第05話 家の署名は家のもの
馬車が門をくぐったとき、玄関の灯りが全部ついていた。
まだ日のあるうちなのに、と思った。
叔父様が、玄関の前に立っていらした。
この家に来られて三年になるけれど、私が戻るのを外で待っていらしたのは初めてだ。
その後ろに、執事と、家令と、それから見慣れない男の方がひとり。仕立てのいい上着を着ていらっしゃるから、府の方だろう。もう来ていらしたのか、と思った。財務府から屋敷まで、報せは半日かからなかったことになる。
馬車が止まる。
降りる前に、マルタが小さな声で言った。
「お嬢様。わたくし、ご一緒に」
「いいえ。荷を見ていて」
降りると、砂利の音がやけに大きかった。
誰も何も言わない。府の方が、私の後ろの馬車を——正確には、荷台に積まれた木箱を、しばらく見ていらした。数えていらしたのだと思う。十一。数えたところで、中身はわからない。
叔父様が、屋敷のほうへ顎をしゃくられた。
*
応接室に通された。
自分の家で通される、というのは妙な感じがする。叔父様は暖炉の前に立ったまま、私に座るようにとも仰らなかった。
「リディア。財務府へ行ったそうだな」
「はい」
「記録院にも」
「はい」
「何をした」
「立替保証の解除を三通。それから、仲裁記録の原本の引き揚げを」
叔父様の手が、暖炉の縁を一度叩いた。
「府から使いが来た。取り消せと言ってきた」
「取り消せません」
「なぜだ」
「受理されておりますので。異議の申し立てには十四日かかります」
「では、その十四日で取り消せ」
「異議を申し立てられるのは、保証を受けていた側でございます。当家ではありません」
叔父様が、初めてこちらを向かれた。
怒っていらっしゃる。けれど、怒っている以上に困っていらっしゃるのがわかった。何が起きたのかを把握していないまま、把握していないことを知られたくない。そういう顔だ。
この方は悪い方ではない。
三年前、父様が倒れられて、家督を継ぐ男子がいなかった。傍系から呼ばれて、断らずに来てくださった。領地の見回りにも出られるし、小作の言い分もよく聞かれる。屋敷の者はみな、叔父様を慕っている。
ただ、書斎には一度も入ってこられなかった。
最初の年に一度だけ、扉のところまで来られたことがある。私が机で書いているのをご覧になって、そのまま戻っていかれた。あのとき何か仰っていただければ、と思ったことは、ある。
「なぜそんなことをした」
「婚約が解消されましたので」
「解消されたら、なぜ保証を外す」
「保証は、婚約に付いていたものでございます」
本当のことだった。
嘘を申し上げていない、という一点だけは、はっきりさせておきたかった。私は一度も、この家に嘘を申し上げていない。訊かれなかったことを申し上げなかっただけだ。
*
叔父様は、しばらく暖炉のほうを向いていらした。
それから、諭すような声を出された。
「リディア。腹立たしいのはわかる。人前であんな言われ方をして、黙っていられる娘はおるまい」
「はい」
「だがな。お前は何もわかっていない」
叔父様は振り向いて、私を見下ろされた。
「家というものは、当主が退いても、娘が嫁いでも残る。お前が出て行っても、公爵家の署名は公爵家のものだ。お前ひとりの持ち物ではない。お前が持ち出したものは、家から盗ったものだ」
「……はい」
「わかっているなら、なぜやった」
「わかっておりますので、規定通りにいたしました」
叔父様は、意味を測りかねる顔をされた。
それでいい。ここで通じてしまうと、話が長くなる。
けれど、と私は思った。
ひとつだけ、置いていくものがある。
「叔父様。ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「引き継ぎをいたしましょうか」
「引き継ぎ」
「三日いただければ、書き出せます。どこに何があって、いつまでに何を返すか。どなたにお渡しすればよろしいか、お決めいただければ、そのように整えます」
叔父様は、そのとき初めて、まっすぐに私の顔をご覧になった。
