第07話 字の変わるところ
三日目の朝は、よく晴れていた。
出発の刻限より早く目が覚めたので、父様の部屋へ行った。
窓は開いていた。誰かが朝いちばんに開けたのだろう。この部屋の世話は、私が家を出ても続く。それだけは確かめてある。
枕元に立って、報告をした。
「父様。今日、家を出ます」
返事はない。
「東へまいります。国境のあたりまで。記録の置き場所を探しております」
シーツの上の右手は、昨夜と同じ位置にあった。
「見つかりましたら、お報せいたします。……報せる手立てが、まだございませんけれど」
言ってから、少し可笑しくなった。
報せる手立てを整えるのも、いつもは私の仕事だった。誰にどう届けるか、何日かかるか、途中で誰が読むか。それを全部決めてから書きはじめる。
いまは、宛先すらない。
父様の手に、手を重ねた。昨日より少し冷たい気がしたけれど、朝だからかもしれない。
「行ってまいります」
立ち上がりかけて、座り直した。
もうひとつ、報告することがあった。
「叔父様に、引き継ぎを申し出ました。断られました」
返事はない。
「三日で書き出せますと申し上げたのですが。書類の書き方か、と」
言ってから、少し笑ってしまった。
父様も、たぶん同じことを言われた経験がおありだと思う。十一年、私は一度も外で説明したことがないけれど、父様はもっと長い。三十年か、四十年か。そのあいだ、何度「書類の書き方か」と言われたのだろう。
一度も、それを聞かせてはくださらなかった。
「父様。ずるいと思います」
返事はない。
わかっていて申し上げている。
私は立ち上がって、椅子を元の場所に戻した。
*
叔父様は、玄関にはいらっしゃらなかった。
家令が門まで送ってくださった。マルタは厨房から出てこなかった。出てこないでほしいと、昨夜そう頼んである。
木箱十一は、荷馬車に積み替えてある。私の乗る馬車と二台で、ずいぶん大げさな一行に見えた。中身が古い紙だとは、誰も思わないだろう。
「お嬢様。道中、お気をつけて」
「ありがとう。父様のこと、お願いします」
「はい」
家令が頭を下げた。深い下げ方だった。
馬車に乗り込む。
扉が閉まって、車輪が動きだした。
振り返らないことにしていた。振り返るとどうなるかは、だいたい想像がついたからだ。
*
王都を抜けるまでに、半日かかった。
通りは、いつもどおりだった。
パン屋には列があって、石工の足場はまた一段高くなっていた。荷車が行き交い、子どもが走り、どこかで犬が鳴いている。
誰も、私の馬車を見なかった。
当たり前だ。紋も入っていない、街で雇った馬車だ。中に誰が乗っていようと、通りには関係がない。
この街のほとんどのことは、決まった収め方がある。決めた人がいて、それを書いた紙があって、紙が残っているから、毎朝おなじように始まる。
紙は、いま私の後ろの荷馬車に載っている。
それでも通りは、いつもどおりだった。
——十四日。
まだ、十一日ある。
城門をくぐるとき、衛兵が荷を検めた。木箱をひとつ開けさせられて、中を見て、興味をなくして閉めた。古い紙だ。誰も欲しがらない。
「通行証を」
差し出した。
衛兵が名前を読んで、少しだけ手が止まった。読み直して、それから、何も言わずに返してきた。
夜会の話は、城門まで届いているらしい。
*
街道に出ると、道が広くなった。
両側に麦の畑が続いている。刈り入れの前で、穂が重そうに揺れていた。この道の通行の割り当てを、私は去年三回書いている。実際に通るのは初めてだ。
思っていたより、まっすぐな道だった。
まっすぐで、広くて、荷車がすれ違うのに困らない幅がある。三回書き直したのは、この幅を確保するためだった。図面の上では、ただの数字だった。
*
昼を過ぎたころ、荷を確かめようと思って、膝の上の包みを開いた。
書式の帳面の写しと、九人の名前の紙。それだけだ。
帳面をめくった。
