第02話 ラウルと申します
「いま、軍と、財と、教会と。そう、仰いましたか」
どうお答えするべきか、少し迷った。
「……申し上げました」
「なぜ、その三つを」
「深い意味はございません」
嘘だった。けれど本当のことを申し上げたところで、この方に何の得もない。
男の方はしばらく黙っておられた。廊下の灯りが、外套の肩に残った埃を照らしている。ずいぶん急いでいらしたのだろう。挨拶の列に並ぶ前に着替える時間もなかったのなら、街道を三日は詰めてこられたはずだ。
「三つとも、順番に仰いましたね」
思わず、顔を上げてしまった。
「……順番」
「軍、財、教会。逆でも、ばらばらでもなかった」
背筋のあたりが、すっと冷えた。
あれは、そういう順で並べるものだ。書面の上では必ずその順で書く。けれどそれは、書面を書く側の決まりごとであって、外から見ている方が気づくようなことではない。
この方は、書面を見たことがある。
いいえ、と私は思い直した。それだけでは足りない。書面を見ただけでは、順番の意味まではわからない。同じ順で書かれた書面を、何十通も続けて見た人だけが、それを順番だと認識する。
「……失礼ながら、どちらのご出身でいらっしゃいますか」
「答えないほうがよさそうだ」
そう仰って、その方は少しだけ口の端を上げられた。笑ったというより、認めた、という顔だった。
「もうひとつ、伺っても」
「どうぞ」
「先ほどの問いに、誰か答えましたか」
私は少し考えて、正直に申し上げた。
「いいえ」
「そうですか」
その方は、それきり黙られた。
責めるでも、驚くでもない黙り方だった。ただ、聞いたことを頭のどこかに置いた、という間だった。私が書面を読んでいるときの間に、少し似ている。
「ラウルと申します」
名乗られて、私はまた戸惑った。
使者の一団に加わる方が、家名を伏せて名だけを名乗ることは、あまりない。位が低いか。あるいは、こちらに手の内を見せたくないか。
おそらく後者だ、と思った。婚約が破棄された夜である。明日から、王家との交渉の枠組みは変わる。何かを取りに来られたのだと考えるのが自然だった。
だとすれば、この方が私を見ていた理由も説明がつく。壊れた側の人間には、口が軽くなる瞬間がある。父様にも、そう教わった。壊れた家から先に話を聞け、と。いま私は、まさにその「壊れた家」なのだ。
順番に気づかれたことも、同じ理由で説明がつく。よく調べていらっしゃる。それだけのことだ。
そう考えて、私はいつもどおりの礼をした。
「リディア・オルデンでございます。もっとも、明日には、ただのリディアかもしれませんけれど」
その方が、わずかに目を細められた。
何か言われるかと思ったが、やはり何も言われなかった。
問い詰められると思っていた。あるいは、慰められるか。どちらも来なかった。
ただ一度だけ、こう仰った。
「お引き止めしました。おやすみなさい」
それだけで、廊下を戻っていかれた。
*
控えの間に戻ると、侍女のマルタが飛んできた。
「お嬢様……!」
「騒がないで。まだ夜会の最中よ」
「ですが、あの、殿下が」
「聞こえていたわ。すぐ隣にいたもの」
マルタは唇を噛んで、それから声を落とした。
「あんなことを仰って、よろしかったのですか。最後にひとつ言い返しておやりになりたいお気持ちは、わかりますけれど……あとでどう言われるか」
言い返した、と受け取られたらしい。
そう受け取るのが自然だとは思う。
外套を受け取っていると、ヴェルダ侯爵夫人が近づいてこられた。私の母の、遠縁にあたる方だ。
「リディア。気を落とすことはありませんよ」
「ありがとうございます」
「あなたはまだお若いのだから。これからは、少し肩の力を抜いて、女らしいこともお覚えなさいな。刺繍でも、お茶でも。書きものばかりでは、そうね、殿方も」
夫人は言葉を選ぶようにして、それから、優しく笑われた。
「いい機会だと思って」
「——はい。そういたします」
私は頭を下げた。
