第01話 婚約破棄は承知いたしました
「リディア・オルデン。お前との婚約を破棄する」
夜会の広間の、ちょうど真ん中だった。
楽の音が止み、人の輪がゆっくりと開いていく。半歩ずつ下がって、私と殿下のまわりに、きれいな円ができた。誰かが先に気づいて、残りがそれに倣って、そうやってできた円だ。手際がいい。あらかじめご存じだった方が、何人かいらしたのだろう。
驚いてはいけない。困ってもいけない。そう教わって育った。
だから私は、いつもどおりの顔で膝を折った。
「理由をお伺いしても、よろしいでしょうか」
「理由? 自分でわからないのか」
殿下が笑われる。つられて、どこかで誰かが笑った。
「この三年、俺が話しかけて、お前がまともに顔を上げたことが何度ある」
「……申し訳ございません」
「謝るな。腹が立つ」
殿下は杯を近くの者に押しつけて、私を見下ろされた。
「知っているか。俺はお前を、最初は買っていたんだ。物静かで、聡明で、余計なことを言わない。王妃に向いていると思った。父上もそう仰った」
殿下の声が、少し大きくなる。円の外まで届く大きさだ。
「だが三年だ。三年見ていて、俺はようやくわかった。お前は物静かなんじゃない。興味がないんだ。俺にも、この国にも、何ひとつ」
違います、と申し上げようとして、やめた。
申し上げてどうなるものでもない。それに、興味がないように見えるよう振る舞ってきたのは事実だ。私の側の仕事が、うまくいっていたということでもある。
「お前は一度も俺を見なかった。いつも書類だ、帳面だ。夜会の途中で消えて、朝まで書斎にこもっていたそうだな。あんな地味で退屈な事務仕事に、公爵家の娘が一生を費やすつもりだったのかと思うと——哀れですらある」
殿下の腕には、エルナ・ヴィント男爵令嬢が手を添えていらっしゃる。小柄な方だ。今夜のドレスは淡い水色で、よくお似合いだと思った。
その方が、困ったように眉を下げて、それから、ためらいがちに口を開かれた。
「あの方、いつも書類ばかり見ていらして。殿下のお顔を、一度もご覧になりませんでしたもの」
やわらかな声だった。
広間の空気が、責める側ではなく、庇う側の色になった。
まあ、ひどい。けれど本当のことでしょう。ご婚約なさってから三年、殿下と踊られたのを見たことがないわ。あれではねえ。扇の陰で、囁きが行き交った。
悪意は、たぶん、ない。
それがいちばん、厄介だった。
円の縁に、見知った顔があった。
南のグレイ伯爵。去年の夏、水利の件で三家が揉めたときに、いちばん強く食い下がってこられた方だ。落としどころを書いたのは私で、その書面を三日で仕上げたのも私だった。伯爵の領地は、あれで持ち直している。
目が合った。
伯爵は、すぐに逸らされた。
当然だと思う。あの書面には、私の名は入っていない。入れないことになっている。伯爵がご存じなのは、宮廷のどこかで話がまとまった、ということだけだ。
逸らされた目を追わずに、私はまた顔を伏せた。
顔を伏せたまま、私の目は勝手に広間を数えていた。
招かれた家の数。空いたままの席。今夜、姿の見えない顔がいくつあるか。北の三家が揃って来ていないこと。財務府の方が、ただのひとりもいらっしゃらないこと。
——癖だ。もう、必要のない。
膝を折ったまま、少しだけ考える。
ここで何を申し上げても、意味は通じない。それはわかっていた。私が何をしているかをご存じない方に、それを失うとどうなるかだけを説明する方法はない。
それでも、確認しておかなければならないことが、ひとつだけあった。
これは意地ではない。手順だ。引き継ぎの前には、必ず確かめることになっている。
「——かしこまりました」
顔を上げる。
「ひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「まだ何かあるのか」