それから、鼻で笑われた。
「書類の書き方か」
「……はい」
「そんなものは、誰でもできる」
私は頭を下げた。
「かしこまりました」
誰でもできる。
その通りだ、と思った。書式を覚えれば、誰でも書ける。私が特別なわけではない。父様も、そう仰っていた。特別なのはお前ではない、お前が座っている椅子だ、と。
ただ、その椅子に座るには、三派すべてが承認しなければならない。承認は家ではなく人に与えられる。だからいま、その椅子に座れる者は——
考えかけて、やめた。
訊かれていない。
扉は、開いていた。
開いていることを、私は申し上げた。閉めたのは私ではない。
*
「三日だ」
叔父様は、暖炉に背を向けたまま仰った。
「三日のうちにこの家を出ろ。母方の縁を頼るなり、修道院に入るなり、好きにするがいい。持参金は出さん。家の名も使うな」
「かしこまりました」
「それと、その荷を降ろせ。表に積んだままだろう」
「あれは公爵家のものではございません」
叔父様の眉が動いた。
「なに」
「記録院からの引き揚げは、証人の名で行いました。家の名ではございません。証人が交代する際に、証人が引き揚げる。そういう書式でございます」
「……お前の名で、あれを持っていると」
「はい」
叔父様は、何か仰りかけて、やめられた。
書式を確かめる術をお持ちでないからだ。記録院に問い合わせれば済むことだけれど、問い合わせれば、姪に言い負かされたことが府に知れる。
この方は、いつもそこで止まる。三年、ずっとそうだった。
「……好きにしろ」
*
その夜、父様の部屋へ行った。
三年、同じ部屋で、同じ向きに寝ていらっしゃる。目を開けていらっしゃることもあるけれど、こちらをご覧になっているのかどうかはわからない。手は動かない。三年前の冬に、右も左も動かなくなった。
枕元に椅子を置いて、座った。
「父様。婚約が解消になりました」
返事はない。
「立替保証を解除いたしました。三通です。記録の原本も引き揚げました。十一箱ございました。思っていたより多うございました」
窓の外で、庭木が鳴っている。
「叔父様が、三日で出ていけと仰いました。持参金は出さないと。家の名も使うなと」
シーツの上に、父様の右手がある。
この手が動いていたころ、書斎の机はふたつとも使われていた。向かい合わせに座って、片方が書いて、片方が確かめる。確かめるほうが父様で、書くほうが私だった。私の字のほうが速かったから。
速いだけです、と申し上げたら、速いのは大事だ、と返された。
——遅いと、人が死ぬ。
あのときは意味がわからなかった。十二か、十三のころだ。意味がわかったのは、三年前の冬になってからだった。
父様のお名前も、いまも承認は生きている。三派が承認したのは、家ではなく、その人だ。だから父様が署名なされば、まだ何も終わらない。
署名なされば。
私は、シーツの上の手を見ていた。
叔父様が仰ったことは、半分は正しい。この家には、まだ署名できる者がいる。名簿の上では二人いる。
名簿は、指の動かない手のことまでは書いていない。
「父様」
私は、少しだけ声を落とした。
「ひとつだけ、教えていただきたいことがございます」
返事はない。
わかっていて申し上げている。三年、ずっとそうしてきた。返事のない人に報告するのは、意外と難しくない。難しいのは、報告し終えたあとで、部屋を出ることのほうだ。
「わたくしは、間違えましたでしょうか」
部屋は静かだった。
燭台の芯が、小さな音を立てて崩れた。
もし父様が動けたら、なんと仰っただろう。
よくやった、とは仰らないと思う。あの方は一度も、私を褒められたことがない。たぶん、こう仰る。
——それで、次はどうする。
私は父様の右手に、自分の手を重ねた。
温かい。
——三日。
書式の決まっていないことを、私は生まれて初めて、三日のうちに決めなければならなかった。
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