第15話 置き場所
木箱を納めるのに、二日かかった。
運ぶだけなら半日で済む。けれど、順に並べないと意味がない。いちばん古い箱から順に、棚の下から上へ。年代が下がるほど紙が脆くなるので、下のほうが取り出しやすい。
人手を出しましょう、とベルナー様が仰ったけれど、断った。
断ってから、少し後悔した。
ひとりで運ぶには、木箱は重い。
*
三箱目を抱え上げたところで、後ろから声がした。
「持ちます」
ラウル様だった。
上着を脱いでいらして、袖を捲っていらっしゃる。城の者ではなく、ご本人だ。
「……閣下がなさることでは」
「重いでしょう」
「重うございますが」
「では」
そう仰って、四箱目を持ち上げられた。
止める理由が思いつかなかったので、止めなかった。
*
二人でやると、思っていたより早かった。
私が順番を指して、この方が運ぶ。それだけの分担で、午後には終わった。
途中、一度だけ聞かれた。
「中を読んでも」
「お読みになれます。誰でも」
「読んで、わかるものですか」
「わかりません」
私は棚の上のほうを指した。
「これは、二百年前の水利の裁定でございます。三家が揉めて、収まった。その一枚を読んでも、なぜ収まったのかはわかりません。前の三十年ぶんを読まないと」
「あなたは読んだ」
「はい」
「全部」
「……全部です」
ラウル様は、棚の端から端まで、目で追われた。
「何年かかりました」
「十一年でございます」
*
最後の一箱を納めて、扉を閉めた。
鍵をかけて、私はそれを袂に入れた。
振り返ると、ラウル様が壁に寄りかかって、両手の埃を払っていらした。
「オルデン嬢」
「はい」
「これで、あなたの仕事はひとつ終わりました」
「はい」
「明日から、何をなさいますか」
私は、答えられなかった。
*
その晩、与えられた部屋で、私は寝台の縁に座っていた。
部屋は、城の東棟にある。窓が大きくて、川が見える。寝台と、卓と、椅子がひとつ。書き物のできる高さの卓だ。誰かが気を利かせてくれたのだと思う。
卓の上には、何も載っていない。
当たり前だった。この城で、私に届く紙はない。
明日から、何をするか。
考えようとして、うまくいかなかった。夜会の晩、廊下でも同じことを考えた。あのときは三日で家を出ろと言われたので、考えなくて済んだ。峠では置き場所を探していたので、考えなくて済んだ。
置き場所が決まってしまった。
——広い。
あのときと同じ感じがした。足の裏が落ち着かない。立っているのに、どこにも寄りかかっていない。
私は卓の前に座って、紙を一枚出した。
書くことがなかったので、明日することを書こうとした。
一行も出てこなかった。
*
*
翌朝、宝物庫へ行った。
扉を開けて、湿りがないか壁に手を当てて、確かめた。ない。棚の並びを目で追って、番号どおりに入っていることを確かめた。入っている。
それで、終わりだった。
扉を閉めて、鍵をかけて、外に立った。
朝の日が、石の壁を照らしている。
十一年、私は毎朝、書斎の扉を開けていた。開けると、机の上に束があった。束があるということは、その日にやることが決まっているということだ。
この扉の向こうには、束がない。
あるのは、片付いたものだけだ。
片付いたものしかない部屋に、毎朝鍵を開けて入る。
——これは、仕事ではない。
わかっていた。わかっていて、それでも私は、翌日も同じ時刻に扉を開けた。
*
三日、そうやって過ごした。
朝、起きる。宝物庫へ行って、扉を開けて、湿りがないか確かめる。ない。閉めて、鍵をかける。
それで、午前が終わる。
午後は、町を歩いた。
ハルムは、王都より騒がしい。声が大きくて、道が広くて、荷車がよく通る。市では値切る声が絶えず聞こえていて、それが喧嘩に見えて、途中から挨拶のようなものだと気づいた。
橋のたもとに座って、通る人を見ていた。
数えていた。
癖だ。
一刻で通った荷車が四十二。橋は四つあるから、単純に掛けると百七十弱。市の立つ日でこの数なら、この町は思っていたより回っている。