「わたくしどもが抜けましたあと、軍と、財と、教会は。どなたが、おまとめになりますか」
しん、と広間が静まった。
静まった、というより、意味を探して止まった、という間だった。楽師が譜面から顔を上げ、給仕が足を止め、扇が動かなくなる。
その静けさの質を、私はよく知っている。書斎で書面を読んでいて、数字がひとつ合わないときの静けさに似ていた。何かがおかしい。けれど、どこがおかしいのかがわからない。
誰かが小さく笑った。笑って、それから、自分の笑い声が広間に響きすぎたことに気づいて、口をつぐんだ。
一拍おいて、殿下が眉をひそめられる。
「……何の話だ」
その通りだ、と思った。
この方はご存じない。ご存じないまま、この三年をお過ごしになった。それでよかったのだ。それでいいように、こちらが整えてきたのだから。
エルナ様が、殿下の袖を軽く引かれた。何かお困りのようですけれど、と気遣うような目で、私を見ていらっしゃる。
この方は、たぶん、明日から書斎の椅子に座られる。
「失礼いたしました。お答えは、結構でございます」
もう一度、頭を下げた。
どこかで、誰かがくすりと笑った。負け惜しみだと思ったのだろう。無理もない。捨てられた娘が、最後にわけのわからないことを言って去る。そういう夜は、これまでにも何度かあった。
私が何をしていたのか、この広間にいる誰も知らない。
知らないままでいいように、してきたのだから。
*
円が崩れ、楽が戻りはじめたころ、宮内官の方が私のところへ来られた。年配の、いつも書面を届けてくださる方だ。
「オルデン嬢。婚約解消の正式な書面は、後日あらためてお届けいたします。書式が整い次第となりますので、十日ほどお待ちいただくことになるかと」
「かしこまりました」
「……お力落としのないよう」
その方は言葉を探して、それから、少し困った顔で頭を下げて去っていかれた。悪い方ではない。ただ、書面が届くまで何も始まらないと思っていらっしゃる。
書面は要らない。
解消は、殿下が広間で仰った時点で成立している。あとに届くのは、成立したことを記録するための紙だ。手続きの上では、もう終わっている。
終わっているのなら、こちらも動ける。
広間を出ると、廊下は嘘のように静かだった。
窓の外で、庭木が風に鳴っている。灯りの届かない中庭は、ただ暗い。壁沿いの燭台がひとつ、芯を短くして揺れていた。誰かが替えるのを忘れている。明日の朝には気づくだろう。
私は立ち止まった。
明日の朝、私は何をすればいいのだろう。
七つの年から、朝に何をするかを自分で決めたことがない。決めなくてよかった。決めては、いけなかった。日の出とともに書斎に入り、届いた書状を仕分けて、順に片付ける。片付け終わるころには日が暮れていて、そうしてまた明日の分が届く。
昨日と今日と明日の区別は、届いた紙の日付だけでついていた。
その一日が、明日からない。
紙は届くだろう。けれど私の机には来ない。誰か別の方の机に積まれて、その方が仕分けて、その方が片付ける。それだけのことだ。
指示のない時間というものが、生まれて初めて、目の前にあった。
——それは、思っていたよりも、ずっと広い。
広くて、足の裏が落ち着かない。
立っているのに、どこにも寄りかかっていないような感じがした。
背後で、扉の開く音がした。
振り返る。
見知らぬ男の方が立っていた。
夜会の装いではない。旅装のまま通されたのだろう、外套の肩に夜気の匂いと、街道の埃が残っている。隣国からの使者の一団に、そういう方がいらしたのを思い出した。挨拶の列の、いちばん後ろにおられた方だ。
その方は、私を見ていた。
広間の全員が笑っていたあいだ、ただ一人だけ、笑っていなかった顔で。
「……失礼」
低い声だった。
「いま、軍と、財と、教会と。そう、仰いましたか」
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