第14話 六か月
峠を越えたのは、昼前だった。
境の石を過ぎたところで、道が下りになった。ヤンが「ここからは楽だ」と言って、実際、車輪の音が軽くなった。
振り返らなかった。
前を見ていると、木の背が少しずつ低くなっていくのがわかった。岩が多い。土の色が赤い。畑は少なくて、代わりに石を積んだ囲いが多かった。羊だろう。
二刻ほど下ったところで、最初の村を通った。
子どもが走ってきて、馬車について走って、途中で飽きて戻っていった。
誰も、荷を検めなかった。
*
道中、ヤンは機嫌がよかった。
「関所がなかったろう」
「ございませんでした」
「越えてからひとつもだ。三十年前もそうだったが、まだそうなんだな」
実際、境の石を越えてから、荷を検められたのは一度きりだった。村の入口に木戸があって、そこにいる年寄りが荷の数だけ数えて、それで終わり。
「楽でいいでしょう」
「楽だ。楽だが」
ヤンは少し考えてから、こう言った。
「揉めたときは、どうすんだろうな」
私も、それを考えていた。
*
領都までは七日かかった。
ハルムという名の町で、思っていたより大きかった。城壁はない。代わりに、川がぐるりと回っている。橋が四つ。橋のたもとに市が立っていて、朝から声が響いていた。
入るとき、ようやく荷を検められた。
番人がひとり、木箱をひとつ開けて、中を見て、閉めた。
「紙ですな」
「はい」
「承っております。どうぞ」
それだけだった。
*
城の前で、ヤンと別れた。
残りの銭を全部渡した。数えて、足りなかったので、外套の留め金をひとつ外して足した。銀だから、少しにはなる。
「いらねえよ、こんなもん」
「規定でございますので」
「規定なんてあるか」
ヤンは笑って、それから留め金を受け取った。受け取ってから、上着の内側にしまった。控えの紙が入っているのと、同じ場所だった。
「お客さん」
「はい」
「俺はこの道を、また走る。年に四度は来る」
「……はい」
「宿帳に名を書いておく。俺の名でいい。あんたが探しゃ、見つかる」
私は、うまく返事ができなかった。
ヤンは御者台に上がって、馬に声をかけて、それきり振り返らずに橋を渡っていった。
*
旧宝物庫は、城の北側にあった。
石造りの、四角い建物だ。窓がひとつもない。扉は鉄で、外から見るかぎり、錠前は新しい。
案内してくださったのは、峠に来られた年配の方だった。ベルナーと名乗られた。この領の家令だという。
「中をご覧になりますか」
「お願いいたします」
扉を開けると、乾いた空気が出てきた。
北向きで、床が石で、天井が高い。壁に沿って棚が組んである。木箱十一を入れても、半分も埋まらない。
私は棚の縁を指でなぞった。埃がない。
「先月、掃除をいたしました」
「……先月」
「はい」
先月。
私が夜会に出る前だ。
私は指を止めて、しばらく棚を見ていた。
「ベルナー様。この建物は、以前は何を」
「宝物庫でございました。名のとおりで。三十年ほど前に中身を売り払いまして、以来、空でございます」
「なぜ、先月お掃除を」
ベルナー様は、少しだけ間を置かれた。
「閣下が、そのうち使うと」
*
鍵は、その場で渡された。
二本ある。一本が扉の錠前で、もう一本が内側の格子。どちらも新しい。
「合鍵は」
「ございません」
「作れないように、ということでしょうか」
「錠前師には、そのように申しつけてございます。ご不安でしたら、明日その者をお呼びいたしますので、直接お確かめください」
鍵は、思っていたより重かった。
記録院の鍵は、院長が持っていた。私は持ったことがない。持つ必要がなかったからだ。あの棚は、誰のものでもないから、誰でも入れた。入って何をするかは、書式が決めていた。
いま、鍵は私の手にある。
誰のものでもないものを、私が抱えている。
私は鍵を握って、少し考えた。
この方々は、こちらが確かめたがることを先に用意していらっしゃる。用意されているというのは、便利で、そして、気味が悪い。
「お呼びいただけますか」
「かしこまりました」
ベルナー様は、少し嬉しそうな顔をされた。
嬉しそうにされる理由が、わからなかった。
