第18話 名を書かない
卓に紙が載るようになったのは、離脱権の一条から数日後だった。
最初は三枚。翌日が五枚。その次が八枚。
誰が持ってくるのかは、しばらくわからなかった。朝、宝物庫から戻ると載っている。夕方に返事を書いて置いておくと、朝にはなくなっている。
六日目に、廊下で若い侍女とすれ違ったとき、その方が抱えていた束を見て、ようやくわかった。
「あの」
「は、はい」
「それは、わたくしの部屋へ」
「……はい。ベルナー様から、朝のうちにお持ちするようにと」
その方は、束を胸に抱え直された。
「差し出がましいのですが、いつも夕方にお返事が置いてありますので、みな、たいそう喜んでおります」
みな。
私は、その言葉を少し考えた。
*
十日ほどで、卓が足りなくなった。
ベルナー様が、東棟の一室を空けてくださった。北向きで、窓が二つ。机がひとつと、棚が壁に沿って一列。
棚には、何も入っていない。
「足りませんでしたら、増やします」
「……十分でございます」
嘘だった。
棚を見た瞬間に、どう埋めるかを考えていた。左から日付順。上から三段目を、返事待ちに。いちばん下は、片付いたもの。
考えてから、これは私の家ではない、と思い直した。
思い直したのに、その日の午後には、日付順に並べはじめていた。
*
最初の三日で、この領のことが少しわかった。
照会に出てくる地名を書き出すと、二十七あった。そのうち十九が川沿いだ。川がぐるりと回っていて、その内と外で暮らし方が違う。内は市と職人、外は羊と石。
揉め事は、内と外のあいだで起きる。
王都では、揉め事は上と上のあいだで起きた。家と家、派と派。下で起きたものは上まで来ない。来る前に、どこかで消えていた。
消えていたのではなく、消されていたのだと思う。
ここでは、消す者がいない。だから小さいものが全部、この卓に載る。
載るぶんだけ、私はこの領の形を知っていく。
*
仕事は、たいてい同じ形をしていた。
どちらが正しいかを決めてくれ、という照会だ。橋の件と同じで、たいていは正しさの問題ではない。順番か、刻か、幅かが足りていないだけだ。
私は返事に、三つのことを書くようにした。
ひとつ。何を割るか。ふたつ。いつまでか。みっつ。不服があるときは誰に言うか。
三つ目がいちばん大事だった。三つ目がない裁定は、必ずもう一度戻ってくる。
*
三日目に、返事の書き方を変えた。
最初は、王都でやっていたとおりに書いていた。相手が誰であっても同じ体裁で、余計なことは書かない。それが正しい書き方だと教わった。
三日目に、返ってきた紙に、書き込みがあった。
「これは、いつからですか」と、下の余白に鉛筆で。
書いていなかった。いつからかを書いていなかった。王都では、いつからかは別の紙に書いてあった。別の紙も同じ日に出るので、書く必要がなかった。
ここには、別の紙がない。
私は、その日から、いつからかを本文に入れることにした。
次の日、また書き込みがあった。「これは、誰が見に行きますか」
見に行く者のことも、王都では別の紙だった。
三日で、私の返事は倍の長さになった。
長くなったぶん、書き込みは減った。
*
半月ほど経ったころ、ベルナー様が困った顔で来られた。
「オルデン様。少々、面倒が」
「はい」
「南の水利の件で、掲示に名を書けと役人が申しております」
「書いてございますでしょう。あの方のお名前が」
「そちらではなく」
ベルナー様は、言いにくそうにされた。
「あなた様のお名前を、と」
*
断った。
理由は申し上げなかった。申し上げると長くなる。
ベルナー様は「かしこまりました」と仰って、その日は引き下がられた。
三日後、ラウル様に呼ばれた。
*
「名を出さないと聞きました」
「はい」
「理由を伺っても」
私は、少し考えた。
考えて、いつもなら申し上げないことを、半分だけ申し上げることにした。
「支えている者が知れると、その者が狙われます。狙われた瞬間に、支えは支えでなくなります」
「なるほど」
「ですので、書きません」
「それは、王都の話ですね」
私は、顔を上げた。
「ここは王都ではありません。三つに割れてもいない。あなたを狙って得をする者が、この領にいますか」
いる、と思った。
思ったけれど、根拠がない。根拠のないことは申し上げない。
「……存じません」
「私も存じません。ですので、これは推測です」
ラウル様は、卓の上で指を組まれた。
「名を書かないと、あなたの裁定は私の裁定になります」
*
言われて、初めて気がついた。
書いていないなら、決めたのは領主だと読まれる。私が三つに割ったことも、刻を決めたことも、全部この方が決めたことになる。
都合がいい、と思った。
それから、都合がよすぎる、と思った。
「……閣下にとっては、そのほうが」
「私にとってはそうです」
その方は、あっさり認められた。
「領主が全部決めているように見える。三年、そう見せてきました。おかげで、私が見ていないところは誰も決めない」
「はい」
「同じことを繰り返すつもりはありません」
*
私は、机の上の紙を見ていた。
照会が八枚。今日のぶんだ。全部、私の字で返事が書いてある。名前だけがない。
名前を書けば、次に揉めたときに、その者は私のところへ来る。
来られたら、私が答えなければならない。答えられなければ、私が間違えたことになる。間違えたことが残る。
残る。
——庇うものは、書面でございます。
自分でそう申し上げた。十四日ほど前に、この部屋で。
庇うものがあるから、決められる。決めた者の名が入っているから、直せる。名が入っていなければ、直しようがない。
私は、そこまで考えて、口を開いた。
「閣下」
「はい」
「いま、名を書くのは早いと存じます」
「理由は」
「わたくしの立場が、六か月で切れるからでございます」
声が、思ったより固くなった。
「名の入った裁定を残して、その者がいなくなりますと、次に揉めたときに行き先がなくなります。それは、名を書かないよりも悪うございます」
ラウル様は、しばらく黙っていらした。
「……なるほど」
「ですので、いまは書きません」
「では、いつなら書けますか」
答えられなかった。
*
部屋に戻って、私は棚の三段目を見ていた。
返事待ちの段だ。今日のぶんが四枚、そこに立ててある。
いつなら書けるか。
六か月が過ぎて、契約が切れて、それでもここにいるなら書ける。けれど、契約が切れたら私はここにいない。いる理由がない。
理由がなくても、いてよい、と書いた紙が一枚ある。
あれは、いてよいと書いたのではない。いつでも出ていってよいと書いてある。
同じことのようで、違う。
どう違うのかを、私はまだ言葉にできない。
*
夕方、返事を書き終えて、卓の端に重ねた。
届いた順に。日付の古いものを上に。
置いてから、いちばん上の一枚を取り直して、末尾のところを見た。
白い。
私は羽根ペンを取って、そこに何か書こうとした。
書こうとして、やめた。
やめて、ペンを置いた。
置いてから、しばらく、その白いところを見ていた。
*
次の朝、いちばん上の一枚が消えていた。
いつもどおりだ。夜のうちに誰かが持っていく。
二枚目からは、そのまま残っていた。持っていくのは一日ぶんだから、残るはずがない。
私は棚を見た。
昨日の返事は、八枚だった。持っていかれたのは八枚。数は合っている。
合っているのに、いちばん上の一枚だけ、私は特別に扱った。白いところを見て、書こうとして、やめた。
あの一枚は、いま、どこかの掲示になる。
名前のないまま、誰かの名前で掲げられる。
それでいい。それでいいはずだった。十一年、ずっとそうしてきた。
私は棚の三段目から、今日のぶんを取った。
今日は九枚だった。
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