この方の領地の関税の割り当ては、先月、私が三度書き直したものだ。三度目でようやく、隣接する二領のどちらからも文句が出ない形に収まった。夫人はそれをご存じない。ご存じないまま、来年の春も同じように収まると思っていらっしゃる。
それでいい。そのために書き直したのだから。
外套を受け取っていると、宰相府の書記官の方が近づいてこられた。事務的な顔をしていらっしゃる。
「オルデン嬢。念のため申し上げますが、正式な書面が届くまでは、いかなる公的な発言もお控えください」
「かしこまりました」
「それと、宮中に置かれている私物は、後日まとめてお送りいたします。心当たりのないものが混ざっておりましたら、お申し出を」
「はい」
書記官は、手元の覚書を確かめて、それから、こう締めくくられた。
「以上でございます。長らくお勤めいただき、ありがとうございました」
私は頭を下げた。
下げながら、少しだけ待った。
引き継ぎの話が、まだ出ていない。
私が何を持っていて、誰にどう渡すのか。渡すには何日かかるのか。渡すあいだ、誰が代わりに見るのか。ふつう、退く者に最初に聞くのはそれだ。
書記官は覚書を閉じて、もう一枚めくって、それで終わりにされた。
覚書には、書いていなかったのだろう。
「……失礼いたします」
その方が去っていくのを、私は見ていた。
誰も聞かないのなら、こちらから申し出るべきだろうか。
一瞬だけ、そう思った。
思って、やめた。申し出れば、私が何をしていたかを説明することになる。説明すれば、父様の教えを破ることになる。それに——聞かれてもいないことを申し出るのは、手順にない。
外套を羽織った。
広間のほうから、まだ人の声がしていた。楽が戻っている。誰かが笑い、誰かが杯を掲げている。
可哀想に、あの方も。お気の毒だけれど、殿下のお気持ちもわかるわ。あんな冷たい顔をなさる方だもの。
ひとしきり私の話をして、それから話題は、明日の狩りのことに移った。
誰ひとり、私の問いには触れていなかった。
触れられるはずもない。あれは、答えを持っている人にしか意味のわからない問いだ。
そして答えを持っている人は、今夜、この広間にいない。
——ひとりだけ、廊下にいらしたけれど。
「マルタ。馬車を」
「……はい」
控えの間を出るとき、広間のほうがまた明るくなった。
殿下とエルナ様が、輪の中央に立っていらした。誰かが杯を掲げ、誰かが手を叩いている。おめでとうございます、という声が重なった。
エルナ様は少し困ったように笑って、殿下の袖をそっと引いていらした。急なことで、まだ心の準備が、というような仕草だった。
似合っていらっしゃる、と思った。
あの場所には、ああいう方が立っているほうがいい。私が立っていた三年間、あの円のなかは、いつも少し温度が低かった。
*
外の空気は冷えていた。
石畳に、車輪の音が近づいてくる。
馬車に乗り込むと、マルタが膝掛けを広げてくれた。窓の外を、宮殿の灯りが後ろへ流れていく。
「お嬢様。……あの、明日は」
「いつもどおりに起こしてちょうだい。八つの鐘に間に合うように出るわ」
「どちらへ」
「財務府と、記録院」
マルタが、え、という顔をした。
「もう、行かなくてよろしいのでは」
「行かなくていいから、行くのよ」
うまく説明できなかったので、それきり黙った。
揺れる馬車のなかで、私は明日することを数えはじめた。
朝いちばんに財務府へ。窓口が開くのは八つの鐘。私の署名があれば、その場で受理される。異議の申し立てには十四日かかるから、実際に止まるのは受理の瞬間だ。
それから記録院へ。こちらは持ち出しの手続きが要る。書式は二種類あって、どちらでも通るが、片方は院長の決裁がいらない。決裁を待つと三日余分にかかるので、いらないほうを使う。
どちらも書式が決まっている。書式が決まっているものは、早い。
——三日。
三日あれば、すべて終わる。
規定通りに。
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