*
協議は、その三日後だった。
城の一室に通されて、卓の向こうにラウル様がいらした。
あの晩と同じ人だった。外套は着ていらっしゃらない。ただそれだけの違いで、ずいぶん印象が変わる。
「お待たせしました。領を空けておりまして」
「いえ」
「宝物庫は、いかがでしたか」
「乾いております。北向きで、床が石で、水害の記録がないと伺いました。……不足はございません」
「錠前師には会われましたか」
「はい。合鍵は作っていないと」
「信じられましたか」
私は、正直に答えた。
「まだ、少し」
ラウル様が、口の端を上げられた。
「結構です」
*
書面が二通、卓に置かれた。
一通目が保管の取り決めで、二通目が「身分と生計」だった。
二通目を読んで、私は顔を上げた。
「……婚姻の契約でございますか」
「そうです」
「理由を伺っても」
「三つあります」
ラウル様は、指を折るようなことはなさらなかった。ただ、順に仰った。
「ひとつ。名のない外国人は、この領で財を持てません。あなたは十一箱の持ち主でいなければならない。持ち主でなくなった瞬間に、あれは領の物になります」
二の条項が、そこに繋がっていた。
「ふたつ。あなたの身柄に手が伸びたとき、それが領への手出しになるようにしておきたい。客人では足りません」
「みっつめは」
「あなたが働ける」
私は、意味を測りかねた。
「働く、と申しますと」
「客人には仕事を頼めません」
*
「みっつめが、よくわかりません」
「働ける、というのが」
「はい。わたくしは、この領のことを何も存じません」
「知らなくて結構です」
ラウル様は、卓の上で指を組まれた。
「この領には、決められる者が足りません。私が決めれば早い。早いので、そうしてきました。おかげで、私が見ていないところは誰も決めない」
旗が一本しかない。
峠で、使者の方がそう仰った。
「決める者を増やそうとして、三年やりました。うまくいっていません。任じた者が、決めるのを怖がる」
「……なぜ怖がるのでしょう」
「間違えたときに、庇うものがないからでしょうね」
私は、少し考えた。
「庇うものは、書面でございます」
「ほう」
「決めた者の名を書いて、掲げておく。間違えたときに、なぜそう決めたかが残っている。残っていれば、次に直せます。直せるとわかっていれば、決められます」
言ってから、余計なことを申し上げた、と思った。
ラウル様は、しばらく何も仰らなかった。
それから、二通目の書面を指で軽く叩かれた。
「みっつめの理由は、いまので済みました」
*
条項を読んだ。
期間は六か月。更新の条項が、三つ目にあった。
——本契約は、乙が三派の承認を受けた調停者であることを前提とする。六か月ごとに、当該承認が有効であることを確認する。確認できない場合、本契約は更新されず失効する。
私は、その行を二度読んだ。
三派の承認。
いまの王都で、三派すべての合意が成立するとは思えない。成立しない以上、六か月後に「有効である」ことは確認できない。確認できなければ、契約は自動で切れる。
つまり、この契約は六か月で終わる。
最初から、そう書いてある。
「……この条項は」
「気に入りませんか」
「いいえ」
私は書面を置いた。
「よくできております」
本当にそう思った。
私が三派の承認を失えば、私は保管を任せるに足る人間ではなくなる。その日が来れば手を引く、とこの方は書いていらっしゃる。当然の判断だ。書面としては、これ以上ないほど正しい。
正しくて、冷たい。
冷たいのは、こちらも同じだ。私も、この方を信用していない。信用していない者どうしが取り決めを結ぶときの書式が、これだ。
だから、これでいい。
「お受けいたします」
「よろしいのですか。もう少し、お考えになっても」
「四回読みました」
ラウル様は、少しだけ黙られた。
それから、羽根ペンを取って、こちらへ回された。
私は署名した。
六か月。
紙の上で、終わりの日が先に決まった。
こんなに落ち着く契約は、久しぶりだった。
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