第17話 いつでも出て行っていい
二枚目の照会に返事を書いたのは、その晩のうちだった。
書きながら、これは提出先がないな、と思っていた。私は領の役人ではない。宛名を書く欄に、書くものがない。
結局、宛名の欄を空けたまま、卓に置いて寝た。
朝には、なくなっていた。
*
三日後、南の橋にも掲示が出た。
文面は、私が書いたものとほとんど同じだった。ほとんど、というのは、一行だけ足されていたからだ。
——不服のある者は、下の名の者に申し出よ。
いい足し方だと思った。私は書かなかった。書けばよかったと思った。
掲示の前に、しばらく立っていた。
通る人が、ときどき足を止めて読んでいく。読んで、頷いて、行く。中身に納得したというより、書いてあること自体に納得している顔だった。
書いてあると、人は落ち着く。
四百年、そういうものを積んできた。
*
その日の午後、城に呼ばれた。
通されたのは、前と同じ部屋だった。卓の上に、契約書が広げてある。
私が署名した、あの二通目だ。
「オルデン嬢。一条、書き加えたいのですが」
「……何かご不都合が」
「不都合ではありません」
ラウル様は、羽根ペンを取られた。
「読み上げます。第七条。本契約の失効を待たず、乙はいつでも、いかなる理由によっても、本契約を解除できる。この場合、乙は違約金、返還義務、引き継ぎの義務を一切負わない」
私は、その文言を頭のなかで二度なぞった。
なぞって、意味がわからなかった。
*
「……お待ちください」
「はい」
「これは、わたくしが一方的に出て行けるということでしょうか」
「そうです」
「いつでも」
「いつでも」
「引き継ぎもせずに」
「せずに」
私は、卓に手をついた。
ついてから、はしたないと思って、手を引いた。
「なぜでございますか」
「必要だと思ったので」
「必要ではございません」
声が、少し大きくなった。
大きくなったことに、自分で驚いた。
「この条項を入れますと、閣下は何も得られません。わたくしが明日出て行っても、閣下には止める手立てがない。十一箱は持ち主のものですから、持ち主が出れば箱も出ます。宝物庫は空になります。掃除をなさった意味も、錠前をお作りになった意味も、なくなります」
「そうですね」
「そうですね、では」
「他に何かありますか」
私は、言葉に詰まった。
詰まってから、必死で考えた。
考えるべきことは決まっている。この方は何を得るのか。得るものがない条項を入れる人はいない。入れるなら、私に見えていない対価がある。
三つ、思いついた。
ひとつ。私を油断させたい。いつでも出られると思わせておいて、出られない状況を後から作る。
ふたつ。書面を見せる相手がいる。三派のどこかに、この条項を示すことで得られるものがある。
みっつ。私がすぐには出ないと踏んでいる。踏んだうえで、寛大に見えることを選んでいる。
三つとも、ありそうだった。
ありそうなのに、どれも、しっくりこなかった。
*
「オルデン嬢」
「……はい」
「いま、私が何を狙っているかを考えていらっしゃる」
顔を上げた。
「考えても、たぶん出ません」
「なぜでございますか」
「狙っていないので」
ラウル様は、羽根ペンを卓に置かれた。
「峠の宿場で、あなたは書面に一条足された。火が出たときに扉を破れるように」
「……はい」
「あれを聞いたとき、なるほどと思いました。鍵を持たないと書くだけでは燃える。書面というのは、いちばん困る場合を先に書いておくものだと」
「はい」
「では、あなたがいちばん困る場合は、何ですか」
私は、答えられなかった。
「箱が燃えることではないでしょう。箱は石の建物にあって、鍵はあなたが持っている」
ラウル様は、契約書の三条を指された。
六か月ごとに、三派の承認を確認する。確認できなければ失効する、という条項。
「あなたがいちばん困るのは、六か月後に、行き場のないまま放り出されることです」
私は、その指の先を見ていた。
「……ですから、留まれるようにしてくださる、と」
「いいえ」
その方は、首を振られた。
「留まれるようにすると、あなたは留まるしかなくなります。私はそれを、あなたに与えたくない」
*
しばらく、何も言えなかった。
窓の外で、鳥が鳴いていた。それが遠ざかっていく音を、最後まで聞いていた。
「……失礼ながら」
「はい」
「意味が、よくわかりません」
「わからなくて結構です」
「わからないものには、署名できません」
言ってから、これは正しいことを言ったな、と思った。
十一年、そうやってきた。わからない条項には署名しない。それだけは、崩したことがない。
ラウル様は、少しのあいだ黙っていらした。
それから、こう仰った。
「では、こう申し上げます。この条項は、あなたのために入れるのではありません」
「では、どなたのために」
「私のためです」
*
「あなたがここにいる理由が、行き場がないからでは、困るのです」
その方は、契約書のほうを見ていらした。私のほうは、見ていらっしゃらなかった。
「六か月後、あなたが出て行かれるなら、それで構いません。ただ、そのとき、出て行けなかったから残ったのだとは思われたくない」
「……なぜ」
「なぜでしょうね」
そう仰って、羽根ペンを取り上げられた。
「私にもよくわかりません。ですから、書面にしておくことにしました」
*
私は、卓の上の紙を見ていた。
第七条。いつでも、いかなる理由によっても、解除できる。違約金なし。返還義務なし。引き継ぎの義務なし。
引き継ぎの義務なし。
その五文字のところで、目が止まった。
三日いただければ、書き出せます、と申し上げたことがある。書類の書き方か、と笑われた。
あのとき私は、引き継ぐ義務があると思っていた。義務があると思っていたから、断られたことが、あんなに応えた。
この条項は、その義務がないと書いている。
誰にも渡さずに、黙って出て行っていい。そう書いてある。
——そんな書き方があるのか。
十一年、私が読んできた書面は、全部その逆だった。誰が何を引き継ぐか。滞りなく渡すこと。渡すまでは離れないこと。四百年、そうやって繋いできた。
繋ぐために、誰かが必ず、そこに縛られていた。
*
私は、その条項を四回読んだ。
不備はなかった。
不備がないのに、四回読んでも、まだ意味の輪郭が掴めなかった。掴めないものに署名するのは、十一年で初めてだ。
——保留にする、という選択もある。
持ち帰って、三日考えて、それから答える。いつもそうしてきた。急がされて署名した書面は、たいてい後で問題を起こす。
私は羽根ペンを受け取った。
受け取ってから、自分がそうしたことに気づいた。
署名した。
インクを乾かすあいだ、二人とも黙っていた。
*
部屋を出るとき、ひとつだけ伺った。
「閣下」
「はい」
「この条項を、三派のどなたかにお示しになるご予定は」
「ありません」
「では、どなたにも見せないと」
「見せません」
その方は、契約書を折って、引き出しに入れられた。
鍵をかけられた。
「見せる相手がいる書面なら、こんな書き方はしません」
*
廊下を歩きながら、私は考えていた。
三つ挙げた狙いのうち、ふたつが消えた。
残っているのは、三つ目だ。私がすぐには出ないと踏んだうえで、寛大に見えることを選んでいる。
それなら、筋が通る。
通るはずだった。
通るはずなのに、階段を降りきったところで、私は足を止めていた。
止めて、袂のなかの鍵を握った。
二本ある。扉の錠前と、内側の格子。
どちらも、私が持っている。
いつでも、出て行ける。
——出て行かない理由が、いまはない。
そう思ってから、私は自分の胸のあたりに手を当てた。
当ててから、何を確かめようとしたのかが、わからなかった。
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