第06話 三通の手紙
三日のうちの、一日目。
朝いちばんに、手紙を三通書いた。
母方の縁で、まだ繋がりのある家が三つある。長く行き来はないけれど、母様の葬儀にはいらしてくださった方々だ。文面は事務的にした。事情があって家を出ること、しばらく身を寄せる先を探していること、荷物が少しあること。
少し、と書いた。木箱十一を少しと書くのは嘘に近いけれど、正確に書くと、内容を説明することになる。
使いを出して、夕方には二通が戻ってきた。
封を切られていない。
残りの一通は、翌日の昼に返事が来た。丁寧な字だった。このたびは大変でございましたね、と始まり、当家も手狭でございまして、と続いて、どうぞお身体を大切に、で終わっていた。
三行目に、この件については当家は関わりがない旨、府にもお伝えしております、と書いてあった。
この方は、私よりも先に動いていらっしゃる。
*
昼過ぎに、府の方が訪ねてこられた。
昨日、玄関にいらした方だ。応接室で待たされて、今度は私が入っていく側だった。
「オルデン嬢。単刀直入に申し上げます。記録の原本を、府にお預けいただけませんか」
「お預け、と申しますと」
「保管です。あれだけの量を個人でお持ちになるのは、危険でしょう。火事もあれば、盗みもある。府の書庫であれば、湿気の管理も行き届いております」
もっともなことを仰る。
実際、そのとおりだった。木箱十一を安全に保つには、府の書庫が国内でいちばん適している。
「お断りいたします」
「……理由を伺っても」
「府にお預けしますと、府のものになります」
「保管をお願いするだけです。所有が移るわけでは」
「所有ではございません。あれがどこにあるかで、あれの意味が変わります」
その方は、意味がわからないという顔をされた。
わからないほうがいい。わかる方が府にいらしたら、私は昨日のうちに止められていた。
「では、こうしましょう。府としては、あなたが個人でお持ちになることに、正式に異議を申し立てる用意があります」
「どうぞ」
「……どうぞ、とは」
「異議は、申し立てるべき方が申し立てるものでございます。府にその立場がおありなら、そのようになさってください」
立場はない。あるなら、こんな回りくどい話し方はなさらない。
その方は、しばらく黙ってから、帽子を取って立ち上がられた。
「後悔なさらないことを願います」
「ありがとうございます」
玄関まで見送った。
これで二人目だ、と思った。ひとりは商会か軍か教会か、まだわからないけれど、府に人を出させた誰かがいる。
早い。私が窓口に立ってから、まだ一日半しか経っていない。
*
二日目。
荷造りをしていて、持っていくものが少ないことに気づいた。
衣類はいい。あるものを詰めればいい。困ったのは、書斎のものだった。
書式の帳面は、写しを取った。原本は棚に戻した。あれは家のものだ。中身は全部覚えているので、写しさえ要らないのかもしれないけれど、覚えていることと手元にあることは違う。
棚の三段目から、紙を一枚だけ抜いた。
三年前の冬の、後から届いた書類。いちばん下に、名前が九つ並んでいる。
これは家のものではない。誰のものでもない。誰のものでもないから、私が持っていく。畳んで、帳面の写しに挟んだ。
父様の机からは、何も取らなかった。
*
午後、マルタが部屋に来た。
手に自分の荷物を持っていた。それを見た瞬間に、何を言われるかわかった。
「お嬢様。わたくしもまいります」
「だめよ」
「なぜですか」
「行き先が決まっていないもの」
「決まってからでは、遅うございます」
マルタは荷物を床に置いて、そこに座り込んだ。動かない、という座り方だった。
私は、この子を七つのときから知っている。私が七つで、マルタは十だった。厨房の下働きから、私付きになったのは五年前だ。
「マルタ。あなた、ここに家族がいるでしょう」
「弟がおりますけれど、もう働いております」
「お母様は」
「……厨房に」
「お給金は、この家から出ているのよ」
「存じております」
「わたしには出せないの」
マルタが顔を上げた。
「いりません」
「いるのよ」
私は、できるだけいつもの声で言った。
「いま、わたしにはお金がないの。持参金は出ないし、家の名も使えない。宿代は自分の分だけで足りるかどうか。あなたを連れていったら、二人で野宿することになるわ」
「野宿でも」
「わたしが困るの」
嘘だった。
困るのはマルタのほうだ。けれど、私が困ると言ったほうが、この子は引き下がる。そういう子だから。
案の定、マルタは黙った。
黙って、しばらくして、小さな声で言った。
「……いつか、お呼びくださいますか」
「呼べるようになったら」
「必ず、でございますか」
「必ず、とは言えないわ」
私は言い直した。
「呼べるようになったら、必ず呼びます」
マルタは、それでようやく荷物を持ち上げた。
*
夕方、家令が来た。
三日目の朝に馬車を一台出す、と伝えに来ただけだった。屋敷のものではなく、街で雇ったものだという。屋敷の紋の入った馬車では出せない、ということだ。
「かしこまりました」
「……お嬢様」
家令は、何か言いかけて、頭を下げて出ていった。
この方も、二十年この家にいらっしゃる。
夜、廊下を歩いていると、話し声が聞こえた。
厨房の裏で、若い者が二人。旦那様も気の毒だ、というようなことを言っていた。急に家督を継がされて、そのうえ姪があんな騒ぎを起こして。
悪意はない。事実として、そう見えている。
私は、そのまま通り過ぎた。
*
部屋に戻って、地図を出した。
行く先を決めなければならない。
条件は三つある。木箱十一が置ける場所。乾いていて、火の気のない場所。そして——どの派にも属していない場所。
三つ目が、どうしても埋まらない。
修道院はだめだ。教会は三派のひとつだから、預けた瞬間に、あれは教会の持ち物になる。軍の駐屯地も、商会の倉庫も、同じ理由でだめだ。
中立だと言い張れる家はどうか、と考えて、指を三つ動かして、やめた。中立を名乗る家は、たいてい三派のどれかに借りがある。借りのない家は、そもそも木箱十一を預かるだけの蔵を持っていない。
王都のどこにも置けない。それどころか、この国のどこにも置けない。
当たり前だった。
この国は、三つで割られている。割られていない場所があるなら、それは三つの外だ。
——なぜ、いままで置けていたのか。
考えて、すぐにわかった。記録院に置けていたのは、記録院が中立だからではない。中立だと三派が認めた者が、鍵を持っていたからだ。
場所ではなく、人だった。
だから私が抜けた時点で、置き場所は国内から消えている。四百年ぶん残ってきたものが、たった二日でどこにも置けなくなった。
紙は、たいていのことに強い。火にも水にも、四百年耐えてきた。
人がひとりいなくなることにだけ、弱い。
指が、地図の端まで行った。
国境。
その向こうは、隣国だ。
——隣国からの使者の一団に、そういう方がいらしたのを思い出した。
私は指を離した。
あの方が今どこにいらっしゃるかは知らない。頼れるとも思っていない。名だけを名乗る方に、四百年ぶんを預ける道理がない。
ただ、外に出るという選択肢が、そこにあることを、私は昨日まで一度も考えたことがなかった。
十一年、国の内側で、内側のことだけを考えてきた。
地図を畳んだ。
畳んでから、もう一度広げて、東の街道を指でなぞった。宿場が七つ。関所がふたつ。どちらの関所も、通行の割り当てを私が書いている。書式は覚えている。
三日目の朝に、東へ出る。
国境までは十日ほどかかる。十五日ぶんの宿代なら、ある。
その先のことは、決めていない。
決めていない、という状態のまま眠るのは、これで四晩目だった。
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