこへ行けるかどうかを、私は一度も確かめていなかった。
——書式を、確かめていなかった。
十一年で、初めてだった。
膝の上の帳面を開いて、第七巻の頁を探した。
写しには、入れていなかった。
国境の書式を使う日が来るとは、思っていなかったからだ。
私は帳面を閉じた。
覚えている範囲では、たしか三段階。細部は思い出せない。思い出せないということは、間違えるということだ。
こんな状態で関所に立つのは、初めてだった。
*
夕方、次の宿に着いた。
ヤンが馬の脚を洗っているあいだ、私は帳場で宿代を払った。
残りを数える。
この宿を入れて、あと七泊ぶん。峠までが二日、峠を越えてから先は、わからない。わからない先の分を残しておくと、実際に使えるのは四泊か五泊だ。
払いながら、少し可笑しくなった。
書斎にいたころ、私が扱っていた数字はこれの何万倍もあった。桁を間違えると人が動かなくなる額を、毎日いくつも見ていた。
いま、私が真剣に数えているのは、七泊ぶんの宿代だ。
どちらも同じ数え方をしている。
——桁が違うだけだ。
父様なら、なんと仰るだろう。
たぶん、こう仰る。桁は関係ない。合っているか、合っていないかだ。
私は釣り銭を受け取って、帳面に書きつけた。癖だった。
書きつけてから、この帳面を誰も検めないことに気づいた。
十一年、私が書いたものは、必ず誰かが検めた。父様が。父様が倒れられてからは、府の誰かが。中身を読まなくても、印は押された。押されることで、あれは「確かめられたもの」になった。
いま書いたこの一行は、誰も検めない。
私が間違えても、誰も気づかない。
——それでも、書く。
書かないと、いくら残っているのかわからなくなる。
そういうことなのだと思った。書式というのは、たぶん、いちばん最初は誰かが自分のために作ったものだ。
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