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第19話 空振り

 領には、月に二度、商況の束が入る。


 どこで何が上がって、何が下がったか。どの街道が使えて、どこが止まっているか。商人が持ってくるものを役所が写して、綴じる。半分は噂で、半分は数字だ。


 私がそれを見るようになったのは、南の市の照会を扱うようになってからだった。市の裁定をするには、相場を知らないと決められない。


 だから、これは仕事だ。


 仕事なので、読む。


  *


 三束目の、後ろのほうにあった。


 王都の項は、いつも短い。今回は五行あった。


 ——ヴァレン商会、麻および穀物の買い集めを継続。相場は先月比で二割上げ。

 ——同商会、王都南部の倉三棟を新たに借り上げ。

 ——府、公定の相場を据え置き。

 ——市中、動きなし。

 ——街道の荷、平常。


 私は、三行目と四行目を二度読んだ。


 据え置き。動きなし。


  *


 商会は、買い占めに動いている。二割上げは、そういう動きだ。倉を三棟借りたのは、抱え込むためだ。


 抱え込むのは、後で高く売るためではない。後で売らないためだ。


 止めておいて、相手が困ったところで条件を出す。相手は、この場合、軍だ。軍は兵糧を買う。買えなければ動けない。


 ここまでは、私が峠で読んだとおりだった。


 問題は、そのあとの二行だ。


 府が公定の相場を据え置いた。市中に動きがない。


 ——効いていない。


 私は、指を止めた。


  *


 買い占めが効くのは、みんなが「足りなくなる」と思ったときだ。思えば先に買う。先に買うから本当に足りなくなる。値が跳ねる。


 跳ねなかった。


 なぜかというと、たぶん、誰も信じていないからだ。


 王都の相場は、四十年前からずっと、府が公定の数字を出している。その数字が動かないかぎり、商人は動かない。動かないのは、公定の数字が守られてきたからだ。


 守られてきた、というのは、守られているかどうかを誰かが確かめてきた、ということだ。


 その仕組みが、いまも生きている。


 生きているというより、まだ止まっていない。


 止まった歯車は、しばらく惰性で回る。


  *


 こういうことは、書斎にいたころ、月に何度もあった。


 誰かが仕掛けて、効かない。効かない理由は、たいてい、仕掛けた者が思っているより世の中が鈍いからだ。世の中が鈍いのは、書式が鈍いからで、書式が鈍いのは、そのほうが安全だからだ。


