第13話 ラウル・アーレンス
朝いちばんに、詰所へ行った。
通されたのは奥の部屋で、卓がひとつと椅子が三つ。窓が小さくて、暗い。
待っていたのは、番人ではなかった。
仕立てのいい上着を着た方が二人。ひとりは年配で、ひとりは若い。若いほうが立ったまま、年配のほうが座っていらした。
「オルデン嬢でいらっしゃいますか」
「はい」
「アーレンス辺境伯領より、書状をお持ちいたしました」
その方は、卓の上に封書を置かれた。
封蝋を見た。
見たことのない紋だった。塔がひとつと、その下に線が三本。線の意味はわからない。
*
封を切って、中を出した。
二枚あった。
一枚目に目を通して、私は一度、顔を上げた。
「……これは、いつ書かれたものでしょうか」
「四日前でございます」
「四日」
「はい」
四日前。
私が峠の関所で足止めされたのが三日前だ。書かれたのは、その前の日になる。
私が国境に着く前に、書かれている。
*
文面は、簡潔だった。
一。アーレンス辺境伯領は、貴殿が携行する記録の保管場所として、領都の旧宝物庫を提供する用意がある。
二。保管中、記録の所有および処分の権は、一切これを貴殿個人に留保する。領は鍵を持たず、目録も取らない。
三。貴殿の身分と生計については、別途取り決めを協議する。
四。以上について、貴殿に諾否の義務はない。断られた場合も、峠の通行については当領より便宜を図る。
私は、二枚目を見た。
二枚目は、旧宝物庫の見取り図だった。
寸法が書き込んである。奥行、間口、天井まで。それから、床が石であること、北向きであること、直近三十年の水害の記録がないこと。
——調べていらっしゃる。
木箱十一を置くのに必要な条件を、私が地図の前で数えたのと同じ順で、この方は数えていらっしゃる。乾いていること。火の気がないこと。そして、誰のものでもないこと。
二の条項が、それだ。
鍵を持たず、目録も取らない。それは、預かるが触らないという意味だ。触らなければ、あれは領のものにならない。
これを書いた方は、あの記録が何であるかをご存じない。
ご存じないのに、何をしてはいけないかだけを、正確に把握していらっしゃる。
*
私は、書状を膝に置いた。
落ち着け、と自分に言った。
嬉しいと思ってはいけない。嬉しいと思った瞬間に、条件を見なくなる。十一年、そうやって書面を読んできた。いい話ほど、四回読む。
四回読んだ。
不備がない。
不備がないので、次は動機を考えた。
なぜ、この方は私に場所を出されるのか。
考えられるのは、いくつかある。記録そのものが欲しい。私を隣国の手駒にしたい。あるいは、こちらの国が傾くのを見越して、傾いたあとの交渉材料を先に押さえたい。
三つ目が、いちばんありそうだった。
二の条項は、そのための飾りだ。所有は留保すると書いておいて、実際に置かせてしまえば、動かすには領の許可が要る。書面と実務は違う。私はそれをよく知っている。
——政治だ。
そう思って、少し楽になった。
政治なら、読める。読めるものは、こわくない。
「お受けいたします」
私は言った。
「ただし、二の条項について、一点だけ確認させてください。鍵を持たないというのは、宝物庫の鍵を領がひとつも持たない、という意味でしょうか」
「そのとおりでございます」
「合鍵も」
「作らせない、と申しつかっております」
「万一、火が出た場合は」
年配の方が、初めて表情を動かされた。
「……そこまでは、伺っておりません」
「では、書き足していただけますか。火災その他の急迫の場合に限り、領は扉を破ることができる。ただし破った旨を三日以内に書面で通知する。この二文で結構です」
若いほうの方が、こちらを見た。
私は続けた。
「鍵を持たないと書くだけですと、燃えます」
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、年配の方が笑われた。
「……承知いたしました。持ち帰ります」
「お手数をおかけします」
「いえ。閣下がそう仰るだろうと申しておりました」
「閣下」
「はい。書面には必ず何か足される方だから、そのつもりで行けと」
私は、書状の末尾をもう一度見た。
差出人の名が、そこにある。
アーレンス辺境伯
