第23話 聞く必要がありません
使者の方は、その日のうちには発たれなかった。
翌朝、城の者に聞いて、理由がわかった。ラウル様に面会を申し入れていらっしゃる。
当然だと思った。私に断られたなら、次は領主だ。妻に命じられる立場の人間がいるなら、そちらへ行く。書面が通らないときの順序として、正しい。
私は、東棟の部屋で写しを作っていた。
三枚目を書き終えたところで、手を止めた。
止めてから、立ち上がった。
*
城の一室の扉は、少し開いていた。
開けたのは私ではない。誰かが出入りして、閉め忘れたのだと思う。
廊下を通りかかっただけだ、と自分に言った。写しの紙が足りなくなったので、階下へ取りに行くところだった。実際、そうだった。
通りかかって、声が聞こえた。
足が止まった。
*
「——ですから、閣下からお命じいただければ済む話でございます」
「命じません」
「一枚でございます。奥方の署名ひとつで、こちらの軍が動けます」
「それは承知しました」
ラウル様の声は、いつもと同じ調子だった。
「ただ、彼女が署名しないと決めたのなら、しない理由があります。私はそれを聞いておりません」
「では、お聞きになってください」
「聞く必要がありません」
*
紙を取りに行くつもりだった。
行かなかった。
立ち聞きは、してはいけないことだ。七つのころに教わった。
教わったのに、動けなかった。
動けない理由は、はっきりしていた。私の署名の話をしていらっしゃるからだ。私のいないところで、私が断ったことについて話しておられる。
書斎にいたころ、私のいないところで私の書いたものが話し合われるのは、日常だった。それが正しい形だった。
いま、正しい形が、こんなに落ち着かない。
「失礼ながら、それは無責任というものでは」
「そうかもしれません」
「閣下。あの記録は、いまや宙に浮いております。誰も使えない。それでよいとお考えですか」
「よくはありません」
「では」
「よくはありませんが」
少し間があった。
「あなた方が欲しいのは、記録ではないでしょう」
*
「……なんと」
「記録が欲しいなら、写しで足ります。彼女は写しは出すと申し上げたはずです」
「写しでは、商会が争います」
「そうです。あなた方が欲しいのは、争えない状態のほうだ」
ラウル様の声は、まだ同じ調子だった。
「彼女が署名すれば、その紙は軍の紙になります。軍の紙は商会が信じない。信じられていない紙をいくら積んでも、争いは止まりません。一度で終わるのは、彼女が信じられている場合だけだ」
「ですから、その署名を」
「その署名を出した瞬間に、彼女は信じられなくなります」
*
私は、廊下の壁に手をついた。
申し上げていない。
この方に、一度も申し上げていない。宝物庫で箱を運んでいただいたときも、契約のときも、名を書く書かないの話のときも。無利害という言葉を、私は一度も使っていない。
使っていないのに、そのとおりのことを仰っている。
——調べたのだ。
そう思った。
思って、少し落ち着いた。
この方は十日で私の条件を揃えた方だ。調べる方だ。調べれば、四百年の記録が何のためにあったかくらいは、たどり着く。特別なことではない。
特別なことではない。
*
「……閣下は、その先をお考えですか」
使者の方が、声を落とされた。
「あの女がここにいるかぎり、記録は動きません。動かなければ、あの国は締まっていく一方でございます」
「でしょうね」
「それを、待っていらっしゃる」
私は、扉のほうを見た。
これは、私が知りたかったことだ。
この方の狙いを、私は三つ挙げた。ひとつは消えた。ふたつめも消えた。残っているのは、傾いたあとの交渉材料として先に押さえた、という筋だ。
いま、それを聞ける。
*
「待ってはいません」
「では、なぜお引き受けに」
「置き場所を探している者がいたので」
使者の方が、黙られた。
「それだけでございますか」
「それだけです」
「信じられませんな」
「信じなくて結構です」
ラウル様は、少し声の調子を変えられた。
「ただ、ひとつ申し上げます。あの国が締まっていくのは、彼女が抜けたからではありません」
