第44話 誰の土地でもないところ
峠に着いたのは、四月の六日だった。
一日、遅れた。街道の途中で雨に降られて、半日足止めされたせいだ。
着いてみると、遅れたのは私だけではなかった。
*
両国の関所のあいだは、思っていたより広かった。
こちら側の関所から、向こう側の関所まで、歩いて四半刻ほど。道の両側が、少し開けている。昔は牧か何かだったのだと思う。石を積んだ囲いの跡が残っていた。
そこに、天幕が張ってあった。
三つ。
等間隔に、三角形に。
*
「オルデン嬢」
軍の方が、こちらへ歩いてこられた。
「お待ちしておりました」
「遅れまして」
「みな遅れております。雨で」
その方は、天幕のほうを指された。
「三日前に、三方とも着きました。同じ日でございます」
「……同じ日に」
「ご指定でしたので」
*
三方は、三日、この場所で待っていたことになる。
待つあいだに、話をなさっただろうか。
「三日、何をしていらっしゃいましたか」
「天幕を張りました」
「それから」
「それから、動かないようにしておりました」
その方は、少し笑われた。
「三方とも、同じことを考えました。先に話を始めると、あとであなたに叱られる」
*
私は、天幕の配置を見た。
三角形の中心が、空いている。
その空いたところに、卓がひとつ置いてあった。屋根はない。
「あれは」
「合議の卓でございます。三方の真ん中に置きました」
「屋根がございません」
「ございません」
軍の方は、そう仰った。
「屋根をどこの天幕から出すかで、揉めました」
*
私は、その卓のところへ歩いていった。
粗い板で組んだものだ。天板が反っている。急ごしらえだとわかる。
卓の脚のところに、石が四つ噛ませてあった。地面が傾いているので、水平を出したのだと思う。
石を見た。
東の石切場の石ではない。この峠の、そのへんの石だ。
*
「屋根は、要りません」
私は、そう申し上げた。
「よろしいのですか。雨が降りましたら」
「降りましたら、その日は終わりにいたします」
「終わりに」
「はい。雨の日は、書けませんので」
軍の方が、こちらを見られた。
「書くのですか」
「書きます」
*
その日の夕方、三方の代表が卓に集まった。
軍の方。財閥の若い方。教会の司祭。
三人とも、三日前と同じ顔で、少し痩せていらした。天幕暮らしは、そういうものだと思う。
私は、卓の端に立った。
座らなかった。座ると、四人目になる。
*
「明日から、はじめます」
三人が、頷かれた。
「先に、進め方を申し上げます。三つでございます」
「またみっつでございますか」
財閥の方が、そう仰った。
「三つが、いちばん覚えやすうございますので」
*
「ひとつ。ひとつの議題について、三方が順に仰ってください。順は、日ごとに変えます。今日は軍、財、教会。明日は財、教会、軍」
「なぜ変えるのです」
「最初に仰る方が、いちばん強うございますので」
軍の方が、頷かれた。
*
「ふたつ。決まったことは、その場で書きます」
私は、鞄から紙を出した。
「わたくしが書きます。書いたものを、三方に読み上げます。読み上げて、三方それぞれに、違わないか、とお伺いします。三方とも違わないと仰ったら、それを三通、同じ字で写します」
「同じ字」
「はい。三通とも、わたくしが書きます。写す者が違うと、字が違います。字が違うと、後で違うものだと言われます」
*
「みっつ。決まらなかったことも、書きます」
三人が、顔を上げた。
「決まらなかったことを」
「はい」
「なぜでございますか」
「決まらなかったことが残っておりませんと、次に集まったときに、また最初から始めることになります」
私は、そう申し上げた。
「決まらなかった、とだけ書いておけば、次はそこから始められます」
*
教会の司祭が、少し身を乗り出された。
「次、と仰いましたか」
「はい」
「次があると」
「ございませんと、困ります」
私は、卓の上を指した。
「十日で、全部は決まりません。三十件も出れば、決まるのは十件でございましょう。残りの二十件を、決まらなかったと書いて残します」
「……残して、どうなさいます」
「次の合議で、そこから始めます」
*
「次の合議は、いつでございますか」
「存じません」
