第08話 宿帳
街道筋の宿は、思っていたよりも大きかった。
国境まで十日の道の、五日目にあたる。荷を運ぶ隊がよく泊まるのだそうで、厩も広い。木箱十一を降ろさずに済むというので、ここに決めた。
部屋を取って、階下に降りると、宿の主人が声をかけてきた。
「お客様。お名前は、オルデン様でよろしゅうございますか」
「はい」
「先ほど、王都から早馬が。お預かりしております」
差し出されたのは、封書だった。
封蝋を見て、少し驚いた。財務府のものではない。ヴァレン商会の印だ。
*
部屋に戻って、灯りをつけてから封を切った。
三枚あった。
一枚目は挨拶で、二枚目が本文。三枚目は明細だった。
オルデン公爵家に対する貸付について、期限の利益を喪失したものとみなし、残額の一括返済を求める——という内容だった。
根拠の条項が、きちんと引いてある。
当家の信用状態に重大な変更が生じた場合、と書いてある。信用状態の重大な変更とは、当家が第三者に対して負っていた保証を解除したこと、と説明してある。
正しい。
保証を外した家は、外された側から見れば、外す家だ。次は自分の番かもしれないと考えるのは当然で、考えたなら先に動くのも当然だった。
私はもう一度、最初から読み直した。
日付を見る。
書面の作成は六日前。私が財務府の窓口に立った、その翌日だ。
早い。
早いということは、あの朝、府の内側で誰かがすぐ商会に報せたということだ。誰が、というのは、たぶん考えないほうがいい。
三枚目の明細を見た。
額は、想像していたより大きかった。父様が寝つかれてからの三年で、この家はずいぶん借りている。領地の見回りに出て、小作の言い分をよく聞く方が当主だと、こうなるのだろう。悪い方ではないのだ。ただ、入りと出の帳尻を、誰かが見ていなければならなかった。
見ていた者は、書斎にいた。
書斎に入ってこられなかったのだから、これは仕方がない。
明細を、上から順に指でなぞった。
二年前の春、井堰の修繕。これは私が割り当てを書いた工事だ。費用の半分は府から出るはずだった。出ていない。府に請求した記録がない。
去年の秋、種籾の買い足し。相場より二割高い。急いで買われたのだと思う。急ぐ必要があったのは、その前の月に別の支払いが遅れていたからで、その支払いが遅れたのは——
指を止めた。
遡っても仕方がない。
どこかで一度、私が書斎から出て、帳簿を見せてくださいと申し上げていれば、この列は途中で切れていた。申し上げなかった。訊かれていなかったから。
訊かれるのを待っていた、というほうが正確かもしれない。
三年、待っていた。
叔父様が扉のところまで来られて、そのまま戻っていかれた、あの日から。
*
本文の最後に、期限が書いてあった。
三十日。
三十日で払えるはずがない。払えなければ抵当が実行される。抵当に入っているのは、明細によれば、東の二領だ。
異議を申し立てられるか、と考えて、すぐにやめた。
条項に不備がない。日付にも、送達にも、算定にも不備がない。書いたのは相当できる方だ。この文面なら、私が読んでも一行も直せない。
撤回はできない。
紙を三枚、卓の上に並べて、私はしばらくそれを見ていた。
叔父様は、これをご覧になってどうなさるだろう。
まず、私のせいだと思われるだろう。それは正しい。私が保証を外したから、商会が動いた。因果として、まっすぐに繋がっている。
次に、取り消させようとなさるだろう。取り消せない。
それから、府に泣きつかれる。府は動かない。府にとって、いま公爵家は面倒の発生源でしかない。
最後に、東の二領を手放される。
東の二領には、あわせて四つの村がある。村の名前も、たぶん覚えている。去年、井堰の修繕の割り当てを書いたときに、全部書いたから。
——三日止まれば、どこかで人が困る。
私はその紙を裏返した。
困るのは、私の管轄ではない。
管轄。
便利な言葉だと、また思った。
*
紙を裏返したまま、しばらく座っていた。
それから、宿の主人に紙とペンを借りた。
書いたのは、四行だ。
東の二領は手放されませんよう。三十日以内に商会へ出向き、分割の申し入れをなさってください。申し入れの書式は別紙のとおりです。相手方は必ず受けます、受けたほうが取り分が増えますので。