「では、なぜと」
「抜けたら止まる仕組みを、四百年かけて作ったからです」
*
「……仕組みが悪い、と仰るのですか」
「悪いとは申しません。よくできています。四百年もったのですから」
少し間があった。
「ただ、よくできたものほど、抜けた者を責めたくなる」
「責めるなと」
「責めても戻りません」
使者の方が、椅子を鳴らされた。
「では、どうすればよいと」
「知りません。私は、あの国の者ではない」
あっさりと、そう仰った。
「隣の国が締まっていくのを、喜んでいるかと訊かれれば、喜んではいません。街道の荷が減ります。うちの市も細る。困るのはこちらもです」
「では、なぜ」
「困るからといって、彼女に署名させる理由にはならないでしょう」
*
私は、壁から手を離した。
離して、廊下を戻った。
階下へは行かなかった。紙は、まだ少し残っていた。
部屋に入って、扉を閉めて、机の前に座った。
座って、写しの四枚目を書きはじめた。
三行書いて、手が止まった。
文字が、いつもの形になっていなかった。
*
四枚目を書き終えるのに、いつもの倍かかった。
字が乱れているのではない。むしろ、いつもより丁寧になっていた。丁寧に書こうとしていることに気づいて、私は途中で手を止めた。
誰に見せるものでもない。写しは写しだ。
それでも、丁寧に書いていた。
——落ち着け。
自分に言った。
この方が私の仕事を理解していらっしゃるのは、調べたからだ。調べる方だからだ。理解されたからといって、こちらの何かが変わるわけではない。
変わっていない。
変わっていないのに、なぜ手が遅くなるのか。
五枚目を書きはじめて、私はもう一度手を止めた。
止めて、窓の外を見た。
雪の降る前の空だ。灰色で、低い。峠から見た稜線と、同じ色をしていた。
*
その日の夕方、使者の方は発たれた。
城の門のところで、頭を下げられた。
私も下げた。
馬に乗る前に、その方はこう仰った。
「オルデン嬢。写しは、いただいてまいります」
「はい」
「署名のないものです。これでは商会と争えません」
「はい」
「それでも、いただいてまいります。読める者が、府にひとりだけおりますので」
*
その晩、私は写しを七枚仕上げた。
仕上げて、封に入れて、卓の端に置いた。
置いてから、灯りの下で、自分の手をしばらく見ていた。
——記録が信じられている状態。
あの方は、そう仰った。
その言い方を、私は自分でしたことがない。父様もなさらなかった。書斎では、そんなふうに言葉にする必要がなかった。やっていることが、そのまま答えだったから。
外から見ると、あれはそう見えるのか。
見えるように調べた方が、この城にいる。
*
寝台に横になって、天井を見ていた。
考えていたのは、狙いのことだった。
残っていた三つ目も、たぶん違う。待ってはいない、と仰った。嘘かもしれないけれど、あの言い方は、こちらを説き伏せる言い方ではなかった。
嘘をつく人は、信じなくて結構です、とは言わない。
では、なぜか。
置き場所を探している者がいたので。
それだけ、と仰った。
——それでは、説明になっていない。
私は寝返りを打った。
説明になっていないのに、四回読んでも不備がないときと、同じ感じがした。
*
もうひとつ、引っかかっていることがあった。
——奥方の署名ひとつで。
使者の方は、そう仰った。
奥方。
書面の上ではそうだ。契約に署名して、この城に部屋があって、給金が出ている。外から見れば、そう見える。
見えるのに、こちらには実感がない。
実感がないのは、あの契約が、そう読める形に作られていないからだ。あれは保管の取り決めと、身分の取り決めだ。婚姻は、そのための道具として書いてある。
道具として書いてあるものを、外の人は道具として読まない。
——では、あの方は。
考えかけて、やめた。
やめて、寝返りを打った。
打ってから、やめたのに考えていることに気づいた。
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