数えたところで、私の管轄ではない。
*
六日目に、城の廊下で若い侍女とすれ違った。
その方は私を見て、あわてて壁際に寄って、頭を下げた。
私も頭を下げた。下げてから、これは違うな、と思った。この城で、私は下げられる側の身分ということになっている。契約の上ではそうだ。
けれど、下げられる理由がない。
王都では、下げられていた。オルデン公爵家の娘で、王太子の婚約者だったからだ。理由があった。理由があるうちは、下げられることに何も感じない。
いま、理由がない。
部屋に戻って、鏡を見た。この部屋には鏡がある。城のものだ。
映っているのは、十日前と同じ顔だった。
同じ顔で、身分だけが二度変わった。一度目は捨てられて、二度目は書面で与えられた。
顔は、どちらのときも同じだった。
*
四日目に、ベルナー様が部屋に来られた。
「オルデン様。ご不自由はございませんか」
「ございません」
「何かご入用のものは」
「……ございません」
ベルナー様は、少し困った顔をされた。
この方は、私に何か言わせようとしていらっしゃる。それはわかった。わかったけれど、言うことがない。
「ベルナー様」
「はい」
「わたくしは、何をすればよろしいのでしょうか」
ベルナー様が、目を上げられた。
言ってから、自分で驚いた。
こんなことを人に訊いたのは、初めてだった。十一年、訊かれる側にいた。何をすればいいかは、届いた紙に書いてある。書いていないことは、しなくていい。
紙が来ない。
言ったあとで、なぜ訊けたのだろうと考えた。
叔父様には訊けなかった。訊けば、私が何をしていたかを申し上げることになるからだ。宰相府の書記官にも訊かなかった。訊かれるのを待って、待ちきれずに黙って帰った。
この方には、訊けた。
訊いても失うものがないからだと思う。私はこの領で、まだ何も持っていない。持っていないものは、失えない。
ベルナー様は、私の顔をしばらく見ていらした。
「閣下は、こう仰っておいでです」
「はい」
「しばらく、何もなさらなくてよい、と」
*
その晩、私は卓の前で、書式の帳面の写しをめくっていた。
読むためではない。手を動かしていたかった。
十七のあたりで、インクの滲んだ頁が出てきた。馬車のなかで泣いたときの跡だ。指で押さえて乾かしたので、字はまだ読める。
読める。
読めるけれど、これはもう、誰にも要らない紙だ。
この書式で動いていた国は、いま、私のいない場所で動いている。動いているのか、止まっているのか、それも私には届かない。
届かないほうがいい。
——十四日は、とうに過ぎた。
峠で足止めされているあいだに過ぎて、越えるころには終わっていた。誰かが窓口へ行ったのかどうか、私は一生知らないだろう。
帳面を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
開いたところに、白紙の頁があった。
書式は、いちばん最初は誰かが自分のために作ったものだ。
馬車のなかで、そう思ったことを覚えている。
私はペンを取って、いちばん上に一行だけ書いた。
——ハルムの橋、一刻に荷車四十二。
書いてから、しばらくそれを見ていた。
誰の役にも立たない。誰にも提出しない。検める人もいない。
それでも、書いてある。
私は次の行に、市の立つ日と、立たない日の別を書いた。
三行目に、橋ごとの数を書いた。北がいちばん多い。石切場が川上にあるからだと思う。
四行目を書こうとして、手が止まった。
四行目に書くべきことが、わからない。
わからないので、明日また橋へ行って、数えることにした。
——明日、することができた。
そう思ってから、ずいぶん安いものだな、と思った。
安いけれど、あるとないとでは違う。
私は帳面を閉じて、灯りを消した。
その晩は、思っていたより早く眠れた。
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