第12話 旗が一本しかない
十日目の昼に、峠の関所へ着いた。
三つ目の関所で、ここだけは造りが違った。石の門があって、両側に詰所がある。旗が二本立っていて、片方が王家、片方が軍。国境は軍の管轄だ。
順番を待つあいだに、私は書式を思い出していた。
第七巻。国境通行の三段階。荷の申告、身元の照会、通行の許可。
一つ目と二つ目は、たぶん通る。問題は三つ目だった。
*
「荷は」
「木箱十一。中身は書類でございます」
「書類」
番人が顔を上げた。若くはない方だ。国境の関所に長くいらっしゃる方は、たいてい国内の関所より慎重になる。出たものは戻らないからだ。
「開けろ」
二箱開けられた。上のほうの紙を何枚か取って、日に透かして、また戻された。
「……これは、記録院のものではないのか」
やはり気づかれた。
記録院の紙には、綴じ穴の位置に決まりがある。三つ穴で、上から二番目だけが少し大きい。知っている人は、見ればわかる。
「記録院から引き揚げたものでございます」
「引き揚げた」
「証人が交代する際には、証人が原本を引き揚げます。そういう書式でございます」
番人は、私の顔をしばらく見ていた。
「証人というのは、あんたか」
「はい」
「では、これは国の記録か。個人の持ち物か」
いい問いだ、と思った。
この方は、この十日で会った誰よりも、正確に核心を突いていらっしゃる。
「証人に付いております」
「答えになっていない」
「承認は家ではなく人に与えられます。ですので、記録も人に付きます」
「その承認とやらは、いま誰が出している」
私は、答えられなかった。
答えは、三派すべての合意で出される。合意はいま成立しない。成立しない以上、私の承認は「更新されていない」状態にある。切れてはいない。けれど、確かめる方法もない。
書式には、そういう場合のことが書いていない。
四百年、そんな場合がなかったからだ。
「……確認いたします。少々お待ちを」
番人は詰所へ入っていった。
*
三日待たされた。
峠の下の宿場町で、木箱を降ろさずに待った。ヤンは「銭は日で貰ってるから構わんよ」と言ってくれたけれど、そういう問題ではない。
一日目は、宿の部屋で書式を思い出そうとした。
第七巻の国境の項。荷の申告のところまでは出てくる。身元の照会の様式も、たぶん合っている。三段目が思い出せない。写しを取っていなかった頁は、頭のなかでも薄い。
紙にしていないものは、こんなに脆いのかと思った。
二日目に、詰所から人が来た。
「王都へ照会を出した。返事に十日ほどかかる」
「十日」
「急ぎなら、荷を置いて身ひとつで越えることはできる」
「置いてまいります場所がございません」
「なら待つしかないな」
その方は、悪気なくそう仰った。
悪気がないのは、この十日でよくわかった。誰も悪くない。番人も、書記官も、府の方も、みなさま持ち場の書式どおりに動いていらっしゃる。書式どおりに動いた結果として、私はここで止まっている。
十日待てば、宿代が尽きる。
私は宿の部屋で、残りを数えた。数えるまでもなく足りない。峠を越えたあとの分を残しておくと、四日でなくなる。
四日。
王都で数えていた十四日と、ここで数えている四日と、商会の三十日。数字ばかり増えていく。増えるのに、どれも自分では動かせない。
十日は、待てない。
*
二日目の夜、荷馬車のところへ行った。
木箱に手を置くと、夜露で冷たかった。
この十一箱を、どうしても手放したくないわけではない。持っていても、私には読む以外のことができない。使うのは、私ではない誰かだ。
ただ、置く先を間違えると、四百年が終わる。
四百年ぶんの紙は、燃やされて終わるのではない。片方の派の蔵に入った瞬間に、証明ではなく主張になる。主張になった紙は、もう誰も信じない。
紙は、置かれた場所で意味が変わる。
それだけのことを説明するのに、私は誰に対しても十日かかっている。
*
三日目の朝。
宿の窓から、峠の向こうが見えた。
同じ山なのに、向こう側は少し違って見えた。木が低い。傾斜がゆるい。人家の屋根の色が、こちらより赤い。
街道は、向こうまで続いている。
