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第03話 地味で退屈な事務仕事

 屋敷に戻ると、灯りはほとんど落ちていた。


 叔父様は起きていらしたようだけれど、部屋からは出てこられなかった。扉の下から光が漏れていて、人の動く気配もあったから、聞こえていなかったはずはない。もう耳に入っているのだろう。夜会から屋敷までは馬車で四半刻だが、話はもっと早く着く。


 どういう顔をして出てくればいいか、決めかねていらっしゃるのだと思う。


 叔父様がこの家に入られたのは三年前だ。父様が倒れられて、家督を継ぐ男子がいなかった。傍系から来られた方で、悪い方ではない。書斎には、一度も入ってこられたことがない。


 廊下ですれ違った者たちは、みな、私と目を合わせなかった。


 自分の部屋へ、と思って歩いていたのに、気がつくと書斎の扉の前に立っていた。


 十一年、毎晩ここに来ている。足が勝手に来る。


  *


 燭台に火を移すと、部屋のかたちが浮かび上がった。


 壁の三面が棚で、残りの一面が窓。窓の前に机がふたつ、向かい合わせに置いてある。片方は父様の机だ。三年前からずっと、書きかけのまま何も置かれていない。


 私の机の上には、今日届いた分が積んであった。


 三つの束。いつもの高さ。


 私は椅子に座って、いちばん上の一通を取り、封を切った。


 東の司教区からの照会だった。冬の間の穀物の融通について、去年と同じ扱いでよいか、という問い合わせ。去年と同じでは足りない。今年は北の収穫が悪いから、割り当てを二分ほど動かす必要がある。


 私はペンを取って、いつもの返事を書きはじめた。


 三行書いたところで、手が止まった。


 ——もう、私が書くものではない。


 書きかけの紙を伏せる。伏せてから、これも誰かが困るのだろうな、と思った。返事が遅れれば司教区は去年と同じつもりで動く。去年と同じつもりで動かれると、北で足りなくなる。


 けれど、それはもう私の管轄ではない。


 管轄。


 便利な言葉だ。これがあると、人は何もしないでいられる。


 封筒を置こうとして、指が震えていることに気づいた。


 いつからだろう。わからない。動じてはいけないと教わって育つと、自分がいま動じているかどうかは、たいてい、いちばん最後に知ることになる。夜会のあいだ、私はずっと落ち着いていたはずだった。少なくとも、そう見えていたはずだ。


 地味で、退屈な事務仕事。


 声に出して言ってみた。


「……地味で、退屈な」


 自分の声とは思えなかった。低くて、平らで、聞いたことのない声だった。


 腹の底が、熱い。


 この束が三日止まれば、どこかで人が困る。七日で、揉め事になる。十四日で、誰かが死ぬ。


 何度か、実際に死んだ。


 三年前の冬がそうだった。


 父様が倒れられて、私も同じ流行り病で寝込んだ。六日だった。


 六日目の朝に熱が下がって、床から出られるようになって、真っ先に書斎へ行った。扉を開けたとき、束は机から落ちて床に散らばっていた。窓が少し開いていて、紙が風で寄せられていた。誰も触っていなかった。触れる者がいなかったからだ。


 私は床に座り込んで、日付順に拾い集めた。


 いちばん下にあった一通の日付は、六日前だった。北の街道の通行の割り当てについての照会で、返事さえ書けば済むものだった。三行で足りる内容だった。


 返事がないので荷が止まった。止まった荷を待つ列ができた。列は三日で村ひとつぶんの長さになって、四日目に、先を争った者たちのあいだで諍いが起きた。


 九人。


 名前は全部わかっている。後から届いた書類の、いちばん下に書いてあったから。書類というのは、そういうものだ。人が死ぬと、名前が下に増える。増えた名前は、それ以上動かない。


 私はその紙を、いまでも棚の三段目に持っている。捨てられなかった。


 それからは、熱があっても机に着いた。


 夜会を途中で抜けて、ここへ戻った晩もある。婚礼の話が出るたび、来年に、来年にとお願いした。あと一年あれば、引き継げる者を育てられるかもしれないと思っていた。三年、そう思い続けた。