最初のほうは、書き写した時期がばらばらなので、字が揃っていない。いちばん古い頁は、七つか八つのころに写したものだ。ひらがなが大きくて、線が震えている。父様が横で見ていらして、ここは行を変えるんだ、と教えてくださった頁だ。行を変える印だけが、やけに丁寧に書いてある。
めくる。
十くらいの字。まだ丸い。母様が亡くなった年だ。この頁だけ、いつもより行間が広い。手が震えていたのを、行間でごまかしたのだと思う。
めくる。
十二、三のあたりで、急に速くなっている。線が細くなって、続け字が増えている。この年に父様が「速いのは大事だ」と仰った。速く書けるようになりたくて、夜中に同じ書式を三十回写した。三十回目で、手首が動かなくなった。
めくる。
十四。書式が増えている。この年から、父様が確かめるだけになった。
めくる。
十五。もう大人の字だ。
めくる。
十六、十七、十八。
変わらない。
三年、同じ字だった。
私は、そこで頁をめくる手を止めた。
変わっていないのは字だけではない。三年、同じ部屋で、同じ机で、同じ時刻に起きて、同じ順に紙を仕分けていた。それを十一年と呼んでいたけれど、後ろの三年は、たぶん一年を三回やっただけだ。
婚礼の話が出るたびに、来年に、とお願いした。
あと一年あれば、引き継げる者を育てられると思っていた。三度そう思って、三度とも、育てはじめなかった。
育てはじめれば、私が書けなくなる日ができる。書けない日ができれば、束が止まる。止まれば、誰かが困る。
だから育てなかった。
三年、そうやって、育てないことを選び続けた。
——ずっと、ひとりでやると決めていたのは、わたしだ。
膝の上の帳面が、少し滲んだ。
滲んだのを見て、ああ、と思った。
思ってから、遅れて、喉の奥が詰まった。
馬車のなかには誰もいない。御者は外だ。窓は閉めてある。車輪の音のほうが、たぶん大きい。
私は帳面を閉じて、両手で顔を覆った。
声は、思っていたよりも出た。
*
どれくらいそうしていたかは、わからない。
顔を上げたら、外の景色が変わっていた。麦の畑が終わって、林に入っている。日が傾いて、木の影が長く道に落ちていた。
目のまわりが腫れているだろうな、と思った。宿に着く前に引くだろうか。
こういうとき、どうすればいいのかを知らない。
泣いたのは、母様の葬儀以来だ。あのときは十で、父様が横にいらして、人前だから、と言われた。それきり、人前でなくても泣かなくなった。
八年ぶりだと、やり方を忘れている。
水を飲んでいいのか、顔を洗ったほうがいいのか、そのまま乾かすのが早いのか。書式が決まっていない。誰も帳面に書き残していない。
窓の掛け金を外して、少しだけ開けた。
風が入ってきた。林の匂いがする。土と、葉の湿ったのと、それから馬の匂い。
馬の匂いは、これまで嗅いだことがなかった。屋敷の馬車は塗りがよくて、風が入ってこない。
しばらく、風に当たっていた。
*
膝の上の帳面を開き直して、滲んだ頁を確かめた。
十七のあたりだ。インクが少し流れている。読めないほどではない。
指で押さえて、乾かした。
——直せる。
紙は、たいていのことは直せる。破れたら継げばいいし、滲んだら書き写せばいい。四百年ぶん残っているのだから、直し方は決まっている。
書式が決まっているものは、早い。
私は帳面を包み直して、膝の上に戻した。
それから、包みの上に手を置いたまま、少し考えた。
次に泣くとき、どうするかを決めておこうと思った。
窓を開ける。風に当たる。それから、乾かす。
三行で足りた。
決めておけば、次は困らない。書式のあるものは、早い。
——書式は、こうやってできるのか。
誰かが一度困って、どうにかして、それを書き残す。四百年ぶんの箱に入っているのは、全部それだ。
私はそのことを、いままで一度も考えたことがなかった。
次の宿は、日が落ちる前に着くはずだった。
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