第20話 対価
次の朝、私はベルナー様に面会をお願いした。
お願いする、というのも初めてだった。いつも向こうから来られるので、こちらから呼ぶという発想がなかった。
昼前に来てくださった。
「オルデン様。何かご不自由が」
「ございます」
ベルナー様が、目を丸くされた。
*
「侍女をひとり、王都から呼びたいのです」
「……はい」
「マルタと申します。屋敷で私付きだった者で、いまも公爵家におります。呼べば来ると思います」
「かしこまりました。手配いたしましょう」
「お待ちください」
私は、そこで止めた。
「旅の費えと、こちらでの給金は、わたくしが出します」
ベルナー様が、また目を丸くされた。
「オルデン様。それは、その」
「持っておりません」
「……はい」
「ですので、いただきたいのです」
*
言うのに、思っていた三倍くらいかかった。
言ってしまえば一行だ。報酬をいただきたい。それだけのことを、私は昨夜のうちに文面にして、三度書き直した。
書き直したのは、理由の書き方が決まらなかったからだ。
働いているから、と書くと、頼まれていない仕事をした者が対価を求めることになる。頼まれていないのは事実だ。私は照会に勝手に返事を書いている。
立場があるから、と書くと、契約書の三条を持ち出すことになる。三条には、生計は別途協議とある。協議は、まだしていない。
結局、理由は書かなかった。
書かないまま、口に出した。
*
ベルナー様は、しばらく手元を見ていらした。
「差し出がましいのですが、なぜ、いままで仰らなかったのですか」
「必要がございませんでした」
「食事も、部屋も、こちらで出しております。それはそうですが、お手元のものは」
「ございません」
「ひとつも」
「外套の留め金が、あとみっつ」
ベルナー様が、額を押さえられた。
「……なぜ、そのようなことに」
「規定でございます」
「規定」
「持参金は出さない、家の名も使うな、と申しつかりましたので。規定どおりにいたしました」
ベルナー様は、額を押さえたまま、しばらく動かれなかった。
*
ベルナー様は、しばらくしてから、こう仰った。
「オルデン様。ひとつ、申し上げてよろしいですか」
「はい」
「この城の者は、みな、あなた様が給金を受け取っておられると思っております」
「……そうでございますか」
「当然だと思っておりますので。誰も確かめておりません」
ベルナー様は、少し困った顔をされた。
「確かめなかったのは、こちらの落ち度でございます」
「いいえ」
「いいえ、とは」
「申し上げなかったのは、わたくしでございます」
言ってから、王都でも同じことを申し上げたな、と思った。
あのときは、引き継ぎを申し出て、断られた。
今度は、申し出なかった。
申し出なければ、断られることもない。断られないので、傷つかない。
——そうやって、二月過ごした。
*
その日の午後、ラウル様に呼ばれた。
卓の上に、紙が一枚置いてある。近づいて見ると、額と、支払いの日付が書いてあった。
月ごと。半月ごとに前渡し。
「これで足りますか」
私は、数字を見た。
多い。
王都で、書記官が受け取っていた額よりも多い。私は府の名簿に載っていなかったので比べる先がないけれど、比べるとしたらそのあたりのはずだ。
「多うございます」
「では、減らしますか」
「……いいえ」
多いのは、こちらの都合ではない。減らしてくれと申し上げるのは、値付けを疑うことになる。値付けは出す側の権利だ。
「ありがたく、頂戴いたします」
「では、こちらに」
署名した。
署名して、羽根ペンを置いたところで、この方が仰った。
「オルデン嬢」
「はい」
「なぜ、いままで仰らなかったのですか」
ベルナー様と同じことを訊かれた。
「必要がございませんでしたので」
「侍女を呼ぶ必要はできた」
「はい」
「では、必要ができるまでは、言わないのですね」
私は、答えなかった。
答えなかったので、この方は、それ以上訊かれなかった。
*
部屋に戻る途中、私は自分が少し腹を立てていることに気づいた。
誰に、というのが、はっきりしない。
叔父様に、ではない。あの方は規定どおりのことを仰った。持参金を出さない当主は、珍しくない。
王都に、でもない。
しばらく歩いて、ようやくわかった。
自分に、だ。
二月近く、私は何も持たずに暮らして、それを不便だと思っていなかった。留め金がみっつ残っている、と数えて、それで足りると思っていた。
足りるはずがない。
足りると思えたのは、欲しいものがなかったからだ。欲しいものがなければ、たいていのことは足りる。
欲しいものができたので、足りなくなった。
——マルタを呼びたい。
それが、家を出てから初めての「欲しい」だった。
初めてなので、口に出すのに三倍かかった。
*
手紙を書いたのは、その晩だった。
書き出しで、三度止まった。
なんと書けばいいのかがわからない。呼びます、と書けばいいのだけれど、それだけでは足りない気がして、足そうとすると、何を足せばいいのかがわからない。
結局、こう書いた。
——呼べるようになりました。来てくださいますか。旅の費えは同封いたします。
三行だ。
三行書くのに、半刻かかった。
同封するものを数えて、封をして、宛名を書いた。オルデン公爵家、侍女マルタ。宛名を書くとき、少しだけ手が止まった。
あの家に届く手紙になる。
叔父様の手を経るだろう。開けられるかもしれない。開けられて、捨てられるかもしれない。
考えて、それでも出すことにした。
出さなければ、届かない確率は十割だ。
*
封を持って部屋を出たところで、廊下の窓から城の中庭が見えた。
北の橋の役人が、下に立っている。誰かと話していて、手に紙を持っていた。掲示の写しだと思う。三月経つ前に、また写しているのだろう。
その方が、こちらを見上げた。
目が合ったので、頭を下げた。
向こうも下げた。深い下げ方だった。
王都で、私に深く頭を下げたのは、家を出る朝の家令だけだった。二十年いた方だ。
ここに来て、まだ一月半しか経っていない。
*
部屋に戻って、卓の前に座った。
棚の三段目に、返事待ちが二枚。明日でいい。
私は、いただいた紙を出して、額をもう一度見た。
月ごとに、これだけ。
半年で、六回。
六回で終わる。契約がそう書いてある。
——六回ぶんなら、貯まる。
貯めてどうするのかは、考えていなかった。
考えたことがなかった。十一年、銭を貯めたことがない。要るものは家から出たし、要らないものは買わなかった。
貯めると、何ができるようになるのだろう。
紙を引き寄せて、書いてみた。
——マルタの給金。旅の費え。
二行で止まった。
三行目に何を書けばいいかが、わからない。
わからないので、明日また考えることにした。
橋の荷車を数えたときと、同じだった。
*
灯りを消してから、三行目のことを考えた。
貯めて、何ができるか。
できることを挙げようとすると、全部、誰かのためのことになった。マルタの給金。誰かの旅の費え。誰かの葺き替え。
自分のためのものが、ひとつも出てこない。
欲しいものを挙げてみようとした。
衣。要る。けれど、要るのと欲しいのは違う。
本。いいかもしれない。この領の四十年を読みたい。——これも仕事だ。
三度目に、ようやくひとつ出た。
——外套の留め金。
みっつしか残っていない留め金の、四つ目。
母様の形見だから、揃っていたほうがいい。それだけの理由だ。
理由が薄い、と思った。
思ってから、理由が薄くていいのだ、と思い直した。
欲しいものというのは、たぶん、そういうものだ。
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