第43話 もう、決めましたので
三月三十日は、街道の上で来た。
朝、宿を出て、二刻ほど走ったころに気づいた。
今日だ、と思った。
思っただけだった。何も起きない。馬は走っているし、道は乾いているし、風は南から吹いている。
三月三十日に、私の契約は失効した。
失効したことを、誰も告げに来ない。
*
告げに来る者がいないのは、当たり前だ。
契約は、期限が来れば切れる。切れたことを確認する手続きは、書いてない。書いていないのは、確認する必要がないからだ。
紙のなかで、私は今日から、この領の者ではない。
妻でもない。
どこの者でもない。
*
昼に、宿場で馬を替えた。
替えるあいだ、水をもらって、飲んだ。
飲みながら、自分の外套を見た。
留め金が四つ。全部ついている。
この外套は、王都から着てきたものだ。半年、この一枚で通した。城で新しいものを勧められたけれど、断った。断った理由は、あのときは考えなかった。
いま考えると、たぶん、いつ出るかわからなかったからだ。
いつ出るかわからない者は、増やさない。
*
増やさないでいたのに、棚を三列頼んだ。
あれが、初めてだった。
私は水を返して、馬に乗った。
*
追いつかれたのは、その日の夕方だった。
後ろから、蹄の音が聞こえた。四騎か五騎。街道で、後ろから急いでくる者は珍しくない。私は道を空けた。
空けたのに、その一行は横で止まった。
先頭が馬を降りて、こちらへ歩いてきた。
*
仕立てのいい外套を着ていらした。
顔に、見覚えがある。
夜会の広間で、宮内官の後ろに立っていらした方だ。あのとき、名は名乗られなかった。
「オルデン嬢でいらっしゃいますか」
「はい」
「王家の使いでまいりました」
その方は、そう仰って、封を出された。
封蝋に、王印がある。
*
私は、馬を降りた。
降りて、封を受け取った。
受け取って、その場では開けなかった。
「宿場までご一緒願えますか。灯りがございませんと、読めません」
「……はい」
*
宿場の一室で、封を切った。
三枚あった。
一枚目が、王印のある正式な書状。
二枚目が、条件。
三枚目が、地位についての取り決めだった。
*
一枚目を読んだ。
——オルデン公爵家の名跡を回復し、貴殿を当主とする。父君の隠居を認め、叔父の家督相続の照会は取り下げる。
二枚目。
——貴殿を、三派の調停者として、王家の名において再び承認する。三派の同意は、王家がこれを取り付ける。
三枚目。
——東の二領は、王家がこれを買い戻し、公爵家に返す。
*
私は、三枚を卓に並べた。
並べて、しばらく見ていた。
不備は、ない。
書式も、印も、文言も、どこも間違っていない。書いた者は、たぶん、あの方だ。七年、私の書面を読んでいらした方。三派の使者として、いま峠へ向かっていらっしゃるはずの方。
その方が、王都を出る前に、これも書かれた。
*
三枚目が、いちばん効いた。
東の二領。四つの村。石屋根が二つ、藁が二つ。藁のほうは三年に一度、葺き替えの費えが要る。上が三十一戸、下が二十四戸。
五十五。
私が、三年早めた。
その五十五戸が、この紙で戻る。
*
使者の方が、口を開かれた。
「オルデン嬢」
「はい」
「不躾を承知で申し上げます」
「どうぞ」
「陛下は、あなたに戻っていただきたいと仰せでございます」
*
「殿下も」
その方は、そこで少し声を落とされた。
「殿下も、そう仰せでございます」
私は、顔を上げた。
「殿下が」
「はい」
「なんと」
「……お呼び戻ししてくれ、と」
*
その方は、卓の上の三枚を見ていらした。
「殿下は、二百七件の裁定を出されました。取り消されたものは、一件もございません」
「存じております」
「ご存じでしたか」
「数えた方が、こちらにおいでです」
その方は、少し驚かれたようだった。
「……では、お話が早うございます」
「はい」
「二百七件は、いま、どれもこれも動いておりません。動かすには、どれが正しくてどれが誤りかを分けねばなりません。分ける者が、府にひとりもおりません」
*
「殿下は、ご自分でお決めになると仰いました」
「仰いました」
「決めることは、おできになった」
その方は、そう仰った。
「決めたことを、確かめる者を、置き忘れられました」
*
私は、三枚を揃えた。
揃えて、机の上に置いた。
