第04話 規定通りに
八つの鐘と同時に、財務府の窓口が開いた。
一番乗りだった。後ろに人がいないというのは、なんだか落ち着かない。いつもは書状を届けさせるだけなので、この列に並ぶのは初めてだった。
「オルデン公爵家の代理でまいりました」
窓口の書記官は、若い方だった。私の顔を見て、それから名前を聞いて、少しだけ姿勢を正された。
「本日はどのようなご用件で」
「これを」
私は書面を出した。三通ある。
書記官が一枚目を受け取って、上から下まで目を通していく。書式の確認をしているのだ。署名、日付、印。順に指でなぞって、頷いて、次の紙へ。
二枚目の途中で、指が止まった。
「……失礼ですが、これは」
「立替保証の解除でございます」
「はい。あの、拝見しております。……三通とも、でしょうか」
「三通とも」
書記官は、もう一度上から読み直された。それから、いったん顔を上げて、私を見た。
「差し出がましいようですが、これは、その、かなりの額でして」
「はい」
「金額の欄に誤りはございませんか。桁が」
「ございません。二度確かめました」
私はできるだけ、いつもの声で答えた。ここで説明を始めると、書式の確認ではない話になる。書式の確認ではない話は、時間がかかる。
「オルデン家が保証人から外れる、ということでよろしいのですね」
「はい。婚約が解消されましたので」
その一言で、書記官の表情が変わった。ああ、と納得されたのがわかる。
夜会の話は、朝までに府内にも届いていたのだろう。捨てられた家が、腹いせに手を引く。そう見えたはずだ。実際、そう見えるように書いてある。
書記官は奥へ引っ込んで、しばらくして、年かさの方を連れて戻ってこられた。
「オルデン嬢。おはようございます」
「おはようございます」
「三通、まとめてとのことですが。……分けてお出しになるおつもりは」
「ございません」
「一通ずつであれば、それぞれ別の日に処理いたしますので、その、諸方への通知も順に」
「まとめてお願いいたします」
私は書式の一行を指した。
「同一の名義から同時に提出された解除は、同時に受理する。そう書かれております」
年かさの方は、その行をご覧になって、それから私の顔をご覧になった。
「……お詳しいですな」
「書式は、覚えているだけでございます」
それ以上は仰らなかった。
「かしこまりました。受理いたします」
「規定通りに、お願いいたします」
「はい。規定通りに」
朱の印が押された。
これで終わりだった。紙が三枚、窓口の内側へ移動しただけだ。
*
記録院は、財務府から歩いて四半刻のところにある。
朝の通りは混んでいた。
荷車が列を作り、店の戸が次々に開いていく。パン屋の前で子どもが並んでいて、その向かいで、石工が足場を組み直している。橋の袂では、市の場所を巡って二人が言い争っていた。声は大きいが、手は出ない。あの手の揉め事には、決まった収め方がある。
この街のほとんどのことは、決まった収め方がある。
決めた人がいて、それを書いた紙があって、紙が残っているから、毎朝おなじように始まる。歩いている人は、そんなことを考えない。考えなくていいように作られている。
私は、それをずっと美しいと思っていた。
いまも、思っている。
*
記録院では、少し手間取った。
「持ち出しでございますか」
「はい。原本を引き揚げます」
「原本、と仰いますと」
「仲裁記録の全て。第一巻から、先月の分まで」
受付の方が、初めて聞く言葉を聞いたような顔をされた。無理もない。仲裁記録を引き揚げた者は、今までひとりもいない。
院長が出てこられるまで、四半刻ほど待った。
「オルデン嬢。この書式は……たしかに、あります。ありますが」
「証人が交代する際には、原本を引き揚げることになっております」
「それは、そうなのですが。次の証人がお決まりになってから、ということでは」
「規定にはそう書かれておりません」
院長は、書式の綴じられた古い帳面を持ってきて、その場で確かめられた。私が指した行を、二度読まれた。
「……たしかに、書かれておりませんな」
