第21話 わからないことの欄
不服が来たのは、南の水利の裁定についてだった。
照会に返事を書いて、掲示が出て、十日ほど経ってからだ。ベルナー様が、いつもより固い顔で持ってこられた。
「オルデン様。申し立てが」
「どなたから」
「ハーゲン様でございます」
「……存じ上げません」
「領の南半分をお預かりの方でございます。閣下の、父君の代からの」
*
申し立ての書面を読んだ。
文面は丁寧だった。丁寧で、こちらの不備を三つ突いていた。
ひとつ。この裁定は、南の慣行を踏まえていない。南では春の水を上流優先とする取り決めが、四十年前からある。
ふたつ。掲示に領主の名がない。役人の名しかない。役人の名で領の水を割るのは、これまで例がない。
みっつ。そもそも、誰が決めたのか。
三つとも、正しかった。
特に、ひとつ目が正しかった。
*
私は、四十年前の取り決めを知らない。
この領の記録は、宝物庫にはない。あの十一箱は、向こうの国の四百年だ。こちらの四十年は、どこかにあるはずだけれど、私は見ていない。
見ていないものは、踏まえられない。
私が書いた裁定は、王都の第五巻に載っている三つの型を当てただけだ。型は当たった。当たったけれど、この土地に四十年の積み重ねがあるなら、それを見ずに割るのは、乱暴だ。
私は、書面を置いた。
「ベルナー様。この領の、古い取り決めの綴りはございますか」
「……ございますが」
「見せていただけますか」
「それが」
ベルナー様は、言いにくそうにされた。
「南の綴りは、ハーゲン様がお持ちでございます」
*
その日の午後、ラウル様のところへ行った。
自分から行ったのは、初めてだった。
「申し立てを読みました」
「読みましたか」
「三つとも、正しゅうございます」
ラウル様は、少し目を細められた。
「三つとも」
「はい。慣行を見ずに割りました。落ち度でございます」
「では、取り下げますか」
「いいえ」
私は、そこは譲らなかった。
「取り下げますと、いま動いている水が止まります。掲示から十日で、上流の三つの村が段取りを変えております。戻すほうが害が大きうございます」
「では、どうします」
「南の綴りを、見せていただきたく」
*
三日待った。
三日目に、ベルナー様が来られて、綴りは出せないと伝えられた。
理由は、南の綴りは南で管理するものであり、代々そうしてきた、というものだった。
私は、その理由を書き取った。
「ベルナー様。いま仰ったことを、書面でいただけますか」
「書面で」
「はい。南の綴りは南で管理する、それが慣行である、と。ハーゲン様のお名前で」
ベルナー様が、私の顔を見られた。
「……それを、どうなさいます」
「綴じます」
*
ベルナー様が出ていかれたあと、私はしばらく座っていた。
ハーゲン様というお名前を、頭のなかで転がした。
この方は、悪意で綴りを抱えていらっしゃるのだろうか。
たぶん、違う。
南の綴りは南で管理する。代々そうしてきた。それは慣行で、慣行を守るのは、たいていの場合、正しいことだ。この方は正しいことをしていらっしゃる。
正しいことをしていて、結果として、誰も決められなくなっている。
王都でも、そうだった。
番人は決まった額を取っていた。取り決めどおりに。控えを出さなかったのは、求められなかったからだ。求められていないものを出さないのも、正しい。
みんな正しくて、それで三十年、ヤンは倍払っていた。
——悪い方ではない。
王都を出てから、何度そう思っただろう。
*
部屋に戻って、私は棚のいちばん下の段を空けた。
片付いたものを入れる段だ。まだ何も入っていない。
ここに、これから入れるものが決まった。
この領には、記録が一箇所にない。南は南が持ち、たぶん北は北が持ち、城には城のぶんしかない。だから、決めるたびに誰かが「慣行に反する」と言える。言われた側は確かめられない。確かめられないから、決められない。
三年、任じた者が決めるのを怖がった。
怖がった理由が、ようやくわかった。庇うものがないからではない。庇うものが、相手の手元にあるからだ。
*
書面は、二日後に届いた。
ハーゲン様の名で、三行だった。南の綴りは南で管理する。代々そうしてきた。ゆえに城へは出さない。
簡潔で、丁寧で、逃げがない。
私は、その紙を灯りにかざした。
書き慣れた方の字だった。行間が揃っていて、末尾の余白の取り方に癖がある。役所の書式を長く扱っていないと、こうはならない。
——この方は、書ける。
書ける方が、書かない側に回っていらっしゃる。
三行の書面を出すのに二日かけたのは、迷われたからだと思う。出さなければ、南の綴りは南のものだと主張しつづけられた。出した瞬間に、主張が記録になる。
記録になったものは、いつか照合される。
それを承知で出された。
私は紙を畳んで、いちばん下の段に入れた。
一枚目だ。
*
夕方、ラウル様が部屋に来られた。
この方が東棟に来られたのは初めてで、私は少し慌てた。椅子がひとつしかない。
「立ったままで結構です」
「はい」
「ハーゲンから、書面が出るそうですね」
「はい」
「あれを書かせると、あの男は南の綴りを抱えている者として、名が残ります」
「はい」
「それが狙いですか」
「……いいえ」
私は、正直に申し上げた。
「そこまでは考えておりませんでした。ただ、断られた理由が残らないと、次に断られたときに同じところから始めることになりますので」
ラウル様が、笑われた。
声を出して笑われたのは、初めてだった。
「三年、あれを崩せませんでした」
「崩れておりません」
「崩れます」
その方は、棚のいちばん下の段をご覧になった。空の段だ。
「そこに入るものが増えれば、崩れます」
*
その晩、私は南の水利について、わかることだけを書き出した。
わかることは少ない。上流に三つ、下流に五つ、村がある。春の水は上流優先という慣行があるらしい。四十年前から。四十年前に何があったかは、わからない。
わからないことを、右の欄に並べた。
左が、わかること。右が、わからないこと。
右のほうが、はるかに長い。
——十一年で、こんなことは一度もなかった。
書斎では、右の欄が空だった。調べる先が全部、机の上の三つの束のなかにあったからだ。
いまは、右のほうが長い。
長いのに、なぜか、手が止まらなかった。
書斎では、答えを書いていた。答えを書くのが仕事だったからだ。
いま書いているのは、問いだ。
問いを書いていると、どこまでも書ける。ひとつ書くと、そこから二つ出る。四十年前に何があったのか。誰が決めたのか。決めた者の名が残っているのか。残っていないなら、なぜ残っていないのか。
右の欄が、頁の下まで来た。
私は紙をもう一枚出して、続きを書いた。
——これは、誰も検めない。
十一年ぶんの癖で、そう思った。
思って、それから、検めないほうがいいのだ、と気づいた。
検める者がいる紙は、検める者にわかる書き方をしなければならない。この紙は、私にわかればいい。
私にわかればいい紙を書くのは、生まれて初めてだった。
*
書き終えたのは、夜半だった。
灯りを消そうとしたとき、廊下が騒がしくなった。
人が走っている。夜半に城のなかを走るのは、よほどのことだ。
扉を開けると、若い侍女が階段を上がってきたところだった。私を見て、足を止めて、それから思い出したように頭を下げた。
「オルデン様。あの」
「何かございましたか」
「王都から、お使いが」
私は、扉の縁を握った。
「……王都、と申しますと」
「はい。あの、向こうの国の、王都でございます」
その方は、息を整えてから言った。
「軍の方だそうでございます」
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