窓の外は、もう暗い。宿場の灯りが、道に細く落ちている。
半年前、私はこの街道を東へ来た。逆向きだ。あのときは木箱十一を積んで、置き場所を探していた。
いま、置き場所は決まっている。
置き場所も、行き先も、戻る先も。
*
「——お断りします」
使者の方が、顔を上げられた。
「……いま、なんと」
「お断りいたします」
*
「オルデン嬢。お読みになりましたか」
「四回読みました」
「四回」
「不備はございません。よくできた書面でございます」
「では、なぜ」
*
私は、少し考えた。
考えたのは、何を申し上げるかではない。何を申し上げないかだ。
申し上げられることは、いくらでもある。
三派の同意を王家が取り付ける、と二枚目にある。取り付けられるなら、この半年、なぜ取り付けなかったのか。取り付けられなかったから、こうなっている。
東の二領を買い戻す、と三枚目にある。買い戻す銭が、いまの王家にあるはずがない。
名跡を回復する、と一枚目にある。回復した名跡が、いつまでもつのか。
どれを申し上げても、正しい。
正しいけれど、それは、あちらの落ち度を並べることになる。
*
並べれば、勝ちになる。
勝ちたいわけではない。
勝ちたいわけではないというのは、たぶん、嘘だ。半分は、勝ちたい。半分は、この方に全部申し上げて、あの広間のことを一度でいいから言い返したい。
言い返したい、と思う自分がいることを、私は認める。
認めたうえで、言わない。
言えば、それは私が広間の続きをしていることになる。
私は、もう、あの広間にいない。
*
「なぜ、と伺ってもよろしいでしょうか」
その方が、そう仰った。
私は、頭を下げた。
下げて、顔を上げて、こう申し上げた。
「もう、決めましたので」
*
部屋が、静かになった。
その方は、しばらく私を見ていらした。
見て、それから、こう伺われた。
「……それだけでございますか」
「それだけでございます」
「理由を、お聞かせいただけませんか」
「ございません」
「ないはずが」
「ないのではございません」
私は、そこだけ言い直した。
「申し上げないと、決めております」
*
その方は、椅子に座り直された。
座り直して、三枚に手を伸ばして、それから、手を止められた。
「お持ち帰りいたします」
「お願いいたします」
「……陛下には、なんとお伝えすれば」
「そのままお伝えください」
「そのまま」
「お断りいたします、と。それだけで結構でございます」
*
その方は、三枚を封に戻された。
戻して、封をせずに、懐に入れられた。
「オルデン嬢」
「はい」
「わたくしは、あの晩、広間におりました」
私は、その方を見た。
「存じております」
「ご存じでしたか」
「宮内官の方の、後ろにいらっしゃいました」
その方は、そこで目を伏せられた。
「……何も、申し上げませんでした」
「はい」
「いま、それを思い出しました」
*
私は、何も申し上げなかった。
申し上げることが、なかった。
その方は、しばらく座って、それから立ち上がられた。
「明朝、発ちます」
「お気をつけて」
「オルデン嬢」
「はい」
「峠へ行かれるのですな」
「はい」
「合議に、お立ち会いになると」
「立ち会います」
*
「……王家をお断りになって、三派にはお立ち会いになる」
「はい」
「なぜでございますか」
私は、その問いには答えられた。
「王家は、わたくしに戻れと仰いました」
「はい」
「三派は、一度立ち会えと仰いました」
私は、そう申し上げた。
「戻ることはできません。立ち会うことは、できます」
*
その方が発たれたあと、私は灯りを消した。
消して、寝台に座った。
座って、今日という日を数えた。
三月三十日。契約が切れた日。
その日に、名跡と、承認と、五十五戸を断った。
断れたのは、たぶん、何も持っていないからだ。
持っている者は、断れない。持っているものを守るために、たいていのことを受ける。
私は、今日、何も持っていない。
*
ひとつだけ、持っている。
外套の内側の、いちばん深いところに、鍵が二本。
あれは、私のものではない。預かりものだ。
預かりものは、渡す先が決まっている。
決まっていないうちは、渡さない。
それだけのことだ。
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