第42話 持っていかない
持っていく理由は、はっきりしていた。
合議で、四十年前や二百年前の話が出る。出たときに、原本があれば、その場で確かめられる。確かめられれば、話が早い。
早いほうがいい。三方とも、長く留まれる状況ではない。
*
持っていかない理由も、はっきりしていた。
あれは、置き場所で意味が変わる。
峠へ持ち出せば、あれは合議のために出された紙になる。合議のために出された紙は、合議の当事者が触れる。触れた瞬間に、どなたかの紙になる。
なった時点で、四百年が終わる。
*
二日、迷った。
迷いながら、私は自分がすでに答えを持っていることに気づいていた。
持っているのに迷ったのは、答えのほうが不便だからだ。
持っていかなければ、合議はたぶん長引く。長引けば、三方のうちどこかが痺れを切らす。切らせば、まとまるものもまとまらない。
不便な答えを選ぶには、理由が要る。
*
三月二十七日の朝、私はベルナー様に申し上げた。
「木箱は、置いてまいります」
「……よろしいのですか」
「よろしくはございません。ただ、持ち出しますと、あれが誰かの紙になります」
「合議で必要になりましたら」
「そのときは、こちらへ使いを出します。峠からハルムまで七日、往復で十四日」
「十四日は、待てますまい」
「待てません」
私は、そう申し上げた。
「待てないので、待たせます」
*
ベルナー様が、こちらを見られた。
「待たせる、と」
「はい」
「なぜでございますか」
「その十四日で、あれがどこにあるかが、はっきりいたしますので」
*
説明しにくいことだった。
説明しにくいけれど、順に申し上げれば通る。
合議の席で「原本を見たい」と言われて、私が袂から出せば、あれは私が持ち運ぶものになる。持ち運ぶものは、いつか誰かが持ち去れる。
ハルムにあると答えれば、あれは動かないものになる。動かないものは、持ち去るのに七日かかる。
七日かかるものを、人は奪おうとしない。
奪うより、通うほうが早いからだ。
*
「では、通っていただくのですね」
「そうなります」
「三派の方々に、峠からハルムまで」
「はい」
ベルナー様は、そこで少し笑われた。
「オルデン様。それは、この領にとってはずいぶん都合がよろしゅうございます」
私は、手を止めた。
止めてから、そうか、と思った。
三派が記録を見るためにハルムへ通うようになれば、この領は「記録のあるところ」になる。なれば、街道の荷が増える。市が太る。
考えていなかった。
「……そういうつもりでは」
「存じております」
ベルナー様は、そう仰った。
「存じておりますので、申し上げました」
*
ひとつだけ、迷ったものがある。
九人の名前の紙だ。
三年前の冬、六日寝込んだあいだに束が止まって、北の街道で九人が死んだ。後から届いた書類の、いちばん下に名前が並んでいる。
半年前、家を出るときに、棚の三段目から抜いて持ってきた。
持っていくべきか。
合議で使うものではない。使いようがない。三派のどなたも、あの九人をご存じない。
それでも、抜き出して、鞄の底に入れた。
入れてから、なぜ入れたのかを考えた。
考えて、たぶん、置いていくと戻ってこられない気がしたのだと思った。
書式にない考え方だ。
*
支度は、思ったより少なかった。
書式の帳面の写しと、九人の名前の紙。それから、照合で脇に寄せた六件の写し。
衣類が少し。
それだけだ。
半年前、私は木箱十一と一緒に峠を越えた。今度は、鞄がひとつ。
*
マルタは、連れていかないことにした。
「なぜでございますか」
「峠の天幕に、十日いるのよ。屋根がないの」
「屋根くらい」
「それに、ここに残っていただかないと困るの」
私は、机の上を指した。
「照合の途中よ。侍従だった方と二人で、続けてちょうだい。脇に寄せる基準は、書いてあるとおりに」
マルタは、しばらく黙っていた。
「……お戻りになりますか」
「ええ」
「本当に」
「棚が届くもの」
*
その子は、そこで少し口をとがらせた。
「棚がなければ、お戻りにならないのですか」
「そうは言っていないわ」
「では、なんと仰っているのですか」
私は、答えに詰まった。
詰まって、それから、こう申し上げた。
「……戻ります」
「はい」
「戻るつもりで、出ます」
言ってから、それが答えになっていることに気づいた。
*
三月二十八日の夕方、宝物庫へ行った。
扉を開けて、壁に手を当てて、湿りがないことを確かめた。ない。
棚の並びを、いちばん下からいちばん上まで、目で追った。番号どおりだ。
半年前、これを二日かけて納めた。ひとりで運ぼうとして、三箱目で背後から声をかけられた。
あのとき、この方は上着を脱いで、袖を捲っていらした。
*
私は、扉を閉めた。
閉めて、鍵をかけた。
鍵は二本ある。扉の錠前と、内側の格子。
半年、袂に入れて持ち歩いてきた。
私は、それを外套の内側の、いちばん深いところに移した。
持っていく。
鍵は、記録ではない。記録は動かないほうがいいけれど、鍵は持ち主が持つものだ。持ち主が持っているから、あれは誰のものでもないままでいられる。
*
部屋に戻って、私はもう一枚、紙を書いた。
宛名は、ベルナー様。
——万一わたくしが戻りませんとき、宝物庫の扱いについて。
書きながら、これは書式にないな、と思った。
証人が交代する際の書式はある。証人が死んだときの書式は、たぶん、どこかにある。四百年もあれば、あるはずだ。
証人が戻らないかもしれないときの書式は、ない。
ないので、作った。
*
三行だ。
——扉は開けないでください。鍵は複製できません。三派のいずれからも、また当領からも、開けよという求めがあり得ますが、いずれもお断りください。
——三年お待ちください。三年待って、わたくしが戻りませんときは、扉を破ってください。破った旨を、三日以内に書面になさってください。
——中身は、どこへも移さず、そのまま置いてください。読みたい者には読ませてください。写しは自由です。ただし、真正であると証する者を立ててはなりません。立てた瞬間に、あれは価値を失います。
*
書いて、読み返した。
三行目が、いちばん大事だった。
誰も証明できないままにしておく。そうすれば、誰のものでもない。誰のものでもないものは、誰も奪わない。
奪ってもしかたがないからだ。
四百年、あれが残ったのは、たぶん、そういう理由だ。
守っていたのではない。
誰も欲しがらないようにしていた。
*
私は、その紙をベルナー様にお渡しした。
読まれて、しばらく黙っていらした。
「三年」
「はい」
「三年は、長うございます」
「短くいたしますと、待っていただけません」
ベルナー様は、紙を折って、懐に入れられた。
「……お戻りください」
「はい」
「オルデン様」
「はい」
その方は、そこで一度、言葉を探された。
「棚は、三月の三十日に届きます」
*
私が発つのは、三月の二十九日だ。
一日、間に合わない。
「……そうですか」
「はい。組み立てておきます」
「お願いいたします」
「どこに置きましょうか」
私は、少し考えた。
「いちばん下の段の、隣に」
片付いたものの段だ。半年前は空だった。いまは、二十枚を超えている。
隣に、三列。
埋まるかどうかは、わからない。
*
三月二十九日の朝、私は城を出た。
馬車ではなく、馬に乗った。七日の道だ。
門のところに、マルタと、ベルナー様と、侍従だった方が立っていらした。
北の橋の役人も、なぜか来ていた。
私は、頭を下げた。
下げてから、顔を上げた。
半年前、私は振り返らないことにして、屋敷を出た。
今度は、振り返った。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