「では、いつ開くのでございますか」
「みなさまがお決めになります」
私は、頭を下げた。
「わたくしは、今度だけでございます」
*
三人が、それぞれの顔を見合わされた。
軍の方が、口を開かれた。
「今度だけ、とは」
「立ち会うのは、今度だけでございます」
「次は」
「立ち会いません」
「では、次は誰が」
私は、そこで少し間を置いた。
「書記を、三人置いてください」
*
「三人」
「三方から、ひとりずつ。三人で同じものを書いていただきます。書いたものを、三人で突き合わせていただきます」
「三人で書けば、字が違いますが」
「違います。ですので、突き合わせます」
私は、そう申し上げた。
「わたくしがひとりで書きますと、正しいかどうかを確かめる者がおりません。三人で書きますと、三人が互いを確かめます」
*
「……それは、あなたがいらっしゃらなくても」
「回ります」
「本当に」
「回らない日もございましょう。三人が三通り書いて、揉める日も」
私は、そこで頭を下げた。
「揉めましたら、揉めたと書いてください」
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
風が出てきた。峠の風は、下より冷たい。天幕の布が、ばたばた鳴っている。
やがて、財閥の方が仰った。
「オルデン嬢」
「はい」
「あなたは、いらなくなろうとしていらっしゃいますな」
*
私は、その言い方を、少しのあいだ考えた。
考えて、そうかもしれない、と思った。
「三人で回りますと、わたくしは要りません」
「はい」
「要らないほうが、よろしゅうございます」
「なぜでございますか」
「四百年、要る者がひとりしかおりませんでした」
私は、卓に手を置いた。
「ひとりしかいないものは、そのひとりが抜けたときに、止まります」
*
三人が、黙った。
黙ったまま、三人とも、卓を見ていらした。
卓の脚に噛ませた石が、風で少し動いた。
教会の司祭が、それを直された。
*
卓のことで、もうひとつ申し上げた。
「椅子は、四つ置いてください」
「四つ、でございますか」
「はい」
三人が、顔を見合わされた。
「三方でございますが」
「四つ目には、誰も座りません」
私は、そう申し上げた。
「わたくしは立っております。座りますと、四人目になりますので」
「では、なぜ四つ」
「空いている椅子が見えておりますと、三方とも、そこに誰かが座り得ると思います」
*
財閥の方が、椅子のほうを見られた。
「……誰が座るのです」
「どなたも」
「では、意味がございません」
「意味はございません」
私は、頭を下げた。
「ただ、四百年、その席には人が座っておりました。座っていた者が抜けたので、いまこうなっております」
三人が、黙られた。
その日の夕方に、椅子が四つになった。
*
その晩、私は関所の詰所に泊めていただいた。
天幕には入らなかった。三つのうちどれかに入れば、そこの側になる。
詰所の隅で、毛布を借りて、壁にもたれて座った。
眠る前に、明日の議題を頭のなかで並べた。
三十件。決まるのは、十件。
十件でも、書いて残せば、次がある。
*
目を閉じてから、ひとつ思い出した。
三月の三十日に、棚が届いたはずだ。
三列。
組み立てておきます、とベルナー様は仰った。いちばん下の段の隣に。
空のまま、置いてある。
置いてあるところを、私はまだ見ていない。
*
その夜、峠は静かだった。
雨は、降らなかった。
*
夜中に、一度だけ目が覚めた。
詰所の窓から、外が見えた。
卓が、月の下にある。屋根がないので、そのまま見える。四つの椅子が、四方に置いてある。
ひとつだけ、誰も座らない椅子。
半年前、私はこの峠で三日待たされた。あのときは木箱十一を積んで、下の宿場町にいた。旗が二本と、旗が一本の話をした。
いまは、旗がひとつも立っていない。
立てる者がいないからだ。
私は、そのまま少し見ていた。
見ながら、明日から書くものの体裁を、頭のなかで組んだ。日付、議題、三方の発言、決まったこと、決まらなかったこと。それから、いちばん下に、書いた者の名。
名を書く。
今度は、書く。
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