「ですので、規定通りに」
院長は帳面を閉じて、しばらく私の顔を見ていらした。
「差し支えなければ、伺ってもよろしいか。次の証人は、いつごろお決まりに」
「存じません」
「存じません、と」
「わたくしが決めることではございませんので」
嘘ではない。私が決められることではない。決められる方がどなたなのか、決め方があるのかどうか、それも私の管轄ではなくなった。
院長は、何か言いかけて、やめられた。
この方は、少しだけ知っている。何が書いてあるかまでは知らないけれど、この記録が何のためにあるかは知っている。棚を管理している方だから、当然だ。
三十年、この棚の前に立っていらした方の顔だった。
「……お手伝いする者を出しましょう」
「ありがとうございます」
*
木箱で、十一。
台車を二度に分けて出した。石畳を運ぶあいだ、車輪の音がひどく響いた。
一箱に、だいたい四十年ぶんが入る。いちばん古い箱の紙は、触れると縁が粉になった。手袋を貸していただいて、それでも指の腹に細かいものが残った。
運び出しながら、私は箱の順番だけ確かめていた。並べ替える必要はない。もともと順に入っている。この棚を作った方が、そう決めたからだ。
通りを歩く人が、何事かと振り返る。振り返って、荷を見て、興味をなくして去っていく。木箱の中身は、外からは見えない。古い紙が入った箱が十一。それだけだ。
これが何なのかを知っている人は、たぶん、いま王都に三人もいない。
馬車に積み終えたところで、マルタが不安そうに聞いてきた。
「お嬢様。これ、屋敷に運ぶのですか」
「いいえ。屋敷には置けないわ」
「では、どちらへ」
「まだ決めていないの」
本当だった。
置き場所を決めていない荷物を持っているというのは、生まれて初めてのことだった。
昨日までの私なら、決めてから動いた。決めずに動くと、あとで困る。困るのは自分ではなく、たいてい誰か他の人だから。
けれど、今日はもう、誰も困らない。
——三日で終わる、と思っていた。
一日で終わってしまった。
*
帰りの馬車は、行きより重かった。
石畳の継ぎ目で車体が沈むたび、後ろの木箱が小さく鳴る。四十年ぶんが、ひと箱。十一箱で、四百年と少し。この国が三派に割れてから、ずっとだ。
マルタは向かいの席で、膝の上の手を握ったり開いたりしていた。
「お嬢様」
「なあに」
「叔父様に、なんとご説明なさるのですか」
考えていなかった。
考えていなかったことに、そのとき初めて気づいた。私はこの二日、窓口の書式のことしか考えていない。屋敷に戻ってから何が起きるかは、一度も数えていなかった。
「規定通りにしたと、そう申し上げるわ」
「それで、通りますでしょうか」
「通らないでしょうね」
マルタが黙った。
窓の外を、いつもの通りが流れていく。パン屋の前の列はもうない。石工の足場は、朝より一段高くなっていた。橋の袂の二人は、どちらもいなくなっていた。
収まったのだろう。
誰かが収めたのか、勝手に収まったのか、それは私にはわからない。
わからないことが、こんなにあるのかと思った。
*
同じ日の夕刻。
財務府の次長は、その日最後の決裁の束をめくっていた。
三枚目までは早かった。四枚目で手が止まり、五枚目に進もうとして、四枚目に戻った。
「……これは、いつ受理された」
「本日の、開庁と同時でございます」
「誰が持ってきた」
「オルデン公爵家の、ご令嬢が」
次長は椅子から立ち上がりかけて、そのまま座り直した。もう一度、上から下まで読む。署名。日付。印。どこにも不備がない。
「止めろ」
「……は」
「取り消させろ。今から追いかけて」
「次長。受理済みの解除は、異議申し立てによらなければ取り消せません」
「何日だ」
「十四日でございます」
窓の外は、もう暗かった。
次長は書面を持ったまま、しばらく動かなかった。
「——十四日」
それから、誰にともなく呟いた。
「間に合うか?」
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