 鈍さは、四百年かけて作られている。


 賢い一人が動いても、すぐには曲がらない。


 曲がらないうちに、次の手が来る。


 私は、束を閉じた。


 閉じてから、開き直した。


 商会は、これから困る。倉を三棟借りて、二割高く買い集めて、それが売れない。売れないだけならまだいい。抱えた麻と穀物は、次の刈り入れで値が落ちる。


 空振りだ。


 あの明細を書いた方が、これを読み違えたとは思えない。読み違えたのではなく、条件が変わったのだと思う。もっと早く効くはずだったのが、効かなかった。


 なぜ効かなかったか。


 ——早すぎたからだ。


 私が窓口に立った翌日に書面を作れる方は、速い。速いから、いちばん最初に動いた。動いた者だけが、まだ誰も困っていないところで動くことになる。


 三月待てば、たぶん効いた。


 三月待たなかったのは、他の誰かに先を越されると思ったからだ。


  *


 私は、束をもう一度めくり直した。


 軍の項を探した。


 あった。二行だけだ。


 ——東部街道、軍の通行増。理由の告示なし。

 ——南部駐屯、変更なし。


 告示がない。


 軍が街道を大人数で使うときは、告示を出す。荷が止まると困る者が出るからだ。告示は府から出て、関所に回って、掲示される。


 出ていない。


 出さなかったのか、出せなかったのか。出せなかったのだとすれば、それは、告示の様式を知っている者が府にいないということだ。


 様式は、第三巻にある。


 私は、その二行を三度読んで、それから束を進めた。


  *


 束の、もう少し後ろに、短い項があった。


 ——オルデン公爵領、東部二領。ヴァレン商会へ移る。


 一行だけだった。


 私は、その一行を長いこと見ていた。


 一行だ。


 四つの村と、井堰と、三年に一度の葺き替えと、去年の秋に私が三度書き直した割り当てが、一行になっている。


 商況の束というのは、そういうものだ。動いたものだけを書く。動かなかったものは書かない。動いたものが、なぜ動いたかも書かない。


 書斎で読んでいたころは、それで足りた。足りたのは、動いた理由をこちらが知っていたからだ。


 いまは、知らない。


 知らないまま、一行だけを読む。


 ——これが、外から見るということか。


  *


 移った。


 三十日で払えなかった。抵当が実行されて、東の二領が商会のものになった。


 書式は、送った。四行の指示と、別紙を一枚。三十日のうち六日を旅の便に使って、まだ二十四日あった。


 使われなかったのか、使って通らなかったのか。


 一行には、そこまで書いていない。


  *


 東の二領には、四つの村がある。


 名前は覚えている。去年、井堰の修繕の割り当てを書いたときに、全部書いた。上流から順に、二つが石屋根で、下の二つが藁だ。藁のほうは、三年に一度は葺き替えの費用が要る。その費用の出どころも、書いた。


 商会の持ち物になると、その割り当ては切れる。


 切れたところで、すぐには何も起きない。屋根は今年もつ。来年ももつ。三年目に、葺き替えの銭がどこからも出ないことに、誰かが気づく。


 三年後だ。


 三年後のことを、私は考えても仕方がない。


  *


 束を閉じて、卓の端に置いた。


 置いてから、しばらく座っていた。


 窓の外で、川の音がしている。ハルムの川は、王都のより浅くて、速い。


 ——わたくしが切ったからだ。


 そう思って、すぐに、それは正確ではないと思い直した。


 私が保証を外した。外したので商会が動いた。動いたので二領が移った。因果としては、まっすぐに繋がっている。


 ただ、外さなければどうなったかというと、外さなくても、いずれ同じことが起きた。父様が寝ついてからの三年で、家の入りと出はもう合っていなかった。合っていないものは、いつか合わなくなる。


 私が外したのは、その日を早めただけだ。


 早めた。


 ——三年ぶんくらいは、早めた。


 三年ぶん早めたおかげで、藁屋根の葺き替えは、三年後ではなく、来年に困ることになる。


 私は、そこで考えるのをやめた。


 やめて、立ち上がって、棚の三段目から返事待ちの紙を取った。


 取ってから、手が止まった。


 止まって、机に戻って、商況の束をもう一度開いた。


 二領のことが書いてある一行を、指で押さえた。


 ——三年ぶん、早めた。


 早めたのは、私だ。


 早めた結果として、藁屋根の葺き替えが来年に困る。困る戸数は五十五。


 この一行を、私はいま読んだ。読んだということは、知っているということだ。


 知っている者が、知らないふりをすることはできる。管轄ではない、と言えばいい。実際、管轄ではない。


 言えば言えるのに、なぜか言葉が出てこなかった。


 私は束を閉じて、机の端に寄せた。


 寄せてから、いちばん上に置き直した。


 いちばん上は、まだ片付いていないものを置く場所だ。


 南の市の相場の照会だ。今日中に返さないと、明後日の市に間に合わない。


 こちらは、間に合う。


 私はペンを取って、書きはじめた。


  *


 その晩、灯りを消してから、私は寝台のなかで数を数えた。


 四つの村。石屋根が二つ、藁が二つ。


 藁のほうの戸数は、たしか、上が三十一で、下が二十四だった。


 五十五。


 九人ではない。


 九人ではないけれど、これも私が数えられる数のうちに入ってしまった。


 数えられるうちは手に負える、と峠の宿で思ったことがある。


 あれは、たぶん、間違っていた。


 数えられるから手に負えるのではない。数えてしまうから、離れられないのだ。


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