向こう側の関所にも、旗が立っていた。
二本ではなく、一本だった。
目を細めて見た。遠くて紋はわからない。ただ、こちらの関所と違って、旗が一本しかないというのは、それだけで意味がある。決める者が、分かれていないということだ。
——決める者が、ひとりしかいない。
いいことなのか、悪いことなのか、私にはわからなかった。
わからないことが、また増えた。
*
その日の午後、詰所のあたりが騒がしくなった。
窓から見ていると、峠の道を、こちらへ向かって数騎が下りてきた。向こう側からだ。
早駆けではない。ゆっくりと、隊列を崩さずに来る。先頭が一騎、その後ろに四騎。旗は持っていない。
番人たちが門の前に出て、並んだ。
誰かが詰所から走って出てきて、上着を直しながら列に加わった。
——身分の高い方だ。
旗を持たない一行を、関所が総出で迎えることはない。持たないのに迎えるということは、旗が要らないほど顔が知られているということだ。
私は窓のところから動かなかった。
五騎は門の手前で止まった。先頭の方が馬を降りて、番人と何か話している。声は届かない。
外套を着ていらした。旅装だ。
距離があって、顔はわからない。
わからないのに、肩の線に見覚えがあるような気がした。
気のせいだと思った。この十日、見た顔の数が少なすぎるせいだ。
その方は、番人と少し話して、それから顔を上げられた。
峠の下の宿場町のほうを、見渡すようにご覧になった。
窓が並んでいる。どの窓にも人がいる。関所の騒ぎを見ようとして、みんな顔を出している。
私は、窓から一歩下がった。
下がってから、なぜ下がったのだろうと思った。
見られて困ることは、何もない。私はこの町に三日いて、宿代を払って、荷を積んだままの馬車を置いている。隠していることはひとつもない。
ただ、いま見つかりたくなかった。
理由が言えないことを、私はあまり得意ではない。
窓を閉めた。
閉めてから、卓の前に座って、しばらく手を組んでいた。
十日ぶりに、髪と衣服のことを考えた。
考えてしまったことに、少し腹が立った。
*
夕方、宿の主人が部屋まで上がってきた。
「お客様。関所からお使いが」
「わたくしにでございますか」
「はい。明朝、詰所までお越しいただきたいと」
「照会の返事が届いたのでしょうか」
「さあ、そこまでは。……ただ」
主人は少し言いよどんで、それから言った。
「向こう側から、お迎えが来ているそうで」
「お迎え」
「はい。お客様に、と」
「……どなたが、そう仰ったのでしょう」
「関所の使いの方が、そう」
「その方は、どなたからお聞きに」
主人は困った顔をした。
「そこまでは、伺っておりません」
当たり前だ。
私は礼を言って、扉を閉めた。
*
閉めてから、卓の前に座った。
私が国境にいることを、向こう側は知っている。
知っているだけなら、まだいい。八日目に商会に知られていたのだから、いまさら驚くことではない。私は目立つ荷を積んだ女で、街道の宿には帳面がある。追うのは難しくない。
問題は、迎えが来ていることだ。
迎えというのは、行き先が決まっている人に出すものだ。
私は行き先を決めていない。
決めていない人に迎えを出せるのは、行き先を用意した人だけだ。
用意するには、時間が要る。場所を選んで、人を動かして、こちらの関所に話を通す。三日でできることではない。
——では、いつから。
私は指を折った。
王都を出たのが五日目の朝。屋敷にいたのが三日。夜会が最初の日。
どこから数えても、半月に足りない。
その十日で、置き場所を用意して、峠まで使いを出す。私が地図を広げて条件を三つ数えていたのと、同じ時間のなかで。
同じ時間のなかで、同じことを考えた人がいる。
私は灯りを消した。
消してから、寝台に横になって、天井を見ていた。
喜んではいけない、と思った。
思ってから、なぜ自分がいま「喜んではいけない」と思ったのかがわからなくなった。
喜ぶような話は、まだ何も聞いていない。
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