第16話 呼ばれてもいないのに
橋のたもとで揉め事が起きたのは、十日目の朝だった。
私はいつもの場所に座って、荷車を数えていた。
声が上がったのは、北の橋のほうだ。荷を積んだ車が二台、橋の真ん中で向かい合って止まっている。どちらも下がらない。後ろがつかえて、列が伸びていく。
人が集まってきた。
*
言い分は、聞いていればわかった。
片方は、川上の石切場から石を運ぶ荷。もう片方は、市へ向かう羊毛の荷。
石のほうが「先に橋に乗った」と言い、羊毛のほうが「市の刻限がある」と言っている。どちらも本当らしかった。
橋の幅は、荷車二台がすれ違うには足りない。
やがて、領の役人が来た。若い方だ。両方の言い分を聞いて、困った顔をされた。
「では、後から乗ったほうが下がりなさい」
「先に乗ったのはこっちだ」
「いや、こっちが先だ」
どちらが先かを見ていた者は、いない。
役人が、もう一度困った顔をされた。
*
役人の方が、荷主のどちらかを説得しようとされている。
説得は、たぶん通らない。この形の揉め事は、どちらかを譲らせても収まらない。今日収めても、明日また同じ二台が橋の上で向かい合う。橋の幅が変わらないからだ。
収めるには、幅ではなく刻を割る。
第五巻に、似た裁定が三つある。二百年前の渡し場、百四十年前の井堰、それから六十年前の市の門。三つとも、同じ形で収まっている。
三つとも、というのが大事だった。二つなら偶然かもしれない。三つあれば、それは型だ。
列が、また伸びた。
*
私は、立ち上がっていた。
立ち上がってから、なぜ立ち上がったのだろうと思った。
管轄ではない。私はこの領の者ではないし、この橋のことを何も知らない。
けれど、この形の揉め事は、知っている。
三十年ぶんくらい、読んだ。
*
「失礼いたします」
役人が振り向かれた。
「どちらさまで」
「城に置いていただいております、リディアと申します」
役人の顔が、少し変わった。話は通っているらしい。
「……何か」
「差し出がましいのですが、二点、伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「この橋は、石を運ぶのに毎日お使いになりますか」
石のほうの荷主が答えた。
「毎日だ。朝から晩まで、六往復」
「市は、週に何日でございますか」
羊毛のほうが答えた。
「三日だ。今日と、明後日と、その次」
私は、役人に向き直った。
「では、こうなさいませんか。市の立つ三日だけ、朝のひと刻を羊毛に空ける。残りの日と、ひと刻を過ぎたあとは、石が優先。取り決めを橋のたもとに書いて掲げる」
役人が、口を開けたまま止まられた。
「……それは、どちらが先に乗ったかを決めないということですか」
「決めません。決めても、また同じことが起きます」
「しかし、今日はどちらが」
「今日は、羊毛の方に通っていただきます。市の刻限がございますので。石の方には、その半刻ぶんを明日の朝いちばんにお返しになれば、六往復は変わりません」
石のほうの荷主が、指を折りはじめた。
折って、二度数えて、それから言った。
「……変わらんな」
「変わりません」
*
役人が、あわてて紙を出された。
「い、いま仰ったことを、もう一度」
「三点でございます。市の立つ日の朝ひと刻は羊毛。それ以外は石。今日の半刻は明朝に繰り越す」
「はい」
「書いたものは、二枚お作りください。一枚を橋に掲げて、一枚をお手元に。掲げるほうには日付を入れて、お名前を入れてください」
「私の名を、でございますか」
「決めた方の名が入っていないと、次に揉めたときに誰に持っていけばよいかわかりません」
役人は、しばらく紙を見ていらした。
それから、自分の名を書かれた。
*
列が動きはじめたのは、それから間もなくだった。
羊毛の荷車が先に渡って、石の荷車が下がった。下がりながら、荷主が私のほうを見て、帽子を取った。
私は、頭を下げ返した。
人が散っていく。
橋のたもとに、若い役人だけが残っていた。紙を手に持ったまま、なにか言いたそうにしていらっしゃる。
「あの」
「はい」
「どうして、わかったのですか」