 それを、あの方は一度もご覧にならなかった。


 ご覧にならなかったのは、構わない。


 見えないようにしてきたのは、こちらなのだから。目立つ仕事にしてはいけない、といちばん最初に教わった。


 七つの年だった。父様は私を膝に乗せて、この机で書類の綴じ方を教えてくださった。上手にできたので褒めていただけると思ったのに、父様は少し困った顔をされた。


 ——リディア。これができることを、誰にも言ってはいけないよ。


 なぜ、と訊いた。


 ——誰が支えているかが知れると、その誰かが狙われる。狙われた瞬間に、支えは支えでなくなるからだ。


 言葉の意味がわかったのは、ずいぶん後になってからだ。


 だから私は、書類ばかり見ている冷たい娘でいた。夜会では隅にいた。話しかけられても、当たり障りのないことしか言わなかった。褒められたことは一度もない。褒められないようにしていたのだから、当然だった。


 十一年、うまくやったと思う。


 現に、誰も気づかなかった。


 けれど。


「——ご覧になっていないものを、退屈だと仰るのは」


 言い終える前に、口を押さえた。


 誰もいない部屋で、誰に聞かれるはずもないのに。


 押さえた手のひらが、自分の息で熱かった。


  *


 しばらく、そのまま座っていた。


 窓の外が、少しずつ白んでくる。


 熱は、思ったよりも早く引いた。十一年ぶんの躾は、一晩では壊れないらしい。少し、安心した。少しだけ、残念でもあった。


 私は、開けかけた封筒を元に戻した。三つの束を、届いた順に揃え直す。日付の古いものが上、新しいものが下。これは明日、誰かが引き継ぐものだ。誰が引き継ぐのかは知らないけれど、せめて順番だけは崩れていないほうがいい。


 揃え終えて、束の上に手を置いた。


 紙の冷たさが、手のひらに移ってくる。


 誰が引き継ぐのだろう、と考えてみた。


 宰相府には書ける方が何人もいらっしゃる。書式も文章も、私より上手な方がいる。けれど、書けることと、これを預かれることは違う。


 窓の外が、少しずつ白んできた。


 屋敷が動きはじめる音がする。竈に火が入り、水を汲む音が中庭を渡ってくる。マルタが厨房で誰かと話している。いつもの朝だ。


 いつもの朝に、いつもと違うことがひとつだけある。


 この部屋で、私が何もしていない。


 ——十四日。


 異議の申し立てには十四日かかる。つまり、明日から十四日のあいだは、まだ止められる。止めたければ、誰かが気づいて、書式を揃えて、窓口に持っていけばいい。難しいことではない。ひとりでも気づけばいいのだ。


 気づく方はいらっしゃるだろうか。


 昨夜の広間に、そういう顔はなかった。財務府の方は、ひとりも来ていらっしゃらなかった。


 私は手を離した。


 それから、何も書かれていない紙を一枚、引き寄せた。


 書式は覚えている。


 この十一年で、いちばん多く書いた文書ではない。むしろ、一度も書いたことがない。父様も書かれたことはないはずだ。誰も書いたことがないから、書式だけが古い帳面の隅に残っている。


 いつだったか、棚を整理していて偶然見つけた。


 こんなものまで決めてあるのか、と思った。使うことはないだろうと思って、それでも一度だけ書き写して、覚えた。覚えるのに一晩かかった。何行めに何を書くか、印はどこに押すか、写しは何通作るか。


 あのとき、なぜ覚えたのだろう。


 わからない。ただ、書式のあるものは全部覚える、と決めていた。決めていたというより、そういう子どもだった。父様に褒められない代わりに、覚えた数だけを自分で数えていた。


 紙の上で、ペン先が少し止まった。


 止まって、それから、動いた。


 インクをつけて、私は書きはじめた。


 窓の外は、もうすっかり明るい。


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