ラウル・アーレンス
*
名だけは、知っていた。
家名を伏せて名乗る方が使者の一団に加わるのは、位が低いか、手の内を見せたくないかのどちらかだと思った。
どちらでもなかった。
私は、封筒の縁を指で押さえていた。
あの晩、廊下でお会いしたときのことを思い出す。外套に街道の埃が残っていた。挨拶の列のいちばん後ろにいらした。順番に気づかれた。宿帳を長くご覧になっていた。
全部、繋がる。
繋がって、そして、繋がった先で何が起きているのかが、わからない。
辺境伯が、なぜ使者の一団の末尾にいらしたのか。なぜ王都の夜会にいらしたのか。そして、なぜ廊下で私に声をかけて、何も仰らずに戻っていかれたのか。
あのとき、この方は何もなさらなかった。
手を差し伸べもしなかったし、事情も聞かなかった。ただ「お引き止めしました」と言って、行ってしまわれた。
その方が、十日かけて、私が探していた条件を全部揃えて、私より先に国境に着いていらっしゃる。
——調べる時間は、あった。
私が屋敷で三日過ごしているあいだに。
*
「オルデン嬢。ご返事は」
「お受けいたします」
私はもう一度、そう申し上げた。
「一点の書き足しをお願いしたうえで、お受けいたします」
「かしこまりました。峠の通行につきましては、本日中に手配いたします」
「照会の返事は、十日かかると伺っておりますが」
「こちら側は、それを待ちません」
年配の方は、事もなげにそう仰った。
「旗が一本しかございませんので」
私は、その言い方を少しのあいだ考えていた。
嫌味ではない。事実の説明だ。決める者がひとりなら、照会先もひとつで、他の許可が要らない。だから早い。
早いことの代償は、決めた者が間違えたときに、止める者がいないことだ。
こちらの国は、遅い代わりに止められた。
止める者を、私が抜いた。
——それを、この方々はご存じだろうか。
わからない。訊けば答えていただけるかもしれないけれど、訊いた時点で、私が何をしたかを申し上げることになる。
訊かなかった。
*
「もうひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「三の条項に、身分と生計は別途協議とございます。協議とは、いつ、どなたと」
「領都にお着きになってから、閣下と直接」
「閣下と」
「はい」
年配の方は、少し口元を緩められた。
「ご心配には及びません。悪いようにはいたしません、と申し上げるところですが、そう申し上げると、あなた様は書面をご要求になるでしょう」
「……いたします」
「でしたら、着いてからになさってください。ここでは紙が足りません」
*
詰所を出ると、外は晴れていた。
峠の上のほうまで、日が当たっている。
ヤンが馬車の前で待っていて、私の顔を見て、それから何も聞かずに御者台に上がった。
私は木箱の並んだ荷馬車を見た。
十一箱。四百年と少し。
置き場所が、決まった。
決まってしまうと、あんなに難しかったことが、たった二枚の紙になる。
紙は、そういうものだ。
——わたくしは、何もしていない。
窓口へ行って、書式どおりに三枚出して、東へ来ただけだ。頼んでもいないし、名乗ってもいない。助けてくださいと言った覚えもない。
それなのに、迎えが来ている。
こんなことは、十一年で一度もなかった。
欲しいものは、頼まなければ来ない。頼んでも来ないことのほうが多い。だから、いつからか頼まなくなった。頼まないでいると、そもそも何が欲しいのかがわからなくなる。
わからなくなったことにも、気づかなくなる。
私は馬車に乗り込んで、扉を閉めた。
閉めてから、膝の上で手を組んだ。
喜んではいけない。
まだ、何ひとつわかっていない。
あの方が何を考えていらっしゃるのかも、私が何を差し出すことになるのかも、これから協議するのだという「身分と生計」が何を意味するのかも。
——それでも。
馬車が動きだした。
峠の道を、上っていく。
窓の外で、こちらの国の山が後ろへ流れていった。
振り返らないことにしていた。
今度は、そうしたいと思ったからではなかった。
前のほうに、見たいものがあったからだ。
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