「わかっておりません」
「え」
「この橋のことは、何も存じません。ただ、同じような揉め事を読んだことがあるだけでございます」
「読んだ」
「はい」
役人は、まだ納得のいかない顔をされていた。
「……あの、失礼ですが。前は、どういうお立場で」
私は、少し考えた。
考えてから、こう答えた。
「書きものを」
*
「もうひとつ、伺っても」
役人の方が、紙を持ったまま言われた。
「先ほど、書いたものは二枚作れと仰いました。あれは、なぜ二枚なのですか」
「一枚は掲げるためでございます」
「もう一枚は」
「なくすためでございます」
役人が、目を丸くされた。
「掲げた紙は、雨に濡れます。破られることもございます。誰かが持ち去ることもございます。三月もすれば、たいていなくなります」
「……そうですね」
「なくなったときに、手元の一枚を写して、また掲げてください。写すときに日付を新しくして、お名前をもう一度お書きになってください」
「同じことを、何度も」
「はい。何度も」
私は、掲示のほうを見た。
「四百年続いている取り決めがございます。四百年前の紙は、もう残っておりません。写した紙の、写しの、そのまた写しが残っております」
役人は、手元の紙を見下ろされた。
それから、丁寧に畳んで、懐に入れられた。
*
城へ戻る道で、私は歩くのが少し速くなっていることに気づいた。
速くする理由はない。誰も待っていないし、報告する先もない。
橋のところで、後ろから声をかけられた。
「オルデン嬢」
ラウル様だった。
市の側から歩いてこられたところらしい。供はひとりだけで、この方はいつも供が少ない。
「……ご覧になっていたのですか」
「途中から」
「お声をかけてくださればよろしかったのに」
「邪魔になります」
そう仰って、橋のたもとの掲示を見上げられた。
まだ墨が乾いていない紙が、留められている。
「これは、あなたが」
「あの方がお書きになりました」
「文面は」
「……申し上げました」
「名も、書かせましたか」
「はい」
ラウル様は、掲示をしばらく見ていらした。
それから、こう仰った。
「あれは、三年前に私が任じた男です。よく働くが、決めるのを怖がる」
「……お叱りになりますか」
「なぜ」
「わたくしが、余計なことを」
「余計なこと」
ラウル様が、こちらを向かれた。
「橋が動きました」
*
その日の夕方、部屋に戻ると、卓の上に紙が置いてあった。
三枚。
北の橋の取り決めの写しと、それから、他の橋についての照会が二枚。同じ形の揉め事が、南でも起きているという。
誰が持ってきたのかは、書いていない。
私は椅子に座って、いちばん上の一枚を取った。
封は切られていた。私宛ではないからだ。写しだから、宛先がない。宛先のない紙が、私の卓に載っている。
——読んでもいいのだろうか。
少し迷って、それから、読んだ。
読んで、二枚目を取った。
二枚目を読み終わったところで、手が止まった。
膝の上に、紙がある。
卓の上に、まだ一枚残っている。
窓の外は暗くなりかけていて、灯りをつけないと読めない。
私は立ち上がって、灯りをつけた。
つけながら、目のあたりが少し熱いことに気づいた。
なぜ熱いのかが、わからなかった。
*
三枚目を読んだ。
三枚目は、照会ではなかった。北の橋の役人が書いた覚書の写しで、末尾に一行あった。
——本日の裁定について、城の客人より助言を得た。
名前は書いていない。
書けなかったのだと思う。私はこの領の者ではないから、書きようがない。
それでも、助言を得た、とは書いてある。
私は、その一行を指でなぞった。
十一年、私の名が入った書面は一枚もない。入れないことになっていた。入れないことが正しくて、私はそれを守った。
ここでも、名は入っていない。
入っていないのに、なにかが違う。
どこが違うのかを言葉にしようとして、できなかった。できないので、私は三枚を揃えて、卓の端に重ねた。
届いた順に。日付の古いものを上に。
十一年、そうしてきたとおりに。
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