第22話 署名だけでいい
通されたのは、城の一室だった。
卓の向こうに、四十くらいの方が座っていらした。旅装のままで、目の下が黒い。夜通し馬を替えて来られたのだと思う。
名乗られて、私は少し驚いた。
「……お名前は、存じ上げております」
「私も、あなたのお名前は存じております」
「お会いしたことは」
「一度も」
その方は、軍務府で書面を扱っていらした。
十一年のうちの、後ろ七年ほど。私が書いた照会に返事をくださって、その返事に私がまた返した。そういう往復を、たぶん三百回はしている。
顔を知らない。字だけ知っている。
それなのに、この方の書き癖は覚えていた。数字のあとに必ず一字空ける。急いでいるときは空けない。
*
「単刀直入に申し上げます。四十年前の、相場の取り決めの原本がそちらにあるはずです」
「ございます」
「写しをいただきたい」
「お出しできます」
その方が、少し前に出られた。
「では」
「ただし」
私は、続けた。
「真正であるという署名は、いたしかねます」
*
部屋が、静かになった。
「……いま、なんと」
「写しはお出しします。署名はいたしません」
「同じことでしょう」
「違います」
その方は、卓に手を置かれた。
「オルデン嬢。事情はご存じないかもしれませんが、いま軍は」
「存じております」
言葉を遮ってしまった。遮ったのは、聞いてしまうと断りにくくなるからだ。
「商会が抱え込んでおります。軍は公定の相場で買う権利がある。それを主張なさりたい。主張には四十年前の取り決めが要る。取り決めの原本は当方にある。写しだけでは商会が真正を争います。ですから、署名が要る」
「……そのとおりです」
「一枚でございますね」
「一枚です。署名ひとつです」
私は、膝の上で手を組んだ。
一枚。署名ひとつ。書くのに十を数えるほどもかからない。
*
その方は、鞄から書付を出された。
「念のため、こちらの見込みを申し上げます。商会の抱えは、いま麻が三千、穀物が一万二千。倉が三棟。これを公定の相場で吐き出させれば、こちらは冬を越せます」
「越せなければ」
「南の駐屯から、順に引きます」
「引くと、どうなりますか」
「街道の警備が薄くなります。峠は最後まで残しますが、内側は無理でしょう」
私は、その数字を頭のなかに置いた。
麻三千、穀物一万二千。倉三棟。数字が具体的なのは、この方が書面を扱う人だからだ。曖昧に言えば通ると思っている人は、こういう数字を出さない。
街道の警備が薄くなれば、荷が減る。荷が減れば、市が細る。細るのは、王都ではなく、街道沿いの町からだ。
三日で困る。七日で揉める。十四日で。
私は、そこで数えるのをやめた。
*
「いたしかねます」
「なぜです」
「申し上げられません」
「理由もなしにですか」
「はい」
その方は、しばらく私を見ていらした。
怒っていらっしゃるのはわかった。ただ、怒鳴られなかった。三百回書面を往復した方は、怒鳴らない。怒鳴っても紙は動かないことを知っていらっしゃる。
「では、伺い方を変えます」
「はい」
「あなたが署名なさらないなら、誰が署名するのですか」
*
私は、答えるまでに少しかかった。
答えは、峠の馬車のなかで出している。雨の日に、帳面の余白を破ったあとで。
「どなたも」
「どなたも」
「はい」
「では、あの原本は、誰にも使えないということですか」
「読むことは、どなたにもできます」
「読めても、証明できなければ同じことです」
「同じではございません」
私は、そこだけは譲らなかった。
「証明できるものが証明できなくなったのと、最初から証明のないものとは、違います。前者は、証明できる者が現れれば戻ります」
「その者が現れる見込みは」
「ございません」
「では、戻らないでしょう」
「戻らないかもしれません」
*
その方は、目を閉じられた。
閉じて、少し息を吐いて、それから開けられた。
「三日、考えていただけませんか」
「考えても、変わりません」
「では、条件を伺います。何を出せば署名していただけますか」
「何も」
「金では」
「いいえ」
「王都へお戻りいただく話でしたら、こちらで」
「いいえ」
私は、首を振った。
「わたくしが署名すれば、その紙は軍のために出たものになります。軍のために出た紙は、商会が信じません。信じない紙は、証明ではございません」
言ってから、しまった、と思った。
理由を申し上げてしまった。
*
その方は、動かれなかった。
しばらくして、こう仰った。
「では、商会にも同じものを出せば」
私は、顔を上げた。
この方は、いま、半歩踏み込まれた。
王都の宿で、商人が「なんで娘が窓口に行けるんだ」と言ったときと同じだ。あと半歩で見える。見えたら、たぶん、この方は署名を求めなくなる。
求めなくなったところで、軍は困ったままだ。
「……いまは、できません」
「なぜ」
「支度がございませんので」
嘘ではなかった。
三派すべてに同じものを同じ日に渡すには、写しを三通作って、封を三つ用意して、三方に同時に届く手筈を組まなければならない。届く日がずれれば、早く受け取った側が先に動く。動いた時点で、無利害ではなくなる。
いまの私には、その手筈がない。
この領には、そこまで手足がない。
*
「支度が整えば、していただけるのですか」
「……わかりません」
「わからない」
「いまは、わかりません」
その方は、立ち上がられた。
立ち上がって、卓の向こうから、頭を下げられた。
思っていたより、深い下げ方だった。
「お手間を取らせました」
「いえ」
「オルデン嬢。ひとつだけ、申し上げてよろしいか」
「はい」
「私は七年、あなたの書面を読んでおりました」
その方は、頭を上げられた。
「読みにくい書面でした。余計なことが一切書いていない。何を訊かれているのかがわかるまでに、いつも二度読まねばならなかった」
「……申し訳ございません」
「褒めております」
そう仰って、その方は部屋を出ていかれた。
*
部屋に残って、私は椅子に座り直した。
膝の上の手が、少し冷たかった。
断った。
王都で窓口に立ってから、私が自分の意思で何かを止めたのは、これが初めてだ。あのときは書式どおりに動いただけで、止めるつもりはなかった。
今度は、止めた。
止めた相手は、七年、字で知っていた人だ。
——不快だ。
その言葉が、いちばん近かった。悲しいのでも、つらいのでもない。口のなかに何か残っているような、片付いていない感じ。
片付けようとして、片付け方がわからなかった。
*
夕方、私は写しを作りはじめた。
署名はしない。ただの写しだ。ただの写しなら、誰に渡してもいい。誰に渡してもいいものは、渡さない理由がない。
四十年前の取り決めは、七枚あった。
一枚目を写しながら、私は考えていた。
三通作るには、二十一枚要る。二十一枚を、三方に同じ日に届ける。
できないことではない。
できないことではないが、いまはできない。
私は、その差を、いつのまにか「いま」という言葉でつないでいた。
*
五枚目のところで、マルタのことを思い出した。
まだ手紙の返事は来ていない。王都まで六日、向こうで支度をして、帰りが十日。早くて二十日。
二十日後に、この城に人がひとり増える。
増えたところで、三通を三方に同時に届ける手筈は組めない。侍女ひとりでできることではない。
できることではないのに、私は、いつのまにかそれを勘定に入れていた。
——できないと言わずに、いまはできないと言った。
あのとき、私はそう答えた。
いまはできない、というのは、いつかはできるという意味になる。
なる、ということに、口に出してから気づいた。
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