別紙を一枚、書式どおりに整えた。書き終えるのに、四半刻かからなかった。
封をして、宛名を書いた。
書きながら、これは説明ではない、と自分に言い聞かせていた。書式を送っているだけだ。何が起きているかは書いていない。父様の教えは破っていない。
——扉は、開いている。
二度目だ。
一度目は応接室で、三日いただければ書き出せますと申し上げた。書類の書き方か、と笑われた。
今度は笑う人がいないところへ、勝手に送る。
届いた叔父様が、これをどうなさるかはわからない。破って捨てられるかもしれない。姪からの入れ知恵だと思われるかもしれない。それでも構わない。使われなかったのなら、それは私が届けなかったからではない。
宿の主人に頼んで、翌朝の便に出してもらうことにした。
「王都まで、六日ほどかかりますが」
「かまいません」
三十日のうちの六日だ。まだ、二十四日ある。
二十四日あれば、書式ひとつで足りる。
*
封筒を片付けようとして、宛名をもう一度見た。
王都のオルデン邸ではなく、この宿の名が書いてある。
私がここに泊まることを、商会は知っていた。
六日前に王都で書いた書面が、五日目の宿に、私の到着と同じ日に届いている。逆算すると、私が屋敷を出るより前に、この宿へ向かう手筈が組まれていたことになる。
見られている。
驚きはしなかった。むしろ、そのほうが自然だ。私が持っているのは、四百年ぶんの記録だ。誰がどこにいるかを知りたい人は、いる。
ただ、少し寒くなった。
*
階下に降りて、水をもらった。
帳場の卓に、宿帳が開いたまま置いてあった。
癖で、目が行った。
紙を見ると読んでしまう。何が書いてあるかを確かめないと落ち着かない。父様に躾けられたわけではなく、これは自分でそうなった。
日付を遡って、指でなぞる。
三日前の欄に、五人分の記名があった。隣国の使者の一団だろう。旅装で街道を戻る一行は、この時季ほかにない。
いちばん下に、名前がひとつ。
家名がない。
——ラウル。
私は指を止めた。
二度読んで、同じだった。
行き先の欄には、東と書いてある。私と同じ方向だ。国境へ戻られるのだから、当たり前ではある。
「そちらの方々でしたら、三日前にお泊まりでしたよ」
主人が言った。
「五人でいらして、翌朝すぐお発ちに。急いでいらっしゃるご様子で」
「そうですか」
「妙なことに、そのうちのお一人が、この宿帳をずいぶん長くご覧になっていましてね。何をお探しですかと伺ったら、なんでもないと」
「……そうですか」
「あの方でしたよ。名前だけの」
主人は宿帳を指した。
「宿屋を長くやっておりますとね、名前だけでお泊まりになる方は、二通りしかおりません。名乗れないほど偉い方か、名乗るものをお持ちでない方か」
「どちらでした」
「さあ。金払いはよろしゅうございました」
主人は笑って、奥へ引っ込んだ。
私は、宿帳を閉じた。
閉じてから、自分がそうしたことに気づいた。
この方が何をご覧になっていたのかは、わからない。私の名は、この宿帳にまだ書かれていなかったはずだ。三日前なのだから。
わからないことが、また増えた。
部屋へ戻る階段を上りながら、数えてみた。
この五日で増えた「わからないこと」。
置き場所が決まっていないこと。宿代がいつまでもつか。叔父様が書式を使われるかどうか。誰が商会に報せたのか。誰が府に人を出させたのか。あの方が三日前に何を見ていたのか。
六つ。
十一年で、わからないことが六つも同時にあったことは、一度もなかった。書斎にいれば、わからないことは調べればわかった。調べる先が全部、あの三つの束のなかにあったからだ。
いまは、調べる先がない。
——それでも、六つなら数えられる。
階段を上りきったところで、そう思った。
数えられるうちは、まだ手に負える。父様がそう仰ったわけではないけれど、たぶん、そういうことだと思う。
部屋に戻って、卓の上の三枚を封筒に戻した。
明日